第96回 特定非営利活動法人TABLE FOR TWO International 小暮真久

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第96回
特定非営利活動法人TABLE FOR TWO International 理事・事務局長 
小暮真久 Masahisa Kogure

1972年、東京都生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業後、オーストラリアのスインバン工科大大学院にて、人工心臓を研究。同大学院修了後の 1999年、マッキンゼー・アンド・カンパニー東京支社に入社。ヘルスケア、製薬、医療機器から、メディア、エンターテインメントなど、さまざまなクライアントを担当。ニューヨーク勤務を経て、2005年に映画会社の松竹へ転職。思うような仕事ができず鬱々とした日々を送る中、「本当に自分が満足できる仕事とは何か?」を自問自答する。マッキンゼー時代の先輩、世界的な経済学者との出会いに感銘を受け、社会起業家を目指すことを決意。2007年10月、特定非営利活動法人TABLE FOR TWO Internationalを創立し、理事・事務局長に就任した。先進国の飽食と、開発途上国の飢餓を同時に解消する「テーブル・フォー・ツー」の活動を、日本とアフリカを主な拠点としながら続けている。著書に、『20円で世界をつなぐ仕事』(日本能率協会マネジメントセンター)がある。

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ライフスタイル

好きな食べ物

酒の肴ならすべて。
酒の肴、いわゆる「おつまみ系」が大好きです。最近のイチオシは、オフィスの近くにある居酒屋のメニューにある「梅軟骨」。ビールには最高の相性だと思います。ビールに限らず、お酒は種類を問わず飲みますね。あとは、日本蕎麦。1日3食、蕎麦でもいいくらい。カロリーコントロールには注意しています。仕事柄、太れないですしね(苦笑)。

趣味

キックボクシングです。
5年くらい前に、ふと思い立ってキックボクシングを習い始めたんです。一対一で真剣に戦う格闘技って、たくさんあるスポーツの中で一番集中できる競技だと思うんです。練習やスパーリングの最中は、頭が空っぽになって、終わった後はスッキリ。最高のストレス解消です。怪我ですか? たぶん、肋骨にひびが入ったことは何回かあると思います。

行ってみたい場所

エチオピアです。
開発途上国支援に関わっている知り合いの多くが言うんです。「一度、エチオピアに行って、現地を視察したほうがいい」と。確かに、飢饉も多く、世界的に見ても最貧国といる国ですし。もうひとつ、私たち人類の祖先をたどると、すべての人類のDNAは、あるひとりのアフリカ人女性のDNAにつながっているという話も聞きますからね。興味のある国です。

最近感動したこと

つながる力の実感です。
熊本市内から1時間半くらいの場所にある小国市。ここの中学校で講演をさせてもらったんです。その後の懇親会に、“TABLE FOR TWO(TFT)”を応援してくれている大学生たちが自主的に集まってくれましてね。すごく嬉しかった。さらに、そこで生まれた縁で、三重大学がTFTに参加することに。活動が社会につながってきたことを実感できました。

先進国の飽食と開発途上国の飢餓を同時に解決!
10億人と10億人がお互いを救う新しい仕組み

 地球上で暮らす67億人のうち、10億人が飢えに喘ぐ一方で、10億人が肥満など食に起因する生活習慣病に苦しんでいる。この世界規模の“食の不均衡”の問題解決に取り組むべく、2007年10月、TABLE FOR TWO Internationalを創設し、理事・事務局長に就任したのが小暮真久氏。TABLE FOR TWOを直訳すると「二人の食卓」。先進国の人々と開発途上国の子どもたちが、時間と空間を越え食事を分かち合うというコンセプトだ。日本発の社会貢献活動への支援の声が、今、日本国内のみならず、世界各地から寄せられている。「3カ月毎に、支援しているアフリカの3カ国を視察のため訪れていますが、毎回毎回、まだまだ僕たちにできることがあるはずだという思いを新たにしています。絶対に、日本から世界へ広がる社会貢献活動、TFTの灯を絶対に消してはならないのです」と、語ってくれた小暮氏。今回は、そんな小暮氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<小暮真久をつくったルーツ1>
自然豊かなサッカー王国で小学時代をすごし、中学からは東京へ。体制への反抗心が生まれる

