第85回 株式会社ウイングル 佐藤崇弘

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第85回
プロフィール 株式会社ウイングル 代表取締役CEO 
佐藤崇弘 Takahiro Sato

1980年、福島県生まれ。県立福島高校卒業後、医大を目指すが2度の受験に失敗し、医者の道を断念。心機一転、起業を志し、県立宮城大学事業構想学部へ進学する。同大学在学中に、米国NASDAQ市場でデイトレードを開始。ここで得た売買益を軍資金に、知的障がい者施設「ふれあい福祉会」を開設、代表となる。その後、高齢者施設を運営する有限会社ライフサポート、宮城県から委託された障がい者施設の第三者評価機関NPO法人総合研究所などを立ち上げる。大学卒業間際に知った、長野県庁の幹部職員募集に応募し、採用。2004年9月、田中康夫知事の下、長野県コモンズ福祉課福祉幹(課長級)に就任。7カ月後、社会参事(部長級)に抜擢されるも、2005年9月に自ら退庁。大学時代を過ごした仙台に戻り、同年12月、株式会社イデアルキャリア(現・ウイングル)を設立し、代表取締役に就任。障がい者に就労機会を提供するアウトソーシング事業を展開している。

ライフスタイル

好きな食べ物

納豆です。
納豆が好きなんですよ。ねぎは使わず、練りカラシと大根の葉っぱを混ぜて、熱いご飯に乗っけて食べます。ちなみに嫌いな食べ物は、ホヤですね。一回食べた事ありますが、正直、死にそうになりました(苦笑)。お酒はそれほど飲まず、付き合い程度です。

趣味

フットサルです。
スポーツ全般何でも興味あるんですが、フットサルがかなり好きです。ここ最近、まったくやれてないんですけど。21歳からずっと仕事やっていますから、いろんな趣味を封印してきたんです。最近少し余裕ができてきたので、そろそろ始めたいと考えています。

ほっとする瞬間

べたですが、ハワイです。
これまで2回行きました。青空、空気、海が素晴らしくきれい。それに尽きます。それだけあればいいと。ハワイであればホテルじゃなくて野宿でもいいくらい(笑)。オアフ島しかまだ訪れたことがないので、ハワイ島とか周辺の島にも行ってみたいですね。

最近感動したこと

社員のがんばりです。
「何でそこまでやれるの?」って思うくらい、社員ががんばってくれています。本当に、会社や仕事を自分事としてとらえているんですよ。いや、僕以上に、ウイングルの取り組みについて考えてくれている。そんな彼、彼女たちの姿を見ていると、すごく嬉しいし、感動しますね。ふと、心から「ありがとう」って思える瞬間が多いんです。

まずは障がい者の雇用促進という社会的課題を解決!
真のソーシャル・ベンチャーを目指して!

 民間企業、国・地方公共団体などは、「障害者の雇用の促進等に関する法律」に基づいて、従業員規模に応じた一定割合数以上の障がい者を雇用する義務がある。そして、この雇用割合を満たせない企業については、、不足ポイントに応じた納付金の支払いが定められている。しかし、実際に一定割合数以上の障がい者 雇用を達成している企業は3分の1にも満たないという。そういった企業向けの障がい者の遠隔地雇用支援サービスを考案し、この社会的課題の解決に貢献しているベンチャー企業が仙台に本社を置く株式会社ウイングルだ。働きたい障がい者、障がい者を雇用したい企業双方をハッピーにしながら、自社もしっかり収益を挙げるソーシャル・ベンチャーといえよう。「戦後から50年の時が経ちましたが、当社のようなスキームは今まで無かったと思います。これからもビジネスの手法で、世界中にあるさまざまな社会的課題を解決していきます」と語ってくれた同社代表の佐藤崇弘氏。今回は、そんな佐藤氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<佐藤崇弘をつくったルーツ1>
体は丈夫じゃなかったが、運動神経は抜群。中学時代の部活動では東北大会優勝も!

