第75回 株式会社ナチュラルアート 鈴木 誠

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第75回
株式会社ナチュラルアート 代表取締役
鈴木 誠 Makoto Suzuki

1966年、青森県生まれ。県立青森高校卒業後、慶應義塾大学商学部へ進学。大学卒業後の1988年、東洋信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)に入社。最 初の5年間、虎ノ門支店で営業を担当した後、本店営業部へ異動。ベンチャー投融資、上場関連業務を担当する。野村證券企業部への研修派遣を経て、9年10 カ月勤めた東洋信託銀行を退職。自ら起業することを決め、人脈構築、事業リサーチのため、慶應義塾大学院経営管理研究科(ビジネススクール)入学。2年間 のリサーチ活動の末、日本の農業再生ビジネスの必要性と可能性を発見。2000年、同研究科を卒業。ある農業法人グループから声をかけられ、2001年、 日本ブランド農業事業協同組合の設立に参加し、事務局長に就任。2年後の2003年、株式会社ナチュラルアートを設立。代表取締役に就任した。農畜産物の 生産・加工および販売。農業コンサルティング(再生事業、マーケティング、ファイナンス)を事業内容とし、設立から5年半で、年商170億円の企業体に成 長させた。

ライフスタイル

好きな食べ物

地方の旬を使った料理です。
肉も魚も野菜も、嫌いなものはまったくありません。仕事柄、地方の農家を訪ねることが多いので、いろんな旬の味を楽しんでいます。農業生産者の自宅座敷に招かれて、愛情たっぷりの漬物と地酒をふるまわれたり。最高のぜいたくだと思います。

趣味

仕事になっちゃいますね。
地方の農家を訪ね歩くこの仕事自体が趣味みたいなものです。銀行員時代はゴルフもやりましたが、今はまったく。土日も関係なく、1年のうち360日くらいは朝早くから働いています。でも、まったく苦労を感じないんです。だから、趣味は完璧に仕事といえます。

言ってみたい場所

ベトナムとかタイとか
次なるステージでの挑戦として、海外に農場を持ちたいんですよ。候補地としてはベトナムとか、タイとか。今は忙しくてなかなか行けないのですが、できるだけ早いタイミングで現地を視察しに行きたいと考えています。これも仕事の話になっちゃいました(笑)。

ほっとする瞬間

温泉につかっている時。
日本全国、いろんな地方に行っているでしょう。田舎に行くと、どこに行っても温泉があるんですよ。農家の方に「どこかないですか?」と聞とだいたい教えてくれる。その温泉に入ってぼ~っとしている時が一番ほっとできますね。

ご縁がつないだ提携農家は1000軒を超えた!
パワーを拡大し持続可能な農業のかたちをつくる

 東京千代田区一番町。皇居にも近く、いわば東京のど真ん中だ。この場所に本社を構える株式会社ナチュラルアートの事業内容はなんと、農業ビジネスである。今はやりの高級農畜産物の流通企業などではない。自社で直営農場を持ち、北海道から沖縄まで、1000軒を超える提携農家とともに、青空の下農地畜産物をつくり、そして販売することを主目的とした企業なのだ。同社を立ち上げた鈴木誠氏は、非農家の出身だという。今、食料危機が世界を襲い、日本の食料自給率も40%を切っている。「食料安保を誰もやらないなら、自分がやるしかない」と、まさに徒手空拳で農業の世界に飛び込んだのだ。「正直言いますと、僕は農業生産者と一緒に畑を増やす作業に専念したい。ただ、これから立ち上げようと計画している農業ポータルサイトも、農業再生ファンドも、誰もやってくれないから当社がやらざるを得ないんです」と、鈴木氏は言う。今回は、そんな鈴木氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<鈴木 誠をつくったルーツ.1>
青森で生まれ、生活苦の農家の矛盾を感じる。が、根はいい加減で楽しい青春時代をすごす

 生まれは青森県の青森市です。父は団体職員として働きつつ、版画家としての活動を続けていました。有名な版画家である棟方志功さんの弟子、佐藤米次郎さんに教えを請いながら。だから父は、棟方志功さんの孫弟子に当たるんです。版画家名鑑に登録している版画家は2000人くらいいるそうですが、版画だけで食っていけるのはわずか数名ですよ。版画家としての父の立場は兼業農家と似ているといえますね。実家は農家ではありませんでしたが、りんご農園や稲作農家を営む親類がけっこういたんです。みんな農作業自体は大好きだし、一所懸命働いているのに、なかなか生活が豊かにならない。美味しいりんごを食べさせてもらうたび、そんな矛盾を子どもながらに感じていたことを覚えています。