 父は百貨店に勤務する会社員。母も働いていましたが、出産後は専業主婦に。僕が生まれたのは東京の練馬区。3つ下に弟がいる4人家族の長男として育ちました。名前の「真久」は仏教信者である母が、日蓮宗の上人(高僧)につけてもらったもの。「世界平和に役立つように」という願いが込められているそうです。一番最初の記憶ですか? 幼稚園に通っていた頃、僕はいじめられっ子、いじめっ子、どちらとも仲良くなれるタイプなんだと思ったことを覚えています。わけ隔てなく、誰とでも楽しく遊んでいましたから。理由を聞かれても、よくわからないんですけど。母から聞いたところによると、特にいじめられっ子の多くが、「僕と一緒の組じゃないと幼稚園に行きたくない」って言っていたそうです。そういった意味では、幼稚園の先生たちにとっても便利な存在だったんでしょうね。

 小学校へ上がる前に、父の転勤で静岡県の浜松市に引っ越しています。その家の裏手には大きな森があって、虫捕りしたり、ザリガニ釣りをしたり、お腹が空いたらアケビやビワを食べたり。今思い出しても子どもにとっては最高の環境。あとは、友だちとキックベースに鬼ごっこのケイドロ(警察と泥棒)。とにかく毎日、外で思いっきり遊んでいました。静岡はご存じのとおりサッカー王国でしょう。男の子の9割はやっていたんじゃないですかね。僕もご多分に漏れず、5年生から小学校のサッカーチームに所属。コーチの先生がすごくいい人で、サッカーの楽しさを教えてもらった。だからサッカー、大好きでした。この頃描いた絵を見返してみると、サッカーの絵ばかりなんですよ。

 勉強は普通ですかね。算数は好きでしたけど。そうそう、英語の塾には通っていました。すごく興味があったんです、英語に。いくら遊びに熱中していても途中で放り出して、必ず塾には行っていました。で、小学校を卒業するとまた引っ越しをして、今度は東京の町田へ。この頃から反抗心が頭をもたげ始めるんですよ。もちろんサッカー部に入部しましたが、上下関係は面倒くさいし、練習もおかしなルールばかり。学校の行事や仕組みだって、“ハテナ”がつくことが多かった。きちんとした理由もなく、頭ごなしに決まりごとを押しつけられるのが、大嫌い。いちいち屁理屈をこねて、理路整然と言葉で反論していましたから、この頃の僕は先生にとってそうとうやりづらい生徒だったと思います。通知表の行動欄には、毎学期「協調性がない」って書かれていました(笑)。

<小暮真久をつくったルーツ2>
NOルールで青春を満喫した高校時代。漠然と、海外への思いがふくらみ始める

 学校のおかしな決まりごとに反抗はしていましたが、非行に走るわけではなく。大学には行きたいと考えていて、進学塾に通っていました。塾の仲間たちとのコミュニケーションは楽しかったですね。どの大学に行きたいとか、将来の夢とか、塾帰りに雑居ビルの屋上に忍び込んでだべってみたり、夜の屋上でスリルを感じながら、街を制覇した気分に浸ったり(笑)。そうそう、一応3年間、サッカー部での活動は続けています。レギュラーとして試合にも出ていましたけど、チームに一体感はないし、先生のトップダウンの指示にみんな硬直しちゃってうまく体が動かない。だから強くはなかったです。おまけに僕は膝を痛めてしまい、競技としてのサッカーは続けられなくなってしまいました。