 両親は福島市で不動産業を営む経営者で、3歳上にデキの良い兄がいます。家庭は円満で、みんなとても仲が良かったですよ。兄弟げんかもほとんどしませんでした。ただし、両親は教育に関してはとても厳しかった。まず、テレビ、ゲーム、お菓子、マンガは禁止。子どもが大好きな4大アミューズメントは、ことごとくご法度というわけです。「マンガを読む暇があるくらいなら、読書しなさい、勉強しなさい」と、そんな感じでした。でも、小学生の頃の僕は、勉強が大の苦手。やっているふりだけはするんですが、そもそもやる気が出ないので、6年間ほとんど最下位クラスだったと思います。

 ゲームは禁止されていましたけど、ゲームセンターに行って、人がプレイしているのをじっと見続けたり。小遣いが少なかったから、自分ではできないんですけど(笑)。だから、友だちと公園でオニゴッコしたりして走り回っていました。運動神経はけっこう良かったんです。運動会の種目ではいつもトップでしたし。でも、それほど体が丈夫ではなかった。体力も実はそれほどなかったし、アレルギー体質。両親から「医者を目指しなさい」と言われていたこともあって、小学生の頃から病気を治す医者になりたいと思っていました。で、中学に進むとだんだん成績が上がっていった。兄が東大に毎年10人くらい合格者を出す県で一番の進学高校に進みましたから、そのプレッシャーや刺激もあったんでしょう。「自分もそこに行かねば」と。

 中間、期末テストの前にちょっと勉強する程度でしたが、ずっとトップクラスの成績だったと思います。地頭が良かったんですかね(笑)。特に、理数系の科目が得意でした。部活動は、ハンドボール部に入部。本当はサッカーをやりたかったんですが、入学前に膝の半月板を負傷してしまって。野球部は坊主だし嫌だなと思っていたら、1年の担任の先生がハンド部の顧問だったのでそのまま。でも、中3では主将を務め、メンバーに恵まれたこともあって東北大会で優勝したことも。あと、水泳や陸上も得意で、助っ人としてですが福島市の代表選手に選ばれて、いくつかの記録を残しています。

 

<佐藤崇弘をつくったルーツ2>
2年目の医大受験に失敗したことで医者の道を断念。方向転換し、起業で一発逆転を目指すことに

 高校は、無事に県立福島高校に合格することができました。最初、ハンド部に入ったのですが、すぐに辞めてしまった。年齢に関係なく、実力がある者がリーダーシップをとるのが当然と思っていたのです。試合に勝つことがチームの最優先目的で、先輩、後輩の上下関係は意味がないだろうと。が、それが認められないわけです。それで結局、先輩ともめてしまって。今考えれば若気の至りですよ。でも、当時、サッカーの中田英寿選手が「ピッチの上では年上も呼びすてしてかまわない」ってコメントしていたのを聞いて、やっぱり俺が正しいと自分を正当化していました(笑)。その後も特にグレるわけでもなく、ふらふらと(笑)。普通に授業は受けていましたが、成績は400人中最下位レベルだったかな。

 高校時代の記憶があんまり定かじゃないんですよ。ただ当時も医学部に行って、医師免許をとろうとは考えていました。両親が経営者だったこともあってか、おぼろげながら普通の医者になるのではなく、医師免許を持ちながら事業をやりたいと。今考えれば、一医者として一生その本分をまっとうするというイメージよりは、医者を集めて医療事業を経営するということだったんでしょうね。で、塾に通い、家庭教師をつけてもらうなどして、受験勉強を始めるのですが、最初から一浪は仕方ないと考えていました。そんな甘い考えでしたから、現役で受験した東北大学の医学部は、センター試験で足切りに。そして2年目も、受験に失敗してしまった……。

 ちなみに兄は東北大学の歯学部に進学し、今、歯科医師をしています。当時、兄から「事業に興味があるなら、県立宮城大学を受けてみてはどうか」とアドバイスされまして。二次試験枠で、事業構想学部を受験し、合格。その頃の僕は、医学部以外は進路としてまったく考えていなかったため、合格してもまったく嬉しくありませんでしたね。ずっと優等生でやってきたのに、脱線者のレッテルが貼られたと、正直かなりへこみましたよ。だから、嫌な言い方ですが、仕方なく宮城大学に進学したというのが本心だったんです。ただ、そこで医者への道はきっぱりあきらめ、起業して成功を目指そうと決意。言ってみれば、ひとり戦後復興(笑)。そんな気持ちでした。