 ちなみに、きょうだいは姉と弟と僕の3人。専業主婦の母と父。小学校くらいまでは多少まともだったと思うんですが、中学、高校、大学へと進むにつれ、どんどんいい加減になっていく(笑)。将来の夢とか、誰かの役に立ちたいなんて、まったく考えていませんでしたから。ただ、好奇心はとても旺盛でした。だから何にでも興味を持つんです。野球もやったし、高校時代は映画にもはまりました。オールナイトの映画館に通って、映画監督になりたいと、真剣に考えた時期もあった。そんな夢も、まあ、徐々に立ち消えていくんですね。いい加減だから(笑)。

 青森時代から唯一ずっと続いているのは、ねぶた祭りへの参加ですね。勇壮で巨大な武者人形の山車が市内中心部をねり歩き、独特の衣装をまとった“跳人”と呼ばれる踊り手が「ラッセラー、ラッセラー」というかけ声で跳ねまわる。青森で一番盛り上がる夏祭り。今も毎年夏、“跳人”としてねぶたに参加してるんです。もう30数年間ずっと。高校卒業後は慶應義塾大学の商学部へ進学しています。生命保険業界を勉強する人気のゼミに入りったりしましたが、「これをやりたい!」という明確な意思はなかったですね。僕が大学を卒業した頃はまだバブルの残り香があって、大学生にとってかなりの売り手市場でした。就職先も何となくいいかもという感じで、銀行を選んだんですよ。

<鈴木 誠をつくったルーツ.2>
ベンチャービジネス支援をスタート!起業家としての生き方に魅力を感じる

 僕が選んだ就職先は東洋信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)です。配属は虎ノ門支店。港区の中小企業オーナーや土地を所有する富裕層を顧客に、資産活用や税金対策のアドバイスをするフィナンシャルプランナーのような営業を約5年間続けました。その後に本店の営業本部に異動となって、それまでとはまったく畑違いの仕事を始めるんですよ。異動先の上司がまた面白い人でして、「アメリカではベンチャー企業が起爆剤となって経済を牽引しているらしい。くわしくは俺もよくわからんが、国内マーケットを攻めてみよう」と。それで僕も日経ビジネスや週刊ダイヤモンドを読み漁ったり、ベンチャー支援機関にヒアリングしたりしながら、ベンチャービジネスの勉強をスタート。そして、どんどん起業家といわれる経営者に会いに行くようになるんです。

 バブル景気が崩壊し始めていたこともあって、「銀行です」と電話連絡すると、けっこう簡単にアポイントが取れたんですね。中には反面教師にしたくなるような経営者もいましたが、多くはとても魅力的な方々でした。聞けば、「元・ソニーなんです」など、超大手企業をなんの後ろ盾もなく飛び出して、貧乏しながら夢の実現に向かって頑張られている。そんな起業家たちの生き方に、大いに刺激を受けました。何千人の起業家に会ったかわかりません。投資、融資、上場コンサルティングと手法はさまざまですが、共感できた起業家を持てる限りの力を発揮して応援しました。この頃、僕の仕事の成功が支援企業の上場達成とするならば、それはお手伝いした数の1割にも満たなかったでしょう。ただ、大切なことを学ぶことができました。それはビジネスモデルや決算書の良し悪しよりも、“企業は人なり”。今でも、これに尽きると思っています。

 その当時、ある魅力的な起業家と仲良くさせてもらっていました。何気ない気持ちで「社長、これからも一緒に頑張りましょう」、そんな話をしたんだと思います。すると彼は、「君は銀行員だから毎月給与が必ずもらえる立場。私はすべての従業員に毎月必ず給料を支払う立場。この必死さを、君の仕事と同じ土俵で語られるのはつらい」と。もちろん、お互いに悪気なんてなかったはずです。僕は一所懸命ベンチャー企業の役に立つ仕事をしていると思っていましたが、確かに、同等で語れるようなステージではない。「調子こいてたな……」と恥ずかしくなった。そのことをきっかけとして自分の中に迷いが生じたんですよ。銀行員と、起業家との生き方を比べて、自分の本心はどちらに魅力を感じているのか。答えはすぐに決まりました。もちろん、「起業に挑戦する」、です。

<起業前にビジネススクールへ>
仲間の多くはIT、バイオなど最先端志向。農業をやる人がいないなら俺がやろう!

