第92回 株式会社ABC Cooking Studio 横井啓之

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第92回
株式会社ABC Cooking Studio 代表取締役社長 
横井啓之 Hiroyuki Yokoi

1964年、静岡県生まれ。両親が共働きだったため、帰りの遅い母に代わり、小学生の頃から簡単な料理をつくり、弟たちに食べさせていた。高校卒業後、食品メーカー、建設業、アパレルショップ、化粧品販売など、さまざまな職場を転々とし、知人から紹介された高額食器販売の仕事に行きつく。1984年、藤枝市に食器販売の店舗をオープン。その活動の中で、料理ができない若い女性があまりに多い実情に気付く。翌年、21歳で初心者のための料理教室「ABC Cooking Studio」第1号店をオープン。口コミで人気が広がり、その後、静岡県内、愛知県、神奈川県へと進出。1999年、ガラス張りの大型スタジオをオープンした、大宮ロフト店が大ブレイク。大手流通系企業からの出店誘致が激増し、店舗数をいっきに拡大していった。今では全国105カ所、会員数は22万人を超えている。生徒の声から新たなサービスを創出し、2005年、「食育」をコンセプトにした「abc kids」を、2007年、男性も通える「+m」をスタート。婚活ブームも手伝って、男性会員も急増中だとか。最近では、「おふくろの味」を若者に伝えるためのプロジェクトも始動。「世界中に笑顔のあふれる食卓を」という企業理念のもと、海外展開への挑戦も計画している。

ライフスタイル

好きな食べ物

小さなリンゴ。
生まれて一番おいしいと思った食べ物は、ロタ島で開催されたトライアスロンに出場して、ゴール後に食べた、ちいさなリンゴです。5、6個いっきにむさぼるように食べました。あとは、生ガキと日本そばが好きですね。どちらも毎日食べても飽きないでしょう。ちなみにその昔、バレンタインデイに生ガキをもらったことがあります(笑)。

趣味

本当は仕事です。
トライアスロンを始めて6年目になります。年に1、2回大会に出て、マラソンも同じペースですね。この間は、軽井沢まで自転車で行ってきました。こう言うとスポーツが趣味っぽいですが、誘われたら断れないだけなんです。練習もほとんどしないないので、トライアスロン仲間の中で僕だけタイムが落ち続けています(笑)。

行ってみたい場所

アフリカ大陸です。
アフリカに行ってみたいですね。まだ一度も足を踏み入れたことがない、僕にとっては未踏の地です。サファリツアーとかに参加して、野生の動物たちを見てみたい。あと、ブラジルのアマゾンにも行ってみたいかな。現地に住んでいる家族が、ちゃんと笑って食卓を囲んでいるか、それも調査してみたいです(笑)。

最近感動したこと

「SPIDER」を買いました。
テレビ番組を1週間分まるごと録画できるHDDレコーダ「SPIDER」を個人的に購入してみました。法人用の「SPIDER」は、検索機能で、「いつ、どの番組で、どの会社がコマーシャルを流しているのか」までわかるんです。感動とまではいきませんが、1週間に1度、「SPIDER」を操作することが楽しみではあります。

国内105カ所、会員数22万人超の女性専門料理教室。
始まりは24年前、静岡県藤枝市のビルの1室だった

 清潔感あふれる白を基調としたキッチンスタジオ。その多くがガラス張りのため、道行く人の多くが振り返る。スタジオの中では、若い女性講師と、若い女生徒が、和気あいあいと料理をつくり、調理後の試食で盛り上がる。今では全国105カ所に店舗網を持ち、会員数はなんと22万人超。それが、料理ベタでも気軽に通える料理教室、“ABC Cooking Studio”だ。この料理教室を1985年、21歳で立ち上げ、現在も同社の代表を務めるのが、横井啓之氏である。「20歳の頃、食器販売の仕事を始めました。その活動の中で、料理ができない女性があまりに多い実情に気付き、これでは世の男性たちがかわいそうだと。そんな思いが強くなった。で、最初は顧客サービスの一環として、材料費だけもらって料理づくりを教えるようになったんですよ」と起業前の思い出話を語ってくれた横井氏。今回は、そんな横井氏 に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<横井啓之をつくったルーツ1>
共働きの両親に、ガタイのいいふたりの弟。
長男として、料理や風呂たきなど、家事を手伝う

