第104回 株式会社ジェイ アイ エヌ 田中 仁

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第104回
プロフィール 株式会社ジェイ アイ エヌ 代表取締役 
田中 仁 Hitoshi Tanaka

1963年、群馬県生まれ。利根川が流れる前橋市の郊外の町で育つ。高校卒業後の1981年、前橋信用金庫(現・しののめ信用金庫)に入庫。出納、融資、渉外とさまざまな業務に従事。顧客である地元社長たちの修羅場を見聞きし、ビジネスの厳しさを思い知る。1986年、知り合いの社長から誘いを受け、女性向け服飾雑貨製造卸会社に転職。営業、商品企画で抜群の成績を挙げる。1年後に退職し、1987年、服飾雑貨卸製造を個人事業として行うジンプロダクツを創業。1988年、有限会社ジェイアイエヌを設立(1991年、株式会社に改組)。2001年より、アイウエアブランド「JINS」の展開をスタートし、業績を急拡大。2006年、ヘラクレス市場に上場を果たす。2009年5月に市場投入した「エア・フレーム」は大きな話題となった。現在、「JINS」ならびに、服飾雑貨ブランド「クールドゥクルール」「ノーティアム」を全国でショップ展開している。

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ライフスタイル

好きな食べ物

寿司というより寿司屋が好き。
日本酒が好きなので、寿司屋によく行きます。日本酒と寿司屋のつまみって、最高の組み合わせでしょう。あと、ネタを仕入れて、仕込んで、お客さまのオーダーを受けて、すぐに商品を提供する商売という意味で、寿司屋は究極のSPAビジネスだと思うんです。うちの会社が目指しているものと似ているところが、好きなのかもしれません。

趣味

ウォーキングです。
仕事以外の趣味はあまりないのですが、強いて言うならウォーキング。月1で、妻と一緒に谷中とか根津とかぶらぶら町歩きを楽しむ程度ですが。昔は月に3回くらい、町歩きをしていましたが、最近はすぐに疲れちゃうんで(笑)。あと、土日のどちらかは必ず自社のショップの視察に行きます。ああ、これは仕事の話ですよね(笑)。

行ってみたい場所

スイスでしょうか。
数年前、スペインに行ってきました。ラ・マンチャ州の白い風車小屋をこの目で見たかったので。でも、「どんなだろう」って想像している時が一番楽しいですね(笑)。今行きたいのは、スイスでしょうか。僕は建築が好きで、スイスは有名な建築家を多数輩出している国。ピーター・ズンドーのヴァルスの温泉施設とか、見てみたいですね。

最近感動したこと

プロポーズ賞の受賞です。
繊研新聞が主催する、SC(ショッピングセンター)などディベロッパーが選ぶ、テナント大賞というアワードがあります。今年、ディベロッパーがどこの店にテナントになってほしいかを選ぶプロポーズ賞を「JINS」が受賞しました。多くのSCの方々が、どこよりも「JINS」を求めてくれている証ですからね。最高に嬉しかったです。

最高のかけ心地、デザイン性、最適・最低価格を約束。
「JINS」が手がける、メガネ業界のイノベーション

 メガネは高い、売り場がカッコ悪い、品揃えが少ない、受け取るまでに時間がかかる……。ユーザーが感じていた、すべての不満を解消し、高いデザイン性と低価格の両立をスローガンに、オリジナルのメガネをSPA(製造直販型小売業)で展開し、業績を急拡大。今では年間約150万本(今期2010年8月予測)を販売するメガネの人気ブランドとなった、「JINS」の生みの親が、株式会社ジェイアイエヌの田中仁氏である。「稼ぎが目的だと、顧客視点を忘れて、続かなくなります。そして起業は商いだけに、飽きないものを選ぶこと。当社の主力事業はメガネですが、そもそも僕は無類のメガネ好きではないんです。縁があってこの事業を始め、本気になったら面白くなっていったという感じでしょうか」と語ってくれた田中氏。今回は、そんな田中氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<田中 仁をつくったルーツ1>
男ばかりの3人兄弟の末っ子。遊び三昧の少年時代をすごす