<学生起業家時代>
株式市場のデイトレードで起業資金を確保。障がい者施設、高齢者施設を立ち上げる

 大学に通い始めてみたけれど、私が出した結論は、このまま普通に授業を受けていてもあまり意味がないということ。1年の前半で、このままじゃ何も始まらないと見切ってしまった。ただし、起業するといっても、どこから手をつければいいかまったくわかりません。群れるのも嫌いでしたから、何とか自分で打開策を見つけようと。そういえば、株式会社って何だ? まずは株式のことを勉強してみようと思い立ち、親から100万円を借りて、2000年の9月から始めたのが今で言うデイトレードです。それも米国NASDAQマーケットでの海外取引。講習会を受けましたけど、付け焼刃の知識のみ。今考えると怖いのですが、信用取引をしていたんです。知識がなかったことが良かったのか、結局、1年弱で100万円が倍になりました。これも幸運だったのですが、2001年9月11日に起きた同時多発テロの前に手仕舞いしていたんですよ。

 この資金を元手にどんな事業をやるか考えました。実家に帰省していた夏休み、障がいのある叔父に話を聞いてみたんです。「そういえば障がいのある人ってどうやって就労しているのか」と。すると、「行政が補助金を出して運営している作業所で働いているケースが多い」。「へーそうなんだ」と。けど「障がいがあって働ける場所はすごく少ない」ということも教えてくれた。「障がいのある人が働ける場所をつくれば、行政から補助金がもらえるのか。でもそういう場所は少ない。何でみんな事業としてやらないんだろう」。スタートはそんな単純な好奇心でした。とにかく、何か事業を始めなきゃって思ってましたから、すぐに市役所に行って、障がい者施設を立ち上げるための方法を聞き、そのための資料づくりを開始。仙台市の泉区に施設用の物件を借り、作業内容は農作業と決め、ハローワークを活用して4名のスタッフを採用しました。届出も無事に受理され、2002年の4月に知的障がい者施設「ふれあい福祉会」を設立。私は任意団体の代表として、障がい者施設の運営を開始するのです。

 運営後、確かに補助金は出たのですが、運営経費とスタッフへの給料を支払うとまったく利益は残りません。儲かるものじゃないんですよね。私の給料はここからは1円も出ませんでした。家庭教師のバイトを掛け持ちして、そのバイト料を投下していたくらいですから。でも、何も考えずに施設をスタートしたのですが、途中でやめられるわけがない。その後、宮城県から委託された障がい者施設の第三者評価機関を立ち上げましたが、これも収益としては焼け石に水。社会福祉法人格を取得できれば流れが変わると考え調べてみたのですが、数千万円の基本財産が必要ということで断念。だったら別の事業を起こすしかないと、遊休地を保有するオーナーに高齢者施設の運営を提案することに。これが転機となりました。車で走り回って、目ぼしい空き地を見つけては、遊休地の有効活用の提案を繰り返し、5カ所のグループホームを立ち上げることに成功したのです。

<1年間の公務員生活>
興味本位で応募した長野県庁の職員募集。課長級のポジションでらつ腕を振るう

 結果、この事業は2億円ほどの年商を挙げるようになり、障がい者施設も含め、やっと事業が安定して運営できるようになってきた。元手も信用もありませんでしたが、自分という人間とビジネスプランを信用してもらえた。この経験は大きな自信となりました。このまま学生起業家のポジションを維持しつつ、大学院に進もうと考えていたんです。が、大学4年の1月、当時、田中康夫氏が知事を勤めていた長野県が任期付きの幹部職員を公募すると。しかも、年齢、学歴、経歴すべて不問であると。障がい者施設、高齢者施設を経営するなかで、福祉政策についての問題意識が強まっていたこともあり、興味本位で応募してみたら、なんと採用されてしまった。「え~!?」ですよ(笑)。めったに無い機会ですし、公務員として働くことも得がたい経験と考え、長野県に赴任することにしました。そして私は社会部コモンズ福祉課に配属され、課長級といわれる福祉幹として県政に携わることになるのです。