 高校受験が無事終わり、早稲田大学高等学院に合格。制服もなく、とても自由な校風の男子校で、中学と比べたらもう“NOルール”ですよ。先生には、大学と兼務している面白い人が多かった。縄文時代のことだけを1年間かけて教えてくれた歴史の先生、株式投資の話をわかりやすく教えてくれた古文の先生、チャイムの音を聞くと心臓麻痺を起すからという理由で、15分前に授業を切り上げる物理の先生(笑)。今思えば、大学の教養課程のような授業でした。しかも、当時は卒業できれば100%大学へ進めましたからね。勉強なんかそっちのけで、みんな運動や音楽など、それぞれの趣味の世界に没頭。女子高との合コンとか、大学に入ってやることは、ほとんど高校時代に体験していました。

 僕の場合は、ずっと英語とか海外への興味があったこともあり、いつかのために耳だけは慣らしておこうと。洋楽を聞きまくり、外国映画を観まくり。特に映画は、週に最低3本くらいは観ていたと思います。映画館にもよく通いましたし、高校の近くに住む友人の家に泊めてもらってビデオを観たり。あとは仲間たちと、いろんな思い出をつくりました。雪が降った日に、誰が言い出したのか、みんなでラグビーをやることになって。しかも、全員がパンツ一丁になって白衣を着るという(笑)。3年のクラスメート40人くらいが、パンツに白衣で「ワー、ワー」とラグビーボールを追いかけながら校庭を駆け回る。先生たちも、「頑張れ~!」なんて面白がってくれて。いや、楽しい高校生活でしたよ。多感な時期にあの3年間をすごせたこと、今でも感謝しています。

<恩師との出会い>
機械への興味を失った理工学部生が享受した、人工心臓研究の第一人者の粋な計らい

 大学で何を学ぶのか? 当時の僕は理系ノリだったので、政経学部、法学部、商学部に文学部は興味なし。理系学部で何がいいか調べてみて、一番つぶしが効きそうだったのが、理工学部の機械工学科。消去法で選んだというわけです。でも、入学してすぐに失敗したと思いました。ほとんどの学生が将来は自動車メーカーなどのエンジニア志望。当然といえば当然なのですが、趣味や価値観が僕とはまったく違う。まあ、授業には出ていましたけど、自分は海外に目を向けようと。バイトしてお金を貯めて、1年の終わりに親友3人と1カ月半のアメリカ旅行に出かけたんです。これが得がたい経験となりました。まず、自分の英語がいかにダメなのか痛感できた。宿泊先のホテルがハリケーンでなくなって、モーテルに泊まることになった時もうまく交渉ができず……。変な外国人に脅されて、怖い思いもしました。ただ、日本を離れて、価値観の違う人々とたくさん交流できたことは、とても有意義な体験でした。

 帰国後、米軍の座間基地が家の近くにあったので、週に数回、ネイティブの先生から英語を学ぶことにしました。そして大学3年の時、僕は交換留学生としてスロバキアの大学で2カ月の寮生活をしています。課題をこなしつつ、さまざまな国から集った人々と、同じ釜の飯を食う毎日。この2カ月を通じて、将来は何になりたいという考え方が、ダイバーシティの中に身を置きたいという考え方に変わっていった。この感覚を、これから生きていくための軸にしよう、いつかもっと長く海外で生活してみよう、と。で、大学4年になり研究室を選択するんですが、エンジンや機械にはもう興味がないわけです。当時の僕は、モヒカンみたいな髪型にピアスで、服装も奇抜でしたから、学部内ではかなり煙たがられる存在でした。なのに、ある先生がいつも「お~、小暮君、元気か?」と気軽に声をかけてくれる。それが僕の恩師、梅津光生教授です。

