第78回 株式会社サンズエンタテインメント 野田義治 3

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<歌舞伎町で水商売>
人気ディスコの支配人となり、俳優の道が遠のいた。
新たに生まれた夢、芸能界で成功する別の方法

  川口から劇団がある下落合って遠いんですよ。だから近くの、新宿歌舞伎町でバイトをし始めました。1960年代の歌舞伎町には風俗店なんてなくて、モダンジャズの喫茶店がいくつかあって、若者にとって憧れの街だった。で、当時最先端といわれていた「ジャズ・ビレッジ」というジャズ喫茶で働き始めるんですね。時代の流れとともに、今度はゴーゴークラブが流行り出して、オーナーが新宿2丁目に生演奏で踊れる「POP」という店をオープン。今度はここで主任として働くようになって、バンドのブッキングの仕事を任されるようになった。その後、歌舞伎町の高級ディスコ「サンダーバード」の支配人になり、ブッキング、演出、運営まで全部仕切らせてもらった。自分と同じワルのにおいのするやつらが夜な夜なたくさん集まって、もちろんトラブルも多かったけど、この仕事がどんどん面白くなっていくんですよ。

 今思えば、芸能界の仕事に関する基礎はこの時代に学んだんじゃないかな。いろんなミュージシャンや有名人ほか、たくさんの人脈もできたし。今でも、「昔、サンダーバードでよく遊んだけど、もしかして野田さんが支配人だった?」なんて聞かれたりします。でも、だんだんと小奇麗なディスコが六本木や赤坂にでき始め、歌舞伎町から少しずつお客が流れていった。うちの店は、スケルトンのコンクリ壁にブラックのペンキ塗ったようなラフな内装だったし。そのうえ警察の取り締まりが厳しくなって、「夜の11時には閉店しろ」と。僕らは12時に寝たらもったいないと思ってたから、聞く耳持たず勝手に営業してた。そしたら、店の前にどーんと大きな警察車両が止まって、一斉検挙。まず客が全員もってかれて、そのあとに僕らがしょっぴかれて朝まで事情聴取。それでも無視してまた深夜営業して、毎週毎週同じことの繰り返し。きっと、新宿署に行けば、あの頃の僕の始末書が山ほど溜まってるんじゃないの。そんな毎日がだんだんかったるくなってきたんです。

 で、店を辞めることにした。俳優の夢は、水商売を始めて少し経った頃にあきらめた。自分には芝居の才能もないみたいだし、いろんな裏側も見えてきたから。オーディションってあるでしょう。うちのタレントたちには「オーディションは業界に顔見せをする場所であり、落ちにいくところなんだ。だから一喜一憂するな」って言ってます。多くの場合、最初から優勝するのは決まってる。ほかの出場者は、スポンサーを満足させるための数合わせなんですよ。そんな裏側とかね。店を辞めたあと、大手プロダクション系の事務所に所属して、しばらく営業しながらマネジメントの勉強をしていました。俳優の道はあきらめたけど、芸能界で成功するという夢は捨ててなかったから。あまり知られてないけど、僕が初めてマネジャーを担当したのは、夏木マリさん。「絹の靴下」というデビュー曲が大ヒットしてね。この時にタレントのマネジャーとしての基礎を、みっちり学ばせてもらったんです。

<いしだあゆみとの出会い>
7年間、天才女優、歌手の現場に張り付いて、4年目にやっとマネジャーに昇格する

 夏木マリさんの事務所を辞めたあと、キャバレーの支配人をしながら次のチャンスを探してたんです。ある日、歌舞伎町時代に知り合った渡辺プロダクション系「サンズ」の知り合いから、「野田君、何もしてないなら、明日からいしだあゆみさんの現場やってよ」と。当時すでに、いしだあゆみさんは超人気スター。「ぜひ、やらせてほしい」と即答していました。でも、彼女はすでに完成された大物女優、歌手であり、衣装やメイクまで自分自身で完璧にプロデュースできる天才なわけです。これまでの経験などまったく通用しない、ゼロからのスタートでした。歌番組の現場から始めたのですが、歌舞伎町からぽっと出てきた不良上がりの僕にできることなんてないんですよ。まさにプロとアマチュア。3年間くらいは、ただの付き人として動いていたようなものです。

 いしだあゆみさんには、数えきれないくらい怒られたけど、本当に大切なことを学ばせてもらいました。彼女は覚えてないそうですが、こんなことを言われたことがあります。「私はいつも崖っぷちの立場。あなたはそんな私の背中を押す立場。清水の舞台から落ちた私をどうすんの? 落ちたら私の下敷きになるのがあなたの仕事でしょ」って。ひとりのタレントとして、商品である自分に最適な次、次のことをいつも真剣に考えているんです。あと、時間にはとても厳しい人でした。もちろん遅刻はゼロ。終わる時間が決められた仕事は、仕事が残っていようが時間きっかりに帰っていくんです。それでは現場の雰囲気が険悪になるので、終わり時間に救急車を呼んだこともあった。さすがにみんな「お大事に」って言って帰してくれるから。そうやって彼女につかず離れず、行動をともにし、4年目だったかな。現場で、「私のマネジャーです」と紹介してもらった時はものすごく嬉しかったですよ。

 僕も会社からだんだん認められるようになり、肩書きが増えていった。いしだあゆみさんのほかに、アン・ルイスさん、テレサ・テンさんのマネジメントも任されるようになってね。でも、結局いしだあゆみさんが結婚して、現場を離れて。それをきっかけに、僕も事務所を去るんです。いろんな人から「あれほど扱いづらい、いしだあゆみさんのマネジャーをよくやれているね」と言われてましたし、勘違いしちゃったんですね。もう俺は芸能界で十分生きていける。人脈もたくさんできたし、一匹狼で大丈夫だと。でも、天才女優と、会社の看板があったからできてた仕事なんですよ。そのかすりをもらいながら食っていたと。結局その後、津川雅彦さんから奥さんである朝丘雪路さんのマネジャーを依頼され、3年ほどお手伝いすることになりました。そうやって過去に培ってきた経験や人脈が、ある時期ある時期に重なりながら仕事につながっていくんだよね。そして、1980年に仲間と一緒にイエローキャブという事務所をつくるんだけど、社長になるのは少しあとの話。

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