  退職して起業すると決断したものの、まだ何をするのかすら決めていません。行内で生意気ばかり言っていましたが、退職する僕を心配して引き止めてくれる上司や同僚もいました。でもまあ、一度言い出したら人の言うことを聞かない性分であることは周知の事実。最後は、「お金を貸してくれとは言いませんから、気持ち良く送り出してください」とお願いし、退職願が受理された。もちろん僕自身、たくさんの起業家にお会いしたことで、ベンチャーの厳しさは十分すぎるほど理解していました。また9年と10カ月間ずっと銀行員として過ごしてきたので、偏った考え方をしているという不安もあった。そこで、まずは2年間ビジネススクールで世の中の仕組みや、経済の行方について幅広く学ぼう。そして学びながら起業するための種を探そうと、慶應義塾大学院経営管理研究科の門を叩いたのです。

 ビジネススクールに行けば、誰もが優秀なビジネスパーソンになれるか? もちろんそんなわけはありません。ただし、自分で「最低でもこれだけは学ぼう。盗んでやろう」としっかり目的を決めて行くならば、高い価値がある場所だと思います。僕の場合は、まず起業という同じ志を持つ友人をたくさんつくって、また彼らの先に存在するいろんな人脈に触れてみようと考えた。ビジネススクールの同期は約80名。メーカーの人間から外国人まで、本当にバラエティにとんだ魅力的な人たちと出会うことができました。そんな彼らと「将来はこれをやりたい」「こんなビジネスもいけそうだ」などなど、喧々諤々、有意義な話を繰り返したわけです。そして、ITビジネスグループ、バイオビジネスグループ、農業ビジネスグループと、いろんなグループに顔を出す中で、農業再生がこれからの日本にとって非常に大切な問題であることが見えてきた。

 ある面白い農家のおじさんを紹介してもらって話を聞き、またその紹介で別の農家の話を聞いているうちに、僕の興味はどんどん農業再生に傾いていきました。最初にお話しましたが、もともと田舎のりんご農園や稲作農家の生活が豊かにならない矛盾を感じていましたし、心のどこかにいつか故郷に錦を飾りたいという思いもあった。農業を活性化する事業なら、疲弊している青森以外の地方にも貢献できるし、喜んでもらえそうだと。また、いろんなビジネスとの比較検討を重ねる中で、ITや金融、バイオビジネスを手がけたい人は山ほどいるのに、農業で起業したいという人はまったくいなかった。じゃあ、俺がやるしかないだろうと。根が単純なので(笑)。

<農業再生のためにできること>
農業に経営の視点を注入していくことで、価格交渉できるポジションを構築する

 農業で起業することを決めたものの、少しの間、東京を拠点に農業ビジネスのリサーチを続けながらふらふらしていました。そうこうしているうちに、ある志の高い農業法人グループから、「農産物の新しい流通機構を担う全国組織をつくりたい。東京に事務局を置きたいのでやらないか」というお誘いをいただいたんですよ。これは面白そうだとお受けして、約1年間の準備期間を経た2001年に立ち上げたのが、日本ブランド農業事業協同組合。まずはここの事務局長に就任するというかたちで、農業ビジネスに携わることになったのです。しかし任期中の2年間、事務局長の仕事を続けてみてわかったことがあります。協同組合という枠組みの中では、意思決定に時間がかかりすぎる。意思決定のスピードと自由度の高さを求めるならば、自分で株式会社をつくってやったほうがうまくいくのではないかと。

 昭和の時代、農業従事者は1000万人以上いました。が、現在は約300万人まで減少しています。専業農家はそのうちのわずか1割。しかも、65歳以上の従事者が6割を占めている。そして家業の農家を継ぎたいという後継者もいない。なぜか? さまざまな問題が絡み合っているのですが、一番は農業生産者と流通事業者とのパワーバランスが崩れてしまったことにあるでしょう。食料が不足し拡大していた時代には、生産者はつくることに専念でき、一所懸命つくった作物がそれなりの対価で売れていました。しかし、海外からの輸入が年々増加し、人口が減少して市場が飽和状態になると、流通業者の力が圧倒的に強くなる。そして、独自の流通手段を持たない農業生産者が一方的に買い叩かれる関係になってしまったと。つくっても儲からないから、農業生産者のモチベーションは下がる。農業に従事したいと思う人が減る。休耕地が増える。このままでは、日本の農業は衰退の一途をたどるしかない。