 生まれは群馬の前橋市ですが、市の一番端っこのほう。町の南に利根川が流れていて、自然がとても豊かな場所でした。そういえば、隣町には、利根川を渡る渡し舟がありましたね。橋ができて、今はもうないですが。いわゆる、田舎ですよ。川で釣りをしたり、ナマズをつかまえたり、カブトムシやクワガタを捕ったり。子どもって、友だちと虫を集めた数を競い合ったりするでしょう。僕は、いつ、どこにいけば、たくさんつかまえることができるのか、自然と把握していて、その競争では誰にも負けたことがなかった。当時はそんなこと思いませんでしたが、自分がかなりの負けず嫌いということが、最近になってやっとわかりましたよ(笑)。あと、ベーゴマにメンコ、缶蹴り、ゆるい少年野球チームに入って練習したり、紅白戦をやったり。遊んでばかりの毎日でしたね。

 毎年、12月8日に開催される、地元の「稲荷祭り」もいい思い出です。多くの家の裏庭に、お稲荷さんをまつる小さなやしろがあって、お祭りの日は、そこに魚のイワシをお供えするという風習がありましてね。公民館に集まった子どもたちが、ヨーイドンで、家々を回ってイワシを回収。その数を競うという。きっと、神様がイワシを召し上がったという、しるしづくりのようなものだったのでしょう。僕は、あの家はまだお供えされていない、あの家は夕方すぎだ、なんて情報をつかんでいて、かなり効率的に行動できたので、この競争も負けたことがなかった。40~50尾くらい集めていましたからね。そのイワシをどうするか? もちろん家に持って帰って食べましたよ。あまりに多すぎて、捨ててしまうこともありましたけど……。

 勉強はほとんどしませんでしたね。それでも中くらいの成績は維持していました。実家は昔ながらの封建的な家庭でして、僕は年の離れた兄がふたりいる3人兄弟の末っ子。嫡男は偉くて、末っ子はどうでもいいという感じ。だから、期待されない代わりに、責任も軽い。毎日が楽しければそれが一番。そうやってお気楽に小学生の6年間をすごした後、普通に地元の中学へ進学します。剣道部に入ってみましたが、つまらないのですぐに退部。でも、ブラスバンド部にはずっと籍を置いていました。担当楽器はサックスだけど、練習はあまり出ない。でも、定期演奏会だけは出る。部の仲間からは、「練習も出てくれよ」と愚痴を言われて、お荷物扱いされていました(笑)。

<田中 仁をつくったルーツ2>
同類だと思っていた友人が奮起し難関校へ。人生で初めて「負け」の気持ちを味わう

 小学校から中学校まで一緒だった、同級生の従姉妹がいましてね。彼女はいつも成績が一番。かたや、僕のほうの成績はいまひとつ。勉強しないから仕方ないんですけど。そんな彼女と比較され、ますます気持ちがくさっていく。それもあって、中3くらいからグレ始めてしまうんです。高校受験も適当でした。そうそうこんなことがありました。町内に、仲の良い男友だちがふたりいましてね。偏差値もほとんど同じくらいの。僕は遊んでいたので、なりゆきで高校受験。まじめなF君は、準進学校を受験。強気のK君は、先生に無理だと言われながら、市で一番の進学校を受験。滑り止めの私立高校も受けず、落ちたら浪人するという宣言までして、必死で勉強したんです。そしたら、本当に合格してしまった。僕にとっては大きな事件。なんだかよくわかりませんが、自分は負けた……と。

 初めてですね、「俺はこれからどうするんだ?」と思ったのは。その頃ちょうど、兄が大学に通っていて、父と就職について話をしていました。「自分もサラリーマンになるのか?」。このまま高校を出て、会社勤めをしてもレールが見えているような気がして。漠然とですが、自分で商売を立ち上げるしかないんじゃないかと。K君の頑張りに、刺激をもらったんですよね。そう思いはしたものの、相変わらず遊びほうけてばかりの高校生活でしたけど(笑)。夜な夜な仲間と街をふらついたり、バイク通学禁止なのに、堂々とバイクで学校に乗りつけたり。先生もバイクは見てみぬ振りをしてくれていました。自分でいうのもなんなのですが、ある意味、愛されるキャラクターだったようです。

 通っていた高校の生徒のほとんどが、卒業後、就職します。高校での僕は、成績がそれほど悪くなく、先生の印象も良かったんですね。今もそうかもしれないですが、当時、銀行か役所が一番人気で、進路担当の先生曰く、「どちらも紹介できる」と。K君の件があってから、僕は起業志向になっていたでしょう。役所に行っても、ビジネスの勉強はできそうもない。だったら、銀行のほうがいいだろうと。そんな理由で、前橋信用金庫(現・しののめ信用金庫)への就職を決めたわけです。入庫してから、窓口出納、融資、渉外と、さまざまな業務を担当しましたが、正直、仕事自体はあまり面白くはなかった。ただ、商売の厳しさというものを、まざまざと見せつけられました。