 その中の重要ミッションのひとつとして、障がいのある方の就労機会の増加という案件がありました。ただし、田中知事からのオーダーは「ゼロ予算で進めることが条件だ」と。ちなみに「障害者雇用促進法」により、301人以上の常用雇用者を雇用する企業は、1.8%以上の障がいのある方を雇用する法的義務があります。その率を満たさない場合、不足者ひとりにつき、月5万円の納付金を支払わねばならない。しかし、長野県で障がいのある方がいくら働きたいと思っても、雇用義務のある県内企業数自体が絶対的に足りないわけです。そこで、インターネットを活用した障がいのある方の遠隔地アウトソーシング就労を発案し、東京のある有名IT企業にその話を持ちかけたところ、「それは意義があり、面白い」となった。そして、長野県在住の5名の障がいのある方が、その企業の運営するブログの監視業務を在宅アウトソーシングというかたちで引き受けることになったのです。

 その企業は、都内での地代家賃や給与水準に比較しても低額で、しかも仕事の質が上がったことを評価してくれて、それならばと在宅のまま彼らを雇用したんです。県としてはこれまで生活保護などの支援対象であった方々が、働き口を得て、納税者という立場になった。これは非常に画期的なことでした。もちろん障がいのある方々にとっても自分の能力が認められ、評価され、尊厳を持ちながら働くことができるわけです。関わるすべての人たちがメリットを享受できるこのスキームの完成に、田中知事も絶賛で「佐藤、でかした!」と。そして、仕事の成果が認められた24歳の私は、全国最年少の参事(部長級)に抜擢されます。その後、社会部だけではなく、田中知事の側近として全部局の案件にかかわらせてもらった。これはかなりのレアケースだと思います。でも約1年間、公務員の仕事を経験してみて、これ以上ここにいても自分の成長は望めない、やりつくしたと感じてしまった……。2005年の9月、私は田中知事に辞表を提出するのです。

ニーズをしっかりと満たすことで、相応の対価を得る。
社会的課題をビジネスの手法で解決し続ける!

<ウイングルの船出>
障がい者の就労問題を解決するために、25歳、仙台で事業をスタートさせる

 長野県庁の参事を辞任し、仙台に帰って来た私は25歳。さてこれからどうしていこうか考えました。ちょうどその頃はベンチャーの上場が注目されている時で。自分もいっちょう本格的に起業にチャレンジしてみるかと。じゃあ具体的に何をやろうと考えたんですが、自分が詳しいことといえば障がい者分野しかなかった。でもね、ホント、軽いノリで決めたんですよ(笑)。社会を変えようとか、そういう大層な気持ちもなく。会社を立ち上げた後に、学生時代に知り合った後輩と久しぶりに出会って、「お~、一緒に事業やんない?」「あ~、いいっすよ。自分もまだ学生だし、暇なんで」。そんな感じのスタートでしたね。背水の陣とか、そんな意気込みはまったくなかったと思います。長野県庁に勤めることになって、知り合いに運営を任せていた高齢者施設も安定運営されていましたから。

 そうやって始まったのがウイングルなんですよ。ビジネスモデルも創業当初から現在に至るまで基本は変わっていません。東京の企業様が障がいのある方の採用を進める際、「地方にお住まいの障がいのある方を遠隔地雇用という形態で採用しませんか。その取り組みに必要なさまざまなサポートを私たちが行います」と。最初はどこの会社に行っても「そんな話聞いたこともない」って言われましたよ。そりゃあそうですよね、競合他社が存在しない、まったく新しいサービスでしたから。東京は障がいのある方々の雇用義務がある企業数が多いでしょう。だから、雇用側の求人数と、就労側の障害のある方々=求職者数が逆転してしまっているという課題があります。一方で、地方では雇用義務のある企業が少ないため、障がいのある方々が働きたくても、なかなか求人がないんですね。また、これは健常者の労働市場でもそうですが、給与水準には地域差があります。自分たちがこの事業で儲かるという以上に、当社のクライアント企業にとっても、地方にお住まいの障がいのある方にとっても、大きなメリットがある仕組みといえるでしょう。