 梅津先生は、人工心臓研究の第一人者で、オーストラリアの国家プロジェクトのリーダーも務められた方。無機質な機械には興味がわかないこと、海外志向であること、人の生命にかかわる仕事をしたいと思っていることなどなど、思いの丈を梅津先生にぶつけてみました。そうしたら、「じゃあ、おいで」と。すでに別の研究室に所属していたのですが、大学にかけ合って、いわゆるレンタル移籍の許可をとってくれた。母が心臓を患っていたこともあり、それからは人工心臓の研究に没頭。屠殺場に行き、殺される牛の鮮血を集めて血液の研究をし、医師と一緒にさまざまな動物実験も行いました。また、梅津先生は海外で開催される学会に何度も連れて行ってくたんですね。僕が海外志向であることを、覚えていてくださったんでしょう。さらに、「小暮君。卒業後、オーストラリアに行ってみてはどうか」と。そして、僕はそのアドバイスをお受けし、メルボルンにあるスインバン工科大学の大学院に留学することになるのです。

<意外な転身>
オーストラリアですごした4年間の研究者生活。帰国後は一転、戦略的コンサルティング会社へ

 オーストラリアは僕にはピッタリの、ある意味ゆるい時間が流れる国でして(笑)。2年間の約束が、結局4年もい続けることに(苦笑)。大学で仕事させてもらったお金で、友人たちとたくさん遊びましたけど、もちろんしっかり人工心臓の研究は続けました。今ではその当時の活動を継続している研究室もでき、大学の後輩も引き続き留学しているようです。そうそう、日本ではちょっと考えられないのですが、オーストラリアでは研究テーマの調査の一環として、医師や患者へのインタビューが行えたんですね。そんな中で患者さんたちから、「まだ若いのに、命にかかわる仕事をしているあなたは偉い」など、何度も感謝されました。英語の表現はとても豊かですから、僕はいちいち感動してしまう。感謝をされる仕事をしていることの心地良さ。これだけはずっと外せない。そう思いました。

 修士号を取得するため、学会発表をする中で、こんなことを思ったんです。優れた研究を実用化しているのは外国の企業が多い。それは、高度な研究を行う研究室と、マーケットのニーズを結びつけるプロのコーディネーターが日本には少ないから。そんな思いを友人たちに相談すると、「コンサルティングファームで働いてみては? たとえば、マッキンゼーとか」と言います。人工心臓の知識と、ビジネスプロデューサーのテクニックを持ってすれば、よりたくさんの感謝を集める仕事ができるかもしれない。そして、帰国後すぐにマッキンゼー・アンド・カンパニーの面接を受けるのです。面接の場では、人工心臓の模型を見せながら自分がやりたいことを担当者に説明しました。数人の面接を受けましたが、「あ~、この人と一緒に仕事をしてみたい」と思える人ばかり。僕の気持は決まりました。

26歳で、遅咲きのコンサルタントデビュー。ヘルスケア、製薬、医療機器から、メディア、エンターテインメントなど、さまざまなマーケットのクライアントと仕事させてもらいました。また、6年目には米国マーケットに進出する国内ヘルスケア企業の戦略的コンサルティングを担当することになり、1年間、ニューヨークに駐在しています。ニューヨークでは、マッキンゼーワールドの全体観に肌感覚で触れることができ、成長を実感する毎日を送ることができました。その後、日本支社に戻ってくるのですが、米国で感じたあのエキサイティングな日々が、どんどん後戻りしていくように思えてしまって……。一度は実業の世界を経験しておきたいと考えていたこともあり、いったんコンサルティングの世界に区切りをつけることに。そこで僕が選んだ会社は、映画の松竹。人の心を動かすエンターテインメント企業であり、古き良き日本企業です。

世界から注目を集める日本発の社会貢献活動。
2年間で200万食もの給食を開発途上国へ提供!

