第77回 株式会社ファジアーノ岡山スポーツクラブ 木村正明 3

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<父の死を乗り越え、東京大学へ進学>
父の急逝により、仕送りはいっさい停止。3つのバイトを掛け持ち、生活費をまかなう

  3年で部活を退いた後、同級生たちはいっせいに受験モードに。担任の先生に東京大学を受けると宣言したら、かなり驚かれました。なんせ470人中300番台をうろうろ、ですから。おまけに、さあ勉強と机に向かうのですが、3時間くらいで集中力が切れてしまう。正直、こりゃ1年目は記念受験だなと(笑)。ちょうどセンター試験が導入された年で、東大法学部の足切りはクリアしましたが、本試験ではやっぱり不合格。それから東京での浪人生活に突入するんです。浪人1年目の年末、父が倒れました。仕事に忙殺されて、毎日3時間睡眠の生活を続けていたそうですから、その疲れがたたったのでしょう。そして、翌年の春にあっけなく逝ってしまった……。猛烈に太く短い人生だったと思います。結局、僕は2浪の末、東大に合格しましたが、父に親孝行できずじまいだったことが今でも残念でなりません。

 父の事業には多額の借金が残っており、実家からの仕送りはストップ。大学入学後は、生活費を稼ぐためバイトに精を出しました。トラックの運転手に家庭教師。一番印象に残ったのは、NHKの受信料の集金と契約でした。断固支払いを拒否する人っているでしょう。その方たちに時間をかけ理解していただく仕事です。当然、最初は「絶対に払わん」なのですが、20回目くらいの訪問から態度が軟化し始めて、40回目くらいには「お前には負けたよ」となる。そうやって一所懸命お願いをし続けるわけです。僕は下北沢と代沢エリアを担当し、しらみつぶしに歩き回りましたが、大変得難い経験をさせていただいたと今でも感謝しています。

 時間が取れず、体育会のサッカー部には所属できませんでしたが、2年次から練習回数の少ない準体育会に加入。ちなみに就職後も、東大サッカー部OBを集めたチームを結成し、東京都社会人リーグでプレーを続けました。チームは4部からスタート。10年かけて1部に上がり、今も後輩たちは仕事と格闘しながら頑張っています。僕は、岡山に帰る直前の37歳まで現役を続けました。引退した時は当然ですが、最年長でした。大学時代の話に戻しますが、1年次に同じクラスだった10人くらいの同級生と、男だけで行く年2回の旅行は最高の思い出です。小笠原とか、沖縄とか。彼らとは今でも連絡を取り合っていますし、この付き合いは一生変わらないでしょうね。

<ゴールマン・サックス証券へ>
大学卒業後、多くの候補の中から最高の成長機会を求め、外資系金融へ

 早く社会に出たいという思いは強かったです。でも、就職活動はちょっと遅めのスタートでした。5月にソロモン・ブラザーズに入社した大学の先輩から「面接を受けてみないか?」と声をかけてもらったんですよ。ちなみに僕ひとりだけ私服で面接に行ったので、怒られましたが(苦笑)。その方から「ゴールドマン・サックス証券ものぞいておいたほうがいい」とアドバイスされた。「ゴールドマンか。なるほど」と思いながら、その後、官僚、弁護士、ほか様々な企業に勤務するOBに会いまくりました。延べでいえば200人以上にはお会いしていると思います。もちろん、ゴールドマンにも面接に行きました。現・マネックス証券代表の松本大さんなど、あり得ないくらい頭が切れて、強烈に個性的な方々が働いているわけです。ものすごいパワーを感じました。

 もちろんソロモンも素晴らしい会社ですが、そこで働く方々に何となく自分と似たような雰囲気を感じたんです。でもゴールドマンは、明らかに僕の知らない世界観を与えてくれそうでした。自分にないものを持っているパワーあふれる先輩たちにもまれながら働けば、確実に成長できるだろうと確信。そして1992年の7月末、無事に内定をいただくことができました。その日、広尾のすし店でお祝いしていただいた席で、「じゃあ明日から朝6時に出社するように」と。冗談かと思ったら本当だと(笑)。で、実際に内定翌日から僕は東京・六本木のオフィスに通うことになるんです。

 毎日会社に出ていましたが、実は大学卒業に必要な90単位のうち、なんと58単位が残っていました。「このままのペースで働いていては卒業できません」と会社に報告したのですが、「大丈夫、大丈夫」と。が、翌年の1月になって東大卒の先輩が、「これは本気でまずい」とやっと気づいてくれ、なんとか仕事から解放された。それから大学受験の時以上に必死で勉強して、卒業に必要な単位を取得。念願のゴールドマン・サックス証券で働くことになるのです。

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