 高齢者施設での収益もあったので、設立時に資本金を多めに積むことができたんです。「何とかなるべ」くらいの軽い気持ちで、最初はサークル活動の延長みたいな乗りだったかも。でも、半年くらいで資本金がどんどんなくなって、この企業と契約できなければ「本気でやばいっ!」てなった。初めて本気になりましたね。後にも先にも、私が徹夜してがんばったのって、その時だけかもしれません(笑)。ただ、もう後には引けない、やめられないという覚悟が生まれた。経営者としての自覚が初めて芽生えた瞬間でした。この事業を立ち上げて、障がいのある方の就労に貢献して、企業様からもありがとうと言っていただき、社員が一所懸命働いてくれている。この会社をぜったいに潰さないという責任感は誰にも負けないと思っています。

<社会的問題は山積している>
ビジネスでさまざまな社会的課題にイノベーションを!
正しいソーシャル・ベンチャーの姿を追求し続ける

 これまでのクライアント数は約50社。ネットベンチャーのGMOインターネット様、牛角でおなじみのレインズインターナショナル様、人材ビジネスのリンクアンドモチベーション様など、業界を問わずお手伝いをさせていただいています。ちなみに前期の売上高は、約5億円くらいでしょうか。立ち上げ当初は「2年で10億円くらいはいきたい」なんて思っていたのでまだまだですけど(笑)。この事業を始める前は、いつか上場することになるんだと考えていました。でも、障がい者支援という事業の特性もあって、事業の適正な成長速度とか、ビジネスとしてはまったく未開拓の分野でもあるので、必ずしも上場がベストではないなと今は考えています。何とか利益も確保できていますので、今のところ上場はしない方針をとっています。

 現在、仙台に本社を置き、仙台市内と埼玉県に障がい者が働くオペレーションセンターが2カ所。あとは、東京オフィスと沖縄県にもオペレーションセンターが1カ所。今年は、少しでも多くの方々に就労機会を提供するために、さらにオペレーションセンターを増加させる予定です。事業をスタートしてまだ3年半ほどですが、障がい者雇用の新しいかたちとしてのブレイクスルーはできたと思っています。もちろん、現在の事業基盤をより完成させていくことも重要ですが、今後もウイングルにしかできない、新しい仕組みをつくっていきたい。これまでは障がいのある方の就労部分でのお手伝いをしてきました。もちろんこれも大きな社会問題なのですが、障がいのある方が抱えている問題というのはそれだけじゃない。たとえば、障がいのある方の住居とか医療などの生活面とか、親亡き後の処遇とか。いろいろ問題が残っているわけです。だからウイングルは、ソーシャル・ベンチャーとして、障がいのある方から必要とされる生活インフラになれるよう、サービス内容を障がい者の生活全般にまで広げていこうと。

 これまでそういった取り組みは行政がやっていて、民間企業は儲からないという理由で手を出さなかった。けれど、まだまだ大きな理不尽をこうむっている方がたくさんいるんです。そんな社会的問題を、私はビジネスの手法でいくらでも変えていけると思っています。きちんと売り上げを挙げ、利益を出しながら。障がいのある方の就労というかなり難しい問題を最初に解決できたのであれば、ほかのことはもっと簡単に解決できる。これがウイングル全体としての総意ですね。

<未来へ~ウイングルが目指すもの>
優秀な当社の社会起業家候補たちとともに、イノベーションを起こす企業であり続ける

 これからのウイングルですが、佐藤崇弘の色をできるだけなくしていきたいと考えています。上場の予定はありませんが、この会社を公の器に育てていくことが、我々の存在意義であろうと。そして、次代の社会起業家を育てる組織でありたいと思います。ソーシャル・ベンチャー、これからの社会起業家が集まる組織になるためには、私はビジネス、事業における強さがもっと必要だと思っています。困ってる人がいるから、学生やボランティアに「手伝ってよ」ではダメだと。ウイングルでは、社員はプロとして、障がいのある方の就労問題に取り組んでいます。だからこそ、本当に付加価値の高いサービスを提供し、相応の対価をいただき、成長する組織でないといけない。理念も大事なのですが、「かわいそうな人がいるから」という発想ではなく、お客様のニーズに、お客様の想像する以上で応えていこうという発想が必要だと。働く社員にとっても、その努力が、頑張った分だけ報われる。安心して働ける。そういう会社を目指しています。