<社会起業への興味が芽生える>
コンサバティブな日本企業での鬱屈した日々。満足できる自分の姿を求め、心に問いかける

 松竹は、120年の歴史を誇る、かなり保守的な社風を持った企業でした。現場を担当させてほしいとお願いしたのですが、配属されたのは経営企画部。マッキンゼー時代、プロジェクトは2、3カ月で変わっていきましたから、すぐに現場に行けるだろうと考えていたのです。キーマンと言われる社員を調べ、飲みニケーションも駆使しながら提案を続けたのですが、なかなか受け入れてもらえず……。マッキンゼーでは、仕事がありすぎてため息をついていましたが、当時は仕事が充実しないため息ばかり。まるで燃えかすのような自分……。このままじゃまずいと、自分の心に「本当にやりたいこと」を聞いてみることにしたのです。記憶をたどりつつ、模造紙にこれまでの自分の人生の道のりを書き出して、自問自答を繰り返す毎日。そこからこのようなキーワードが浮かび上がってきました。

 自分が何を仕事にすれば満足できるのか? 「誰かの役に立つ活動によって感謝されること」「ゼロから自分でルールをつくれる働き方をすること」「それを共感できる仲間と一緒に継続していくこと」。NPO、NGOなら、これらを叶えることができそうだ。ただし、食っていけるのだろうか……。さらに調べてみると、マッキンゼー卒業生がけっこうNPOやNGOの運営に携わっていて、アメリカではかなりの広がりを見せている。そういえば、ビル・ゲイツもCEOを引退して、財団運営に注力すると宣言していました。マイクロソフトの経営だってそうとう面白いはずなのに、それを捨ててまでやるという。彼以外にも、ビジネスを成功させて、社会貢献活動に身を投じている起業家が米国にはたくさんいます。この方向性に興味を感じ、飛び込んでみたいと思いはしましたが、2006年当時、まだこの話を誰にどう相談すれば良いかすらわからなかった。

 そんな時に出会ったのが、マッキンゼー時代の先輩で、日本医療政策機構で副代表理事を務める近藤正晃ジェームスさんでした。近藤さんは、世界経済フォーラム(ダボス会議)から選出され、カナダのバンクーバーで行われたYGL(ヤング・グローバル・リーダーズ)サミットに参加。その際、「開発途上国の貧困・食糧問題」と「先進国の肥満・健康問題」が同時に議論されるという、世界的な食糧の不均衡に問題意識を抱き、現在の“TABLE FOR TWO”(以下、TFT)の原型となる事業アイデアを温めていたのです。先進国の飽食と、開発途上国の飢餓は、同時に解決できる仕組みがあるのではないか――。近藤さんとランチをしながら1時間の会食という約束は、終わった頃には3時間を超えていました。そして、「興味があるなら手伝ってくれないか?」というお誘いに、僕は即答していました。答えはもちろんYESです。

<TABLE FOR TWO、始動>
フィランソロピー界の重鎮に面会し決断!世界を変えるためのアクションをスタート

 その話をいただいたのが2007年の初頭で、まだ僕は松竹の社員。その後、勤務時間外にTFTの手伝いをしながら、4月、近藤さんと一緒に渡米する機会を得ました。目的は、コロンビア大学地球研究所所長であり、開発途上国支援NPO「ミレニアム・プロミス」を運営する経済学者、ジェフリー・サックス氏にお会いするためです。わずか30分ほどの面会でしたが、世界を変えられると信じる氏の言葉、目の輝き、存在全体が発するオーラに心打たれました。3年間は松竹で働くと考えていましたが、帰りの飛行機の中で意志が固まった。今すぐ僕も、世界を変えるための行動を起こそう。そして松竹に退職願を出し、正式にTFT事務局長への就任依頼を受諾。近藤さんの事務所に間借りさせてもらい、NPO法人の設立申請、TFTの活動を支援してくれる社員食堂を持つ企業への営業活動を開始しました。