 僕が生まれたのは静岡県の大井川のそばにある小さな町です。海にもすぐ行けましたから、周りには自然がたくさんありました。夏は近くの田んぼで泳いだりしていましたし(笑)。もともと会社員だった父は、僕が小学校1年の時に独立して、鉄工所を興したんですね。起業後、数カ月たった頃から、専業主婦だった母も父を手伝うようになりました。両親ともにどんどん仕事が忙しくなって、3人兄弟の長男だった僕が、2人の弟たちのために料理をつくったり、まきを割って風呂をわかしたり。ちょっとしたことですけど、家事を手伝うようになるんですよ。子どもの頃の性格ですか? 一言でいえば、やんちゃでしたね。

 ちなみに僕もガタイはいいですが、弟たちのほうがデカイですからね。家もちっちゃかったから、かなり窮屈な暮らしをしていました。でも、兄弟の中で、やんちゃなのは僕だけ。両親が弟たちに、「兄ちゃんみたいになってはいけない」と、いつも言っていたからでしょうか(笑)。勉強はからきしでしたが、運動は何でもオールマイティにこなしていましたね。だから、活躍できる年中行事は運動会かスポーツ大会。そうそう、体力測定ってあるでしょう。僕はすべての測定項目が満点で、小学生ながら当時の高校生の平均値を超えていました。その頃、友人につけられたあだ名は、マウンテンゴリラ。全測定項目がマンテンで、ゴリラみたいに運動神経がいいと。うまいですよね(笑)。走るのもそこそこ速かったから、地域の陸上選手に選抜されて、大会とかにも出場していました。

 中学に上がった僕は野球部に入部、したのですが、その学校の陸上部の先生がけっこう力のある人でして。小学生時代の活躍を知っていたらしく、野球部に籍を置いたまま陸上部へいわゆるレンタル移籍させられた。で、1年間、陸上部で活動するんです。2年生になって、やっと野球部に戻れたのですが、もうその頃には先輩後輩の関係など、部内の人間関係が固まっていて、まるで転校生みたいな疎外感。これじゃあ面白くないと、すぐに辞めてしまった。その後は、どこにも属さず帰宅部ですよ。生来のやんちゃな気質が首をもたげて、ちょっと不良な活動をしてみたり。その当時は、女の子にモテるなら、やっぱり不良っぽいほうがいいって思ってた(笑)。流行に乗ったといったほうがいいかもしれませんが。

<横井啓之をつくったルーツ2>
ずっとこのまま……卒業したくなかった高校時代。
卒業後に食品メーカーに就職するも、半年で退職……。

 僕が進学した高校は、普通科と英語科、女子だけの保育科がある少し変わった学校で、男女比率が3対7くらい。だから、普通科も男子10人に対して女子が35人とかいる、僕にとっては最高の環境。そんな学校ですから、野球部とかサッカー部とか、人数を必要とする男子向けの部活があんまりないんです。で、僕が選んだのは柔道部。5人いれば団体戦に出られますから。でも、部員よりも女子マネジャーのほうが多かった(笑)。普通ね、柔道部の選手って坊主頭なんですよ。なのに、僕らは長髪で茶髪。試合会場にはバイクに乗って登場。練習もそこそこに、みんなで遊んでばかりいましたから、本当に弱かったですね(笑)。ただ、高校時代は毎日が最高に楽しかった。将来のことなんかまったく考えてなくて、できることなら卒業せず、ずっとこのままの時間が続けばいいのにと思っていました。

 卒業後の進路を選択するタイミングが訪れましたが、どうしても働きたくなかった。だから就職したくない。でも、勉強も嫌い。どっちかを選べと言われたら、まだ勉強のほうがましかと思い、「大学に行きたい」と両親に言ってみたんです。そしたら、「おまえが勉強するはずがない。大学のお金はいっさい出さない」と。確かに高校時代、悪さをして通算5回も謹慎させられて、何度も学校に呼びつけられた父母にとっては当然の答えです。それで大学進学はあきらめて、高校卒業後、父の紹介で食品メーカーに就職することになりました。静岡にある営業所に配属となり、会社の寮で生活しながら、ルートセールスをするわけです。そもそも雇われて働くこと自体が嫌だったし、給料も安い。寮費に生活費、車の維持費などに使ったら、月に1000円しか残らない。このままではいつまでたっても、憧れの外車は買えないし、思い描いていた豪華な生活もできません。結果、入社半年後には、この会社を退職していました。

