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壁にぶつかった起業家たちは、どのようにして乗り越えてきたのか?
解決までの道を共に歩んだドリームゲートアドバイザーが語る。


第165回 UIEvolution株式会社 中島 聡 2

2013/12/24

第165回 UIEvolution株式会社 中島 聡 2


第一線を走り続ける日本人プログラマーが導く、
ソフトウエアで文化を変える素晴らしき未来

 マイコン「TK-80」を購入して、プログラミングの面白さを知った高校時代。自作のCADソフト「CANDY」が大ヒットし、プログラマーとして名を売った大学時代。そんな時を経て、中島聡氏は、米国マイクロソフト本社のソフトウエアアーキテクトとなるのだが、2000年、「自分の意にそぐわず」と、同社を退社。UIEvolutionを設立し、自分の思い描く素晴らしき未来を見据え、ソフトウエアで新たな文化を創造する活動を続けている。「ハードは常に進化していきますが、どんなハードも必ず臨界点を迎えます。でも、ハードが進化していくと、これまでできなかったことができるようになる。その波打ち際を、常に走り続けていたい。かっこいいでしょ(笑)」。今回はそんな中島氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<中島 聡をつくったルーツ①>
理数系は天才肌で、科学者を夢見た少年時代。
中学時代のお気に入りはNHKの「通信高校講座」!?

 生まれた場所は北海道ですが、生後3カ月頃に、大手ゼネコンで建築設計をしていた父の転勤で東京へ。その後はずっと東京暮らしです。ちなみに、両親ともに九州から東京に出てきた人で、僕には姉が一人。典型的といえばいいのかな。日本の高度成長期を支えた、4人家族のサラリーマン家庭ですよ。ちょうど時代の変わり目で、白黒テレビがカラーになったり、電子レンジが登場したり。新しい家電がどんどん生まれていました。SF小説を読みあさっていましたね。学校の図書館の棚にあったSFはすべて読んだと思います。中でもよく覚えているのは、アイザック・アシモフの『銀河帝国の興亡』です。あと、鉄腕アトムが大好きで、子どもの頃は原子力に希望があった。もちろん、今はみんな考えが変わったけれど。小さな時から僕の夢は、科学者になること。算数と理科はすごくできて、その2教科は成績がいつも5なのですが、ほかの教科はからきし。かなり偏っていたから、親も少し心配していたみたいです(笑)。

 中学でも理系好きの偏重は変わらず。3年間ほぼ毎日、夜の7時から10時まで当時NHKで放送していた、「通信高校講座」を見ていました。中学生が、高校生が学ぶ科学、物理、地学とか。これがとても面白かったですし、自分の大きな素地になりました。ただ、姉は本当に嫌がっていましたね。ゴールデンタイムに好きな番組が見られないんだから(笑)。あとは、中2の頃、秋葉原に通って、自宅で化学実験ができる道具をそろえるために、フラスコ、ビーカーなど実験道具をよく買っていました。ある実験のために、硝酸を手に入れたくなったんだけど、当然、子どもに売ってはくれません。だったら自分でと、化学事典で硝酸のつくり方を調べたり、物理に興味があったので、瞬間移動装置やタイムマシンをつくるためにはどうすればいいか考えたり。でも、映画『蝿男の恐怖』の原作『The Fly』を読んでから、瞬間移動装置はちょっと怖くなりました(笑)。

 東京工業大学出身の父は、僕には東京大学に進んでほしかったようです。ただ、ちょうど、僕らの年代から共通一次試験がスタートすることになって……。僕は文系科目が苦手でだから、共通一次はかなり厳しい。そこで、大学までエスカレーター式で進めて、理数系の勉強に思いきり専念できる高校を探してみたんですよ。それが、早稲田大学高等学院でした。当時、早稲田大学高等学院の入学試験は英国数の3教科で、300満点中167点を取れば合格できるといわれていました。数学はほぼ確実に100点が取れる自信がありましたし、残りの英語と国語の2教科で67点なら絶対にいける。それが、早稲田大学高等学院を受験しようと思った理由です。結果、無事合格し、高校、大学、大学院と、9年間続くことになる、僕の早稲田デイズが始まりました。

<中島 聡をつくったルーツ②>
高校時代にプログラミングの面白さに開眼。
アスキー社にもぐり込み、大人顔負けの大活躍

 高校に入って間もなくして、僕が憧れていたものづくりが得意な叔父が、ある雑誌の広告を見せてくれたんですよ。それが、日本初の個人ユーザー向けマイクロコンピュータ、NECの「TK-80」。これがどうしてもほしくて、両親から8万円の借金をして購入しました。そこからプログラミングを始めるわけですが、当時は参考書もなく、正直、最初はまったくやり方がわかりませんでした。それでも暗中模索で続けていくうちに、ふっとプログラミングがわかった瞬間が訪れた――。何かが自分の中に、ガスッと入ってきた感じとでもいうんでしょうか。周囲に聞いてみると、これが起こった人、起こらなかった人がいるようですが、プログラミングにのめり込んでいく人種は、当然、前者です。そこからはコンピュータがどんどん面白くなって、ゲームや様々なツールを自作するようになりました。

 高2の頃、僕がプログラミングしたゲームやツールのコードを、『アスキー』に掲載してもらおうと、直接編集部に持ち込んでみたんです。アスキー社には、西和彦さん、吉田博英さん、古川享さん、成毛眞さんなどがいて、高校生の僕を気さくに迎え入れてくれました。それ以来、早稲田大学高等学院の授業が終わると、学校のある上石神井から、アスキー社があった青山へ毎日通うように。編集部で記事を書いたり、プログラミングの手伝いをしたりしてすごすようになりました。まあ、パソコン倶楽部のようなものですね。そうやって楽しくやっていたある日、古川さんから声がかかりました。「NECのパソコン開発担当者が、CP/M用のディスクドライブのスピードを上げられず困っている。アスキーに何とかしてほしいと相談に来たが、中島、やってみないか」と。成功させれば、50万円のインセンティブだといいます。仲間のプログラマーと2人でさっそく問題解決に取り組み、約2週間でその性能を従来の50倍ほどにアップさせました。

 結果、NECからも、アスキーからも喜ばれ、2人で100万円のインセンティブを手にしたわけですが、この話には後日談があります。その後、NECは国内パソコンシェアの80%を押さえるまでに成長していきますが、僕らが手がけ、納品したあのディスクドライブは、アスキー社がNECとの間に利用制限をつけた契約を交わしていたようです。結果、マイクロソフト社の代理店でもあったアスキー社は、MS-BASICが世の中に出るタイミングで、NECに当該ディスクドライブを使い続けたいのであればMS-BASICをライセンスしろと強要し、それがきっかけとなって、NECはMS-Dos、Windowsを採用していくことになった、と。コンピュータの黎明期に、コンピュータの世界にどっぷりつかり、自分の手足を動かすようにプログラミングができる高校生なんて、ほとんどいませんでしたからね。僕にとってアスキー社は、貴重な時間をすごした、とても面白い場所でした。