 TFTの基本的な事業スキームは非常にわかりやすいものです。参加企業は自社の社員食堂で、熱量を730カロリー程度に抑えたヘルシーメニューを社員に提供し、1食の価格に上乗せした20円の寄付金をTFTに送金します。ちなみにその内の20%がTFTの運営活動費です。残りの16円が寄付金となり、「ミレニアム・プロミス」を通じて、アフリカのウガンダ、ルワンダ、マラウイ、3カ国の小学生の給食1食分として届けられる。なぜ学校給食か? 給食が出れば親は子どもを学校に行かせます。給食がなければ、食いぶちを稼ぐために子どもは働きに出され、教育の機会を失う。教育が受けられないということは、将来、収入に期待が持てる就労機会を失う可能性が高いということ。こうした負の連鎖を断ち切ることがひとつの大きな目標。そしてこの活動の継続が、先進国で肥満や生活習慣病に悩む人々にも役立つ。いってみれば、開発途上国と先進国の人々が持つ食に関する不安や悩みを、双方のカロリーを仮想交換することによって解消する仕組みといえるでしょう。

 2008年、日本では医療制度改革によるメタボ検診がスタート。企業も社員の生活習慣病予防策を講じようとしましたが、なかなか良いものが出てこない。また、企業のCSR活動(社会貢献)への意識が高まり始めたのもこの頃。そこに非常にわかりやすく、参加しやすいシンプルなスキームが誕生したというわけです。これらの時代背景が、TFTの急成長をもたらした大きな要因だと考えています。スタートからまだ2年と少しですが、伊藤忠商事、全日本空輸、東京海上日動火災保険などの大手企業、外務省、横浜市などの官公庁、お茶の水女子大学、熊本大学など教育機関、約170団体が参加。ほかデニーズ、カフェカンパニーなど約20業態の飲食店もキャンペーンなどでTFTのスキームを取り入れています。これまで本当にたくさんのメディアがTFTの活動を取り上げてくれました。立ち上げ当初、「記事を見た」といって面会に来てくれた、金髪&ピアスのお兄ちゃん。彼が栃木県で開業した飲食店も、TFTの参加店として元気に繁盛店の営業を続けています。

<未来へ~TABLE FOR TWOが目指すもの>
支援国、被支援国の数をどんどん広げ、現状の10倍、100倍の規模で給食を届けたい

 3カ月毎に、支援しているアフリカの3カ国を視察のため訪れていますが、毎回毎回、まだまだ僕たちにできることがあるはずだという思いを新たにしています。絶対に、日本から世界へ広がる社会貢献活動、TFTの灯を絶対に消してはならないと。国内を見ると、今のところ参加企業の多くが首都圏中心となっています。この活動を、地方に展開していきたいのです。たとえば大学など教育機関、新聞社などマスコミ各社、地域に根差した活動をしている組織、団体にもっとTFTの意義を伝えていきたい。そのための活動に注力しています。先日、熊本県・小国市の中学校で講演をさせてもらったのです。そこにTFTの活動に参加してくれている大学の学生が集まってくれて、懇親会を開きました。この会には、三重大学でTFT導入に向けた活動をしている人が、偶然九州を旅していたことから飛び入り参加。後日、学長に直談判し、三重大学の学食もTFTに参加してくれることになりました。

 世界も注目してくれています。インドではすでに国内の貧富のギャップを埋めるために、TFTの支部活動が始まっています。イタリアやサウジアラビアからも、「自国で展開したい。どうすれば良いか」という問い合わせが届いています。あとはやはりアメリカ。コロンビア大学で講演をしたことがきっかけで、アメリカで大人気の女性料理人が応援を申し出てくれました。アメリカでもTFTの評価は非常に高く、エリアを定めてTFT-USAのマーケティングを始めたところです。乳癌の撲滅、検診の早期受診を啓蒙・推進するために行われる世界規模のキャンペーン“ピンクリボン(Pink Ribbon)”。それと同じように、世界規模の食糧不均衡を解決する活動といえば“TFT”。最低でも5年以内に、“ピンクリボン”と同程度の認知度を誇る活動に育てていきたいと考えています。