 建設会社に転職しましたが、3日でリタイヤ。その後は、ぶらぶらした生活を1年くらい続けたでしょうか。家族には建設現場で働いていると伝えていましたから、帰宅前に学校のグランドに行って、作業服に土をつけたりして。そんなある日、「フルコミッションの食器販売をやってみないか」と知り合いから誘われて乗り気になった。なぜやる気になったかというと、それはもちろん、売れば売っただけ収入が増えるから。頑張れば、会社員の数倍の収入を手にすることができると。そんな仕事があることを初めて知ったんですね。グラスやお皿など、60種類くらいの食器がセットになっていて、価格は10万円ほど。セールストークは「器が良ければ、どんな料理もおいしく見える」、です。

<自動車事故で腹を決める>
食器販売店が、いつの間にか和気あいあいの料理教室に。
料理が苦手な女性のために、社長自らが調理法指南

 営業スタイルは、いわゆる職域販売。毎日、1時間以上かかる町まで車で出かけ、昼休みの時間、会社の食堂などをお借りして、女子社員の方々に食器を売らせてもらうんです。これがけっこう売れたんですよ。それでいい気になって、高級外車を購入したのですが、居眠り運転で人身事故を起こしてしまった。免許もなくなり、残ったのは700万円の借金です。あればあるだけ使っちゃうから、さらに貧乏になってしまった。車が使えないと、職域販売に出かけられません。さてどうしようと悩みましたが、落ち込んでいても何も始まらないと腹を決め、静岡の藤枝市に食器販売の店舗を構えることにしたんです。1984年、僕が20歳になったばかりの頃でした。セールストークは相変わらず、「器が良ければ、どんな料理もおいしく見える」。さらにここに工夫を加え、自分で料理した肉じゃがやお浸しなど、簡単な料理を皿に盛りつけて営業してみたんです。

 すると、店舗にやってくる同年代の若い女性客たちから、「食器も素敵だけど、料理がおいしそう。つくり方を教えてほしい」とお願いされるように。「僕の料理は自炊レベル。藤枝駅周辺に料理教室がいくつもあるから、そこで習えば?」と伝えると、「玉ねぎもむけない私みたいな料理ベタが行っても覚えられない。あそこは料理好きの主婦がレパートリーを増やしに行くところ」なのだと。聞けば、一般の料理教室は、講師が数十人の生徒にまず調理方法を講義して、その後、4、5人のグループに分かれて一斉に料理づくりを始める。だから、料理ベタな人は、テーブル拭きや後片付けなどの雑務に追いやられがちになる。なぜなら、手を出して失敗するのが怖いから。なるほど、と思いました。あと、料理ができない若い女性があまりにも多いことがわかってきました。

 その当時、若くして結婚した僕の男友達は、仕事を終えたらいったん実家に寄って食事して、それから帰宅していました。奥さんの料理がまずくて食えないんですって。料理ができない女性があまりに多い実情に気付き、これじゃあ世の男性たちがかわいそうだと。そんな思いが強くなり、最初は顧客サービスの一環として、材料費だけもらって料理づくりを教えるようになったんですよ。料理ベタでも友達感覚で気軽に学べる僕のレッスンはすぐに評判となり、口コミで若い生徒さんがどんどん増えていきました。これが“ABC Cooking Studio”の原点であり、始まりなんです。もちろん、「“ABC”は、料理の“いろは”から教えます」の意味。ちなみに、先ほど話した男友達からも、奥さんを通わせたいとお願いされました(笑)。

