第77回 株式会社ファジアーノ岡山スポーツクラブ 木村正明 2

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外資系証券会社幹部が、瀕死のサッカークラブ経営者に。
地域リーグから、創設3年目にJ2に昇格させる!

 日本のサッカーリーグにはJ1からJ9までが存在し、約8300ものチームが毎年しのぎをけずっている。うち、J1、J2がプロクラブと言われ、J3のJFLを含め、50~80のクラブがプロクラブ化を虎視眈々と狙っているという。そんな競争の激しい世界で、創立3年目にして、地域リーグからJFL、そして昨年12月、とんとん拍子にJ2昇格を決めたのがファジアーノ岡山である。ちなみにファジアーノとはイタリア語でキジという意味。岡山ゆかりのおとぎ話“桃太郎伝説”に登場する鳥の名前から付けられた。ゴールドマン・サックス証券の執行役員という、誰もがうらやむ地位を捨て、設立当時、資本金500万円のファジアーノ岡山スポーツクラブ代表に就任したのが、木村正明氏だ。「人生は一度きり。岡山への郷土愛と、恩返しを志に、挑戦を決断しました」と語る。今回は、そんな木村氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<木村正明をつくったルーツ.1>
小学時代は野球、中学からはサッカー。真面目な中学時代には生徒会長も経験

 生まれ故郷は岡山県、岡山市です。男ばかり3人兄弟の長男で、かなり活発な少年時代を送っていました。父は衣料品問屋、駐車場、カラオケボックス、雀荘など、手広く商売を手がける事業家。母は忙しい父の仕事を手伝いながら、僕たちを育ててくれたんです。そういえば、カラオケボックスって岡山が発祥なんですよ。知ってました? で、小学生時代の僕がはまったのは、野球です。背は低かったのですが、学校一、足が速くて、肩もけっこう強かった。4年生からはリトルリーグに入って、広島や大阪へ遠征試合に出かけたこともありました。確か当時の岸和田リトルには、清原和博さんがいたんですよね。僕らのチームも全国大会でベスト4とか8に入る強豪。ポジションはピッチャーかショートでしたが、結局、最後までレギュラーにはなれませんでした。

 僕が通った岡山大付属小学校は中学まであって、小学校の入学に際しては、運動能力と簡単な知能テスト、あとは抽選のくじ引きでした、確か。ある意味で国立の付属は実験校ですから、1年と2年の複式学級とか面白い試みにトライしてましたね。ずっと野球漬けの毎日を送っていましたが、中学からはサッカーに鞍替え。野球部が無かったんですよ。当時は今ほどサッカーが盛んではありませんでしたから、単純に一番大きな部だったから始めたようなものです。ただ、奥が深くてどんどん面白くなった。野球はすぐにうまくなれた気がしたけど、サッカーはなかなかうまくならない。うまくなりたい、うまくなりたいという思いでサッカーにのめり込み、結局37歳になるまでプレーし続けるんですよ(笑)。

 足が速かったので、ポジションはずっとフォワード。岡山市の中学選抜選手にも選ばれました。が、倉敷市とか玉野市とかのほうが強いんですよね。チームは県大会に進むのが精一杯って感じでした。スポーツに励みながら、勉強も中学まではできるほう。先生には模範的な生徒に映ったのでしょう。常にまじめであることを意識付けられていました。生徒会長もやりましたし。だから、中学時代はじっと我慢をし、人生のパワーを蓄積していた3年間だったと思っています。

<木村正明をつくったルーツ.2>
「医学部に進み医者になれ」が父の願い。ビジネスの道を志し、決死の説得に成功

 もう廃止されていますが、当時の岡山県は総合選抜という方式を高校受験に取り入れていました。試験に合格したら、岡山5校と呼ばれる岡山市内の高校に振り分けられるという。幸いにも僕は、最も行きたかった伝統校、岡山朝日高校への入学が決定。父は昔から僕に医者になれと言っていたんです。だから高校ではサッカーは禁止だと。入学時はその教えを守っていたのですが、6月に日本リーグの試合が岡山で開催され、ジョージ与那城さんが所属していた読売クラブのゲームを観戦に行った。それで興奮して、もう我慢しきれなくなって、母にこっそり相談したら「そこまで言うならやっていい」と。再びサッカーを始めることができました。父も本当はわかっていたのだと思いますが、何も言わずにいてくれたんですよね。

 サッカー部には顧問の先生がいなかったんです。だから、みんなであーでもない、こーでもないと考えながら一所懸命練習しました。僕はといえば、この頃どんどん背が伸びて、パワー型のフォワードに。部活動にも励みましたが、練習が終わったあとも、もちろん週末も友人達とつるんで何かしら遊んでいました。いくつか恋もしましたし。もういろんなことが楽しかった。おかげで入学時470人中30番くらいだった成績はいっきに急降下。300番を行ったり来たりというていたらく。岡山大学の医学部に行けと言っていた父とは、文系・理系の選択を迫られる1年の終わりに話し合いました。

 祖父が早くに亡くなったこともあり、死ぬ時にいかに幸せな人生だったと思えるか考えていたんです。人生は一度きり。岡山を出て、違う世界を見てみたい。確かに医者も世の中に貢献できる素晴らしい職業ですが、高校1年で今後の人生を決めてしまうことに不安があった。自分の可能性を広げるために、もっといろんなことを経験してみたい。父が事業家だったことも関係していると思いますが、様々な人たちとぶつかり合いながら自分を成長させていくビジネスの世界に進みたいと。そんな思いをぶつけ、何とか父には納得してもらったんです。

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