<雇われ経験の後、起業>
ビジネスを学ぶため、信用金庫へ就職。商売の修羅場を知り、夢をあきらめかける

 窓口業務をしていると、近所の元気のいい社長が訪ねてくる姿をよく見かけるわけです。調子のいい時はいいのですが、悪い時も当然あります。ある通信販売会社の社長が、手形が落ちず、資金繰りに窮して、自殺してしまった。また、ある縫製工場の経営が傾いて、社長は東北地方へ夜逃げ。その後、自ら命を絶った、とか。そんな商売の裏表を知ったことで、「会社経営とはあまいものではないんだ」と。起業志向ではありましたが、だんだんその気持ちが萎えていく。もしかしたら、このまま信用金庫に勤め続けるほうがいいのかもしれない……。そんな考えをするようになって、段々と日々の銀行業務に埋没していくようになりました。あれは入社5年目の大晦日のこと。支店長から、「預金の目標が足りないので、これから預金を集めてこい」と指令された。大晦日の夜、お客様のご自宅を回って、「預金をお願いします」と営業するわけです。ドアを開けたら紅白歌合戦の音が聞えます。何軒行っても、「大変ね。ご苦労様」と言われるばかりで、まったく成果が挙がりません。あるお金持ちのご自宅を訪問した時のことです。そこのご主人が出てこられて、「大晦日のこんな時間になんだ! お前は物乞いか!」と罵倒された。

 これがものすごく悔しくて、眠っていた起業志向に再び火がともりました。失敗を怖がらず、やはり起業に挑戦してみよう。そして、年が明けてすぐに、上司に辞表を提出しました。実は、知り合いの経営者ふたりから、転職の誘いを受けていたんですよ。1社はコンピュータ関連事業会社、もう1社は生活雑貨の企画・製造・卸を行っている会社。何をしたいという明確な意志はなかったのですが、コンピュータよりもファッションのほうが面白そうだと感じたんですね。生活雑貨会社の社長に、「起業したいので、いつ辞めるかわかりません。それでもよろしければ」とお伝えしたところ、「それでもかまわん」と。2月に信用金庫を退職し、その会社に入社することになりました。今は大きくなった会社ですが、当時はまだ20人くらいの所帯。女性向けの雑貨を中心に扱う会社で、営業から企画までいろんな業務をこなしていましたね。

 営業をすればトップクラスの売り上げを挙げ、企画したバッグも予想以上に売れ。このビジネスが水に合ったのか、次々に良い成果を残すことができました。で、これなら自分でもできるんじゃないかという思いが膨らみまして。あとで、勘違いだったと後悔することになるのですが……。結果的に、僕は1年後にこの会社を退職。起業することになるんですね。仕事をとおして社長には、僕が一度思い込んだら突っ走ってしまう性格だということはバレていたようで。あまり強い引止めはなかったです。そして、1987年4月、個人事業として、服飾雑貨製造卸業を本業とする、ジンプロダクツを創業。前橋にある家賃5万円、8畳くらいの小さなオフィスで、事業をスタートさせました。

<資金ショートで大ピンチ!>
友人からの借金で、窮地をなんとかしのぎ切る。視察に訪れた韓国で、ビジネスチャンスに出合う

 女性向けのポーチやクッションカバーを企画して、地元の工場につくってもらい、自信満々で販売店の開拓を始めました。東京の小田急線や京王線の駅前にある、ファンシーショップを回って、営業を続けたのですが、なかなか売り上げがあがりません。「なぜ売れないんだ?」と、その理由を自分に聞いてみました。前職の会社で業績が良かったのは、しっかりと「お客様のために」を考えて、商品企画をし、営業をしていたから。しかし、起業して自分ひとりで活動を始めると、どうしても「生活のために稼がなければ」という欲がふくらんでしまう。お客様視点をすっかり忘れてしまっていたんですね。このままでは売れる商品などつくれないと反省し、初心に戻ることを決めましたが、運転資金不足が経営を逼迫させ始めます。