<成功と失敗>
料理が得意でない女性でも通える料理教室が大ヒット!
本業以外の新規事業に乗り出すも、ことごとく頓挫……

 僕の予想以上のスピードで料理教室は人気を博し、翌年の1985年に“ABC Cooking Studio”という屋号で事業化。卸先から在庫を仕入れる食器販売は在庫リスクが発生しますが、料理教室はほとんどその心配がありません。売上比率をリスクの少ない料理教室にシフトしていきたいという思いもありました。生徒さんの中から、コミュニケーション能力が高そうな人に「先生をやってほしい」と声をかけ、少しずつスタッフを拡充。料理がすごくうまくなくてもいいんです。それよりもABCでは、生徒さんを楽しませてくれて、明るい雰囲気をつくってくれる女性を選びます。本質は料理を習うことですが、楽しくないと続くかないじゃないですか。だから、一般の料理教室のような調理方法の講義はなし。レシピもイラストで描かれていてわかりやすい。ひとりの講師が4、5人の生徒さんについて教えるので、みんなが和気あいあい、楽しい雰囲気の中で主人公になれる。それがうちのやり方であり、コンセプトです。

 4年後の1989年には、富士市、浜松市、静岡市にも進出し、社員数も20名くらいになっていました。その後も愛知県、神奈川県へと進出し、順調に成長していきます。でも、そもそも僕は飽き性なんですよね。新しいことを始めるのが大好きなんです。ほかのビジネスでも自分は絶対に成功できると勘違いしてしまった。恥ずかしながら、本当にいろいろなビジネスに手を出しましたよ。ブティックでしょう、深夜営業の美容院でしょう、ほかにも中古車販売、海の家、人材派遣会社と、やりたいと思ったことはすべて挑戦してみたんです。でも、ブティックには売れ残りの山ができ、海の家は平日や雨天時の開店休業状態に悩まされました。美容事業に乗り出そうと栽培を始めたアロエには霜が降り、百数十万円かけて購入した苗を一晩で全滅させてしまった……。

 この頃、「趣味は?」と聞かれたら、「新会社をつくること」。真面目な話、自分の給料のすべてを新規事業に使っていましたから。唯一、人材派遣会社だけは売却することができましたが、そのほかの事業はすべて頓挫。隣の芝生は青くないということが痛いほどわかりましたし、若いうちにこれほどたくさん失敗できたことは、今になって思えばですけど、得がたい経験です。アロエの栽培に失敗した1990年、女性社員たちから、「社長、そろそろいいでしょう。いい加減に戻ってきてください!」と真剣に諭されて、目が覚めました。そんな紆余曲折を自ら引き起こしはしましたが、僕は初心に戻り“ABC Cooking Studio”の経営に再度全力を尽くす決心をするんです。

ひとつでも多くの食卓に笑顔を増やすこと。
これこそが、ABC Cooking Studioの存在意義

<難関! 教室の確保>
大宮ロフトで始めた、ガラス張りのクッキングスタジオ。
この成功を機に、有名流通企業から出店誘致の声が舞い込む

 スタジオの拠点を増やしていく中で、ひとつ大きな悩みがありました。スペース確保のハードルが高いのです。料理教室ですから、本来であれば飲食店用 途のスペースを借りるのがベストなのですが、家賃が高いんですね。なので、家賃が比較的安価なオフィス用途のスペースを借りることにしていました。それでも、不動産会社や物件オーナーから、「料理教室をやるのなら、かなり火を使うんじゃないか? においが付くんじゃないか? 生徒がたくさん来てほかのテナントに迷惑かけるんじゃないか?」と疑われ、嫌われる。そこで、「いえいえ、火はあまりつかわないですよ。だから、煙も出ませんし、においも当然、付きません。生徒もそんなに集まりませんよ」と、ごまかしながら何とかテナント契約を結ばせてもらってました(笑)。でも、ほとんどの場合、路面店ではなく、ビルの3階とか4階の、いわゆる空中店舗になってしまうんです。

 ABCのスタジオは女性講師やスタッフがすごく頑張っていて、レッスン中は活気にあふれ、終了後もみんなでつくった料理を食べ合って盛り上がります。エレベーターに乗ってスタジオまで上がって来てくれさえすれば、明るく楽しげな雰囲気にひかれて、必ず入会してくれるんですけど……。ビルの空中階まで、いかにして足を運んでもらうか。ここに新規会員獲得の難しさがあったのです。僕は、この問題を解決する方法を常に模索していました。転機となったのは、1999年、現・さいたま市の大宮ロフトに、ガラス張りのスタジオをオープンしたことです。伏線は少し前にありました。西新宿にある高層ビル地下に、正面のガラスウィンドウ越しに内側が見える「新宿スタジオ」をオープンしていました。ABCがメインターゲットとする女性のF1層が少ないエリアでしたが、ここが予想以上の生徒集めに成功し、話題になっていたのです。