 現在までに、約200万食、9000人が1年間給食を食べられるくらいの成果を残してきました。が、数字的には今の10倍、100倍の規模をできるだけ早く達成し、そして今以上に広い範囲の国々でこの活動を展開していきたい。そのために、コンサルタント時代の経験が生かせる。たとえば今、ファミリマートで、カロリーを抑えたキャンディの発売をスタートしています。カンロ株式会社製の袋菓子ですが、販売価格の3%がTFTへの寄付。今春、飲料商品でテストマーケティングした結果、既存商品よりも12%売れたという結果が出ています。きっとこのキャンディも、良い成果が残せるでしょう。コモディティ商品には、TFTとの親和性があると考えていますから、今後も注力していきたいです。“TFT”というブランドをしっかり確立させていきつつ、マーチャンダイジング展開で付加価値をさらに高める挑戦も面白そうです。TFTをスタートしてからまだ2年。世界を変えるためにやるべきこと、やりたいことが、まだまだ無限にあるんです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
成熟経済のあとに出現する新しい世界で求められる、
あなたの経験、専門性が何かをしっかり考えよう

 皆さんに、「早く独立しよう!」といいたいところですが、社会人にはいろんな制約がありますよね。僕自身も会社員生活を10年近く続けてきたので、簡単に決断できることではないことはよくわかっています。社会起業という言葉がまるで流行のように喧伝されていますけど、収益のことを考えるとかなりハードルの高い挑戦です。やる気だけでは立ち行かないのは事実。経験者が言うのですから、間違いありません。ちなみに、今TFTには200人くらいの社会人ボランティアが登録してくれています。新規事業立案や提携計画などいくつかのチーム分けがされていて、参加を希望する方々が自主的に、出社前の早朝や退職後の夜、休日などに集まって、TFTの活動を盛り上げるためのサロン・ミーティングやディスカッションを行ってくれているのです。

 いきなり起業するのは難しいですが、TFTを装置として使ってもらい、起業準備に役立ててもらえればと。また、ここでの出会いで、何かしらのきっかけが見つかるかもしれません。今、サロン・ミーティングのアイデアから、新しいアイテムが世に出ようとしています。TFTの活動は、お弁当派の人が活用しづらい。そこで、購入すればTFTの活動に参加できるお弁当箱を考えたと。箱の内側が色によって区切られていて、その色に合った食物をつめればバランスの良い食事になるという。試作品をつくってさまざまな会社に提案したところ、静岡県のある会社が「面白い! やりましょう」と。あと、レシピ提供会社との提携により、1ヘルシーレシピのダウンロードに対して、1円がTFTへの寄付になるとか。これからもきっと、素晴らしいアイデアがボランティアのサロン活動から生まれてくるでしょう。

 僕は、研究者、コンサルタント、事業会社社員という活動を経て、やっと一生この場所を軸として生きていきたいと思える天職に出会いました。TFTとの出会いは、確かに近藤さんがもたらしてくれたものかもしれません。でも、アイデアと行動、ノンプロフィットとフォープロフィットは別物です。両方がうまくかみ合わないと、一歩を踏み出し、継続させていくことはできなかった。戦後、日本が高度経済成長を成し遂げるためには、会社という特殊な組織が必要でした。しかし現在、経済は成熟し、社会に寄り添いながら、世界とのバランスを取りながら運営される組織が世界から求められています。そのひとつが社会起業だと思うのですが、まだ新しい形態ゆえに、足りないものがたくさんある。世界が変わろうとしている今、あなたがこれまでに培ってきた経験、専門性を生かせる場所は必ず増えていくはずです。まずは自分の軸はどこにあるのか? 自分探しから始めてみてはどうでしょう。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

現役社長 経営ゼミナール

●特定非営利活動法人TABLE FOR TWO International 小暮氏に質問

Q.どうしてもやってみたい事を見つけるにはどうしたらいいのでしょうか? (東京都:会社員)

A.
「どうしてもやってみたい事」は、結局のところ自分にしか分かりません。
子供のころに熱中した事や、1日中考えていても飽きないような事など、自分の心の声に耳を傾けてみてください。きっと何かが見つかるはずです。

起業、経営ノウハウが詰まったツールのすべてが、
ここにあります。

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