 そこで、実家に向かい、父に「融資を受けたいので、連帯保証人になってほしい」と頭を下げました。ちなみに、父もガソリンスタンドを運営する経営者です。それまで僕はふらふらと生きてきたので、父からの信頼を勝ち取れていなかったんですね。「そんな頼みは聞けない。帰れ! 二度とうちの敷居をまたぐな!」と……。もうこれで、家族には頼れません。ひとりでやっていくしかないと、逆に腹が据わりました。そうはいっても、事業を続けるお金は必要じゃないですか。銀行に勤めている友人に、無担保・無保証で50万円まで借りられるカードをつくってもらい、キャッシングをお願い。そんな無理を何度か聞いてもらいながら、なんとか窮地をしのいでいったんです。

 その後、エプロンの企画がヒット。理由は、ただ単に時流に乗ることができたからなんですが。東北地域の卸問屋さんが、大口の契約をくれまして。それでなんとか一息つけた。そしたら今度は自社で企画した化粧ポーチが売れ始めて、だんだん調子に乗ってきました。が、1980年代後半の円高により、海外への発注が厳しくなってきて、再びピンチに。そこで単身、中国に乗り込んで、地場企業との取引折衝を開始。その価格交渉がなんとか奏功し、また息を吹き返したと。でもこの当時、海外ルートを開拓したことが、後になって生きてくるんです。そして2000年、服飾雑貨の市場視察に訪れた韓国で、大きなビジネスチャンスと出合うことになります。日本円で3000円出せば、おしゃれなメガネが買える。それは、おもちゃのようなフレームのメガネではありましたが、同行した友人は、「日本なら3万円以上はする。2本買っておこう」と喜んでいる。韓国でのその体験が、当社を新たなマーケットに導くことになるのです。

まるで空気~「エア・フレーム」が空前の大ヒット!
独自のSPAシステムで、高付加価値の新メガネを連発

<メガネで勝負!>
お店、品揃え、価格、納期という、不満の四重奏を解決できれば勝機あり!

 帰国してすぐに、メガネ市場の調査を開始しました。メガネをかけた当社のスタッフに、「どこでメガネを買っている?」と聞くと、言いよどみながら「ロードサイドにある普通のメガネショップですよ」と。実際に、ショップを視察してみましたが、アパレルや雑貨のショップと比べると、はっきり言っておしゃれじゃない。品揃えも子どもから老人向けまでフルターゲットで、自分がほしいと思える商品が少ない。価格は3万~4万円で、すぐに持ち帰れるのかと思ったら、1週間後に取りに行かなければならない。お店、品揃え、価格、納期という、これら不満の四重奏を解決できれば、大きな成果が得られると考えました。医療的な側面がある商品ですから、厚生労働省にヒアリングし、経営コンサルタントとの面談を重ねた結果、当社にも参入できそうだと。そう結論づけ、2001年4月に福岡の天神ビブレにテナントを出店し、「JINS」第1号店をオープンさせたのです。最初から全国展開を狙っていましたので、本社から遠い福岡でやっておくのもいいだろうと。

 最初は、韓国のレンズメーカーとフレーム卸の会社から商品を仕入れるかたちで、事業をスタート。レンズ付きのセットで5000円という価格を実現。宣伝は手配りでチラシをまいた程度でしたが、オープンから1週間ほどたつと、店にはお客さまがあふれるようになりました。さらに、テレビや雑誌など、マスコミが取材してくれ、その勢いはいっきに加速し始めます。在庫が足りなくなって、午後1時には当日の販売を終了せざるを得ないほど。ただ、その夏には大手メガネ販売会社がこぞって同じ戦略を取り始めました。秋には20店ほどの格安メガネ店が同じ天神エリアに続々と出店。「JINS」の売り上げは最盛期の約半分に激減……。おまけにビブレを運営するマイカルの経営が破綻し、2000万円の売掛金がひっかかるという不運が重なりました。

 正直、「もうやめようか」とあきらめかけました。でも、天神エリアの競合店を歩いて回ってみたら、やる気が出てきた。「JINS」と違って、ほかの店にはファッションの「ファ」の字もない。こんな店に負けられるかと。そうやって一念発起し、代官山、三宮、京都に「JINS」の出店を決定。また、マーチャンダイジングの体制を整備し、すべての商品を自社で企画し、オリジナル商品の製造・販売までを手がけるSPAシステムを稼働させ、いっきに攻勢をかけました。実は、福岡の1号店のあるお客さまから、「安いものはやっぱりダメね」と言われたことがあったんです。そんな声から、メガネとしての機能はもちろん、ファッション性にもとことんこだわった商品をつくっていく必要があると強く感じていたんですね。