 西武百貨店の跡地に大宮ロフトができることになり、集客につながる何か大型のテナントを探していたそうです。この時が初めてです。向こうから、「ぜひ入店してほしい」と頼まれたのは。最高のスタジオにしようと気合いが入りました。ABCの女性たちが楽しそうに料理している姿をできるだけ多くの人に見てもらいたいと、店内の壁を白で統一して、明るくやさしい照明をつけ、外壁はすべてガラス張りに。さらにスタジオ内に、当時発売されたばかりの「i-Mac」を全色買ってきて、誰もが自由に使えるように開放し、ズラリと並べてディスプレイ。オープン後の結果は、かなりの大ブレイク。この大宮ロフトでの成功がきっかけとなって、さまざまな企業からお声がかかるようになっていくんですよ。

<105カ所のスタジオに、会員数22万人強>
生徒の声をしっかり受け止めながら、ABCは進化を続ける。
フリー通学制、男性向け教室など、新サービスも盛りだくさん

 大宮ロフトスタジオがオープンした後、多くの流通系企業から「ぜひうちにもスタジオを開いてほしい」という声が届くようになり、出店ペースはいっきに加速していきました。ABCの講師も生徒さんも中心は20代、30代の女性です。いわゆるF1層という、多くの企業にとって魅力的な顧客候補である女性たちが、楽しく時間をすごせるサービスを提供できるテナントを探していたのでしょう。今では、東京ミッドタウン、ららぽーと、イオンモールなどなど、首都圏や地方都市にある、名だたる人気施設の主要コーナーに誘致いただき、スタジオをオープンすることができていています。現在、北海道から九州まで105カ所のスタジオが稼働しており、会員数は22万人を超えました。そして、講師、社員を合わせ、3500人を超えるABCのスタッフが今日も一所懸命活動しています。

 その昔、好き勝手に新規事業にチャレンジしていましたが、今では生徒さんの声をしっかり聞きながら、本業に関連するかたちの新規事業を派生させています。たとえば、ABCの講師、スタッフは女性がほとんどを占めるのですが、彼女たちから「社長、誰かいい人を紹介してください」と、昔からよく頼まれていました。一方、独身の男友達からは「横井、おまえの会社は料理上手な若い女の子が多いんだろ。誰か紹介してよ」と。で、ABCのコンセプトは女性専門の料理教室だったのですが、これからはさりげない男女の出会いの場があってもいいかもしれないと考え、2007年に、男性も通える“ABC Cooking Studio +m”をスタート。まだここからのカップルは誕生していないようですが、新しいかたちの“婚活”の場として盛り上がってくれるといいですね。そもそも料理は自分のためではなく、誰かのためにつくることに本当の喜びがあるんですから。

 結局のところ、当社が手がける本業は料理教室。生徒さんひとりあたり、何千円のレッスンフィーの足し算がすべてです。その本質を忘れずに、これからも生徒さんの利便性、満足度を高めながら経営を推進していかなければなりません。たとえば、普通の料理だけではなく、パンやスイーツのレッスンもスタート。また、2006年にはフリー通学制も取り入れています。この制度を始めたきっかけは、会社の帰りに勤務先近くにあるABCに通っている生徒さんから、「休日は地元の友人と自宅の近くにある教室に通いたい」というニーズが多いことを知ったからです。ABCの強みはこうした生徒さんの声を社内から得られることにあります。なぜなら、社員の中には元・生徒だった女性がたくさんいますし、社員の多くが今もABCの生徒としてレッスンに参加しています。ユーザーニーズを常にキャッチアップしながら、ABCはこれからも進化を続けます。

<未来へ~ABC Cooking Studioが目指すもの>
変えてはいけないもの、企業理念。変えていいもの、そのほか全部!