 当社は確かに障がいのある方々の就労を支援する社会的企業ですが、うちにくれば事業という視点で仕事に関われて、ドラスティックに成長できる。その中で、利益を出せば出すほど障がいのある方々の満足が増えるということですから、事業と社会貢献がしっかりリンクしている。もちろん、マーケティング戦略、財務戦略、広報戦略、海外展開など、いろんな挑戦もできる。そして、挑戦する人材を評価します。だから、魅力的で優秀な人材が集まってくれのでしょう。ウイングルは、社会を変革する、つまりイノベーションを起こすベンチャー企業であり続けます。そして、社会にたくさんある課題を、ビジネスの手法で解決するソーシャル・ベンチャーを目指すのです。

 そのような組織に創業者である私の色は必要なくて、集ってくれたみんなの思いの集合体になるべきだろうと。結果として、戦後から50年の時が経ちましたが、当社のようなスキームは今までなかった。インターネットの普及などの社会的変化もありますが、時代の変化をうまく活用することができたということもあります。それをこんな若輩者が実現できたわけですから。今のフェーズにはないですが、ニートの問題、母子家庭や父子家庭の問題、ひいては世界の貧困問題など、これまでと同じようなやり方で、それらを解決することがいつか必ずできる。世界をハッピーにすることができると信じています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
あなたが社会起業家を本気で目指すなら、マーケットで勝負できる方法を見つけるべき

 起業したいと思っている人に対して、私ならまず、「できるだけ早くしましょう」と言います。荷物が多くなるとリスクも多くなります。私もまだ20代ですが、昔と比べてスピード感がなくなっていると感じています。たとえば、高齢者施設を始めようと思った時に、不動産屋に行きましたが、「そんな土地はない」と言われました。で、私は車で回って空いた土地を見つけて「貸してください」って。そんなこと実際にやる人いませんよね(笑)。でも、結果としては仲介料が発生せず、自分の好きな場所を早く見つけることができた。知識が増えるとできなくなることってたくさんあると思うんです。60歳で、ある分野に特化できた人なら必ず成功しますでしょうか? そんなことないですよね。思った時が起業時ですよ、きっと。

 そもそも起業のリスクとか怖さを知らなかったから僕はスタートできたといえます。それを知っちゃった人って、頭のいい人ですよ(笑)。僕なんか、知らないで何でも食べちゃう赤ちゃんのような状態だった。変なもの食べて死ぬかもしれない(笑)。でも、やっているうちに学ぶことはできますよ。いくらたくさん起業に関する本を読んでもあまり参考にならないと思います。あと、人を雇って組織的な経営をしたいなら、経営者に能力がないほうがうまくいくと僕自身は考えています。今でも、社内で一番仕事しないのは私ですし(笑)。最近よく聞くのが「社長にいかに仕事をさせるか」ですし(苦笑)。でも、みんな優秀で、上げてくる提案書とか、いつも「スゲー!」って驚きますよ。私のチェックがまったく不要なくらい。任せているから、みんな成長するんでしょうかね(笑)。

 これから事業テーマを探すなら、不平、不満、不足をイメージしてみてください。“不”がつくものと世のニーズは背中合わせ。もしそこで社会起業家を目指すのであれば、ちゃんと市場原理の働くマーケットで勝負してほしいというのが私からのメッセージです。今後、日本のソーシャル・ベンチャーに入社した社員は、社会起業家としてのスキルと収入が手に入り、そのうえで社会貢献、社会変革をしているというブランドをしっかりとつくっていかないといけない。私が最初に障がい者施設をつくった時に、周りからほめられはしましたが、自分の給料はゼロでした。自力で継続できないソーシャル・ベンチャーばかりでは、せっかく今注目されている社会起業家も、一過性のブームで終わってしまいます。本当に必要とされるサービスを提供したなら、自然と対価としてのフィーをいただくことができるのではないでしょうか。もしもビジネスとして成立しないのなら、それはお客様、サービスの対象となる方々の本当のニーズを十分に満たしていないから。考え抜けば、必ず答えが見つかります。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

*このインタビューは2009年4月7日に行なったものです。

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