<改善と発展>
ユニクロを展開する柳井会長兼社長との面談が、新しいチャレンジにつながる端緒となる

 その後、現場の店長とデザイナーが協力し合い、商品開発に取り組む体制を確立したり、毎月必ず新しい商品を投入していくマーチャンダイジング手法を打ち出したり。もちろん、いろんな試行錯誤はありましたが、お客さまに選ばれるための工夫と改善を続けました。そしてメガネブームの後押しもあり、店舗数を増やし、業績も順調に推移。2006年8月8日に、ヘラクレス市場に上場を果たすことができました。当時は雑貨とメガネのトータルコーディネーションを提案する、オンリーワンの業態を目指していたんです。いってみれば、生活雑貨の無印良品のような。しかし、店舗では雑貨が目立ちすぎ、メガネが死んじゃうんですね。上場の1年後にそのことに気づき、メガネ事業を主力事業として捉え直し、軌道修正。ただ、5000円、7000円、9000円というスリープライスメガネの売り上げが業界全体で下がり始めていました。

 要は、後出しジャンケン的な販売手法を、お客さまが嫌がり始めたんですね。あらかじめセットされていた球面レンズを、薄型の非球面レンズに換えると、オプション価格が追加され、結局は1万~2万円の買い物となってしまう。そんな中、最初からレンズ代込みの価格の、競合他社の1万8900円のメガネの売り上げが伸びだしました。当社も、スリープライスの先にある新たな戦略を模索するのですが、なかなか妙案が浮かびません。2008年のクリスマスイブ、ユニクロを展開するファーストリテイリングの柳井さんに、お会いする機会を得たんです。「あなたの事業価値は何ですか?」と質問され、「ファッションのように着替えるメガネです」と答えたのですが、事業価値としては曖昧すぎることに気づかされた。もうひとつ、柳井さんからのアドバイスは、「安くても品質が悪ければ、お客さまから見向きもされない」ということ。さっそく年明けの1月7日、熱海で幹部合宿を行い、事業価値=ビジョンの再構築について議論しました。

 決定した当社の事業価値は、「メガネをかけるすべての方に、良く見える×良く魅せるメガネを、市場最低・最適価格で、新機能・新デザインを継続的に提供する」。決定した以上、すべてを具現化させなければなりません。それから導き出した結論が、デザイン性に優れ、かけ心地が良く、非球面レンズを最初からセットしたメガネを、市場最低価格で販売するというもの。そうとう高いハードルですが、それまでお付き合いのあったレンズメーカー5社を2社に絞り、生産工場も10社からクオリティの高い4社に絞り、大量発注する代わりに、価格を抑えてもらった。それでも、以前より製造原価が高いのですが……。そして、事業価値を決定してから4カ月後の2009年5月、フレーム、非球面レンズ、ケースの3点セットで4990円という、業界もお客さまも、あっと驚く市場最低・最適価格の商品で勝負をかけたのです。

<未来へ~ジェイアイエヌが目指すもの>
志をいっさいブラさず、新たな価値を提供!日本一の販売本数、売り上げを達成し、世界へ

 おかげさまで「JINS」の新しい商品は、お客さまから大きな期待をもって迎えられました。販売本数ナンバーワンのメガネ販売会社が年間約200万本ですが、2008年に100万本弱だった当社の販売本数は約150万本(今期2010年8月予測)と急増しています。ちなみに、200万本を販売している会社の店舗数は約700店舗、一方、当社の店舗数はわずか70店舗弱です。今考えているのは、早急に100店舗、数年後に300店舗と店舗数を拡大していくこと。店舗を地道に増やしていくことで、販売本数日本一のポジションは、たやすく獲得することができると思っています。そうやって、売り上げ日本一を目指し、その後、日本初、メガネのSPA 代表企業として、世界市場に挑戦していきたいですね。