 これから“ABC Cooking Studio”はどんな姿を目指すのか? ですか。一番難しい質問ですね。今のところですが、まず、料理教室という業態を1カ所でも多く展開していこうと思っています。実は以前、フランスのパリ市に料理教室をオープンしたのですが、この時は理由があってうまくいかず撤退しています。でも、今後も海外へのチャレンジは継続していく計画です。そもそも僕は、料理の現場を経験したことがないですし、なぜこの事業をやれているか、継続できているか? その理由は、後付けではありますが、この仕事を続けていく中で世界中の食卓を笑顔でいっぱいにしたいという思いがどんどん強くなっていったからです。

 食事は人間が生きていくうえで、必須の活動ですよね。「テレビに気を取られながら食事をするな。出されたものをまずいと言うな」と、親にもよく言われました。確かに、いくら体にいいものでも、オーガニック素材であっても、笑顔のない食事は体の毒になってしまうと思うのです。もちろん、そんなエビデンス(科学的根拠)はないと思いますが、食事の本質は、素材よりもいただく際の環境にある気がしています。自宅でお母さんが、手づくりのおいしい食事を提供してくれて、食卓に笑顔があふれていることが、人にとって最高の幸せであると。僕が子どもの頃、いつも忙しい父が日曜日、夕食時に帰って来て、家族5人で食卓を囲み、笑いながらごはんを食べる機会が月に1度だけありました。思い返せば、あの時間が僕にとっては至福の時だったんですね。

 だから会社の今後については、今の企業理念である「世界中に笑顔のあふれる食卓を」これが守られることがすべて。僕は、社内で「あれをしろ、これをしろ」なんて細かくは言いません。繰り返し、繰り返し、馬鹿みたいに経営理念の遵守を伝え続けるだけ。ちなみにオフィスの壁には、「変えてはいけないもの、企業理念。変えていいもの、そのほか全部」というメッセージが掲げられています。この理念さえ守られていれば、将来、事業内容が料理教室ではなく、農家になっていても、八百屋になっていてもいいと思うんです。ちなみに現在、ABCの生徒さん個人が、自宅で料理教室を開業するためのサポート事業の立ち上げを計画中しています。当社にとっての競合が増えるという見方もありますが、理念には適っているでしょう。ひとつでも多くの食卓に笑顔を増やすこと。これこそが、ABC Cooking Studioの存在意義なのですから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業するなら1日でも早く始めたほうがいいと思う。
失敗経験をできるだけ若いうちに済ませておくためにも

 起業したいのであれば、できるだけ早く始めたほうがいいと思います。まさに、1日でも早く。当たり前ですが、人間に与えられた時間は有限ですし、年をとればとるほど気力やパワーがダウンしていきます。あと、僕は新規事業でたくさんの失敗を経験してきたでしょう。起業を成功させるためには、ある程度失敗を経験しておいたほうがいい。もちろん、失敗するたびに滅茶苦茶ショックを受けますけど。でも、“苦労は買ってでもしろ”という諺のとおり、今になって思えばあの失敗があったから、今のABCがあるんじゃないかと。何の傷もないまま、知らず知らずのうちに大きくなって、それで失敗したらダメージは計り知れません。

 失敗は、小さくてお金のない頃にやっておくべき。そんな意味もあって、どうせ起業するなら、1日でも早くと伝えたんです。起業したい、独立したい、でも、何をすればいいか分からない人が多い? そんな人は何かを成し遂げようなんて考えなくていい。最初の動機は、不純なものでもいいんじゃないですか。僕もABCを始めた頃は、お金持ちになりたい、いい車に乗りたい、いい服着たい、女の子にモテたいという思いがいっぱいでした(笑)。難しいことをあまり考えず、まずは小さくてもいい、自分なりの成功を目指して、一歩踏み出してみる。ITビジネスで、どかんといっきに大成功なんて狙わずに。ぜひ、まずは何かに挑戦してみてほしいですね。

 起業は継続させることが大前提です。そして、事業を組織的に発展させたいと思っているなら、やはり信頼できる仲間が必要だと思います。僕の場合、ABCの創業時、男ひとり、女性4人で料理教室の運営をスタートさせました。女性は忍耐強く、ひとつのことに集中し、継続させる能力が秀でていると思っています。なので、持続力ゼロの僕にとっては、女性のパートナーがいてくれて本当に良かった(笑)。起業後、自信過剰になって新規事業を次々に立ち上げて、失敗の連鎖から引き戻してくれたのも彼女たちでしたし。特に男性経営者の場合、女性パートナーがひとりだけではなく、ふたりいれば最高です。ひとりだと、その女性とふたりきりで、どこかへ逃避行してしまう危険がありますから(笑)。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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