 2009年9月には、弾性に優れ、大さじ一杯分の水という驚きの軽さを武器にしたメガネ「エア・フレーム」の発売を開始しています。もちろん、4990円から購入できます。この素晴らしさをできるだけ多くのお客さまに知っていただくため、会社としては初めてのテレビCMも放映。その効果もあって、大ヒット商品となり、販売本数が飛躍的に伸びました。マーチャンダイジング手法もどんどんブラッシュアップ。店舗には常時約1200本のメガネをラインナップし、毎月、約40型の新商品を投入しています。「JINS」は、ただ安いだけではなく、高いクオリティのフェアプライスというポイントを訴求していきたい。そのために、坂本龍一さん、若益つばささんとのデザインコラボ、隈研吾さん、青木淳さんなど、日本を代表する著名建築家11名とのデザインコラボなども行っています。

 本当に、安くて良い商品であれば、高級品志向の富裕層の方々にも、その価値は伝わると思うんです。だからこれからも、日本のトップクラスのアーティストとのデザインコラボは継続していきます。そうそう、この3月には、さらに軽くなった新しい「エア・フレーム」の発売が決定していますので、こちらもお楽しみに。また、現在、眼科学研究の第一人者といわれる著名な教授に、紫外線を防ぐ際のメガネの効用について調べていただいています。視力が良い人でも、伊達メガネをかけたほうが、目の健康状態を良好に維持することができるようです。「JINS」のレンズはすべてUV400カットですから、お勧めです。今後も、お客さまに喜ばれる、新しいメガネ、新しい用途、Eコマースを含めた新しい販売方法を提案し続けていきます。もちろん、他社との競争は激しくなるでしょう。でも、当社がなんのために存在しているのか、そこをブラさなければ大丈夫。今もって、かなり希望に燃えています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業の縁と出会ったら、自分が本気になれるまで踏ん張ってみることです

 どんなことでも本気になれば、自分が思っている以上の力が出せると思っています。だから、これだと思うことがあれば、本気になる努力をすることです。ただ、今の起業環境は恵まれすぎていますよね。資本金1円から会社がつくれますし、ベンチャーキャピタルがあったり、いろんな助成金があったり。起業がやりやすくなったのはいいことですが、甘えちゃうとなかなか本気になれない。松下幸之助さんや本田宗一郎さんなども、まったく何もないところから始められ、必死で事業に取り組み、本気を出したからこそ、大成功されたと思うんです。自ら甘えを断って、本気になる。それができれば、たいていのことはうまくいきますよ。僕自身も、もっと若い時にそのことがわかっていればなあと、後悔しているんです(笑)。

 これから面白いと思うのは、やっぱりネットの有効活用でしょうか。自分や家族も含め、いろんな人のネットの使い方を見ていると、まだまだ進化していきそうです。メガネ業界もそうですが、古い産業ほど、革新することで大きな可能性につながると感じています。見方を少し変えるだけで、古い産業が新しい産業に生まれ変わる。先ほども話しましたが、メガネは視力を高めてくれるだけではなく、紫外線から守るためのもの、保湿を施してくれるものと考えると、「健康状態を維持するためのツール」という、まったく新しい市場が生まれるわけです。紫外線による酸化変性が、白内障の原因といわれていますから、先ほどお話した教授との研究をこれからもしっかり進めていきたいですね。

 あとは、継続することですよ。これは、定めた事業価値や志をずっと持ち続けるしかないでしょうね。お金が目的だと、顧客視点を忘れて、続かなくなります。そして、商いだけに、飽きないものを選ぶこと。当社の主力事業はメガネですが、そもそも僕は無類のメガネ好きではないんです。縁があってこの事業を始め、本気になったら面白くなっていったという感じでしょうか。もちろん、あきらめかけたり、やめたくなったことが何度もありますよ。でも、人間にはバイオリズムがあるんだから、たまにそういう気持ちになるのもしょうがない。そう考えることにしています。なんにせよ、起業の縁と出会ったら、自分が本気になれるまで踏ん張ってみることです。そうなれば、自然とその仕事が面白くてやめられなくなってきますから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

現役社長 経営ゼミナール

Q.起業する上で事業に必要なスキルを持った人、例えばデザイナーや 製造業者と出会うにはどのような方法がありますか? (愛知県 会社員)

A.
具体的な解決策は求める職種、人材によりさまざまですからここでお答えするのは難しいような気がします。
ただ、必要な人に出会いたいのなら、まず「強く想う」ことが第一条件ではないでしょうか。己が想うことで人は知らず知らずのうちに想いの方向に向かって行 動します。それが縁となり運となるような気がします。想いが強くない人は行動に出るまでに時間がかかったり或いは結局行動にも出なかったという人も案外多 いような気がします。「想いと行動」で素晴らしい縁に出会えることを願っています。

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