 農業に経営の視点を持ち込むことで、農業業界が抱えている不均衡は改善できると踏みました。一般の企業であれば、販売戦略、人事戦略、財務戦略などを構築しながら経営を行いますよね。そんな企業が当たり前に行っていることを、農業も当たり前に行っていけばいいのです。たとえば、農業版のSPA。自分たちでつくって自分たちで売る仕組みを生産者の側から構築する。これまでつくって終わりだった農業生産者が、価格交渉できる発言権を持つことができれば農業は変わる。もちろん僕ひとりで何ができるわけもありません。そのために何百ページもの事業計画書をつくり、僕が考える農業再生のプランに共感いただける農家を探し、口説き、出資を募る活動をスタート。そして2003年5月、東奔西走しながらも株式会社ナチュラルアートの設立にこぎつけ、本格的に日本の農業再生に取り組む日々が幕を開けました。

ひとりではできないから旗を掲げ宣言した。
農業再生に命をかけるビジネスを始めます!

<畑を増やす会社誕生!>
実際に青空の下の畑で農作物をつくること。協力を取りつけた提携農家は1000軒を超えた

 ナチュラルアートという社名は、自然の芸術作品という意味です。米、野菜、果物、牛や豚に鶏など、自然界を利用しながら人間が育てる農作物はすべて命を有しています。命の創造とは、いわば神の領域。この農作物を密閉された食料工場で人工的に大量量産する研究もあるそうですが、僕はそれを否定します。だから、当社がまず何を始めたかといいますと、実際に青空の下の畑で農作物をつくること。埼玉県の神泉村の遊休地をお借りして、自分たちも大根やニンジンをつくり育てる一方、当社の理念に共感いただけた40軒の農業法人や農家と提携し、共につくり、売ることからスタートしたのです。最初の販売場所は賃料が高くスーパーが進出しづらい千代田区の20坪ほどの小規模店舗。おかげさまで今では最初の店舗の5倍ほどの広さの店舗に移転し、直営マーケット「なちゅらる・あーと一番町店」として好評運営しています。

 当社が一番力を入れていること。それは「畑を増やすこと」にほかなりません。創業当初から5年半が経った今、直営農場10カ所でイチゴやメロンをつくり、牛や豚を育て、全国を休みなく歩き回って協力を取りつけた提携農家は1000軒を超えています。また、2年ほど前からM&Aで醤油製造会社、食肉製造卸会社など支援を始め、グループ会社も6社に増えました。そうやって志を同じくする仲間と共に、農産物や畜産物の生産、加工、販売を行っているというわけです。ちなみに直営店は、千代田区一番町にある「なちゅらる・あーと一番町店」、千葉県柏市の「農場れすとらん六素(ロッソ)」の2か所と、当社Webサイトでのネット販売。もちろん大手小売りや外食産業、食品メーカーなどにも直接販売しています。

 そんな活動を続けていく中、経営悪化に陥った農業生産者からの再生依頼も増えていきました。小規模の農家は苦しくとも自給自足で何とか生活ができるのですが、年商20億円くらいの規模の農業生産法人がけっこう危ないんですね。補助金や制度融資を深く考えることなく活用し、気付いた時には借金が大きくふくらんで経営に行き詰ってしまうという。このことからも、農業業界に経営感覚が欠如していたことをうかがい知ることができます。再生依頼を受けた農業生産者にまだまだ事業意欲があり、民事再生か自己破産でマイナス部分を一掃できるなら、当社が事業譲渡を受けるための子会社を設立し、再建に乗り出すケースもあります。当社がそんな支援をすることで、農地や働き手、技術が失われる事態を避けること。これも「畑を増やすこと」だと考えていますから。

<平和ボケ日本を救うために>
食料安保をより確実、堅固にするために、農業のパワーをどんどん拡大していく

 世界の人口は約60億人といわれています。そのうちの15%、9億人が飢餓に苦しみ、毎年1500万人が餓死している。東京の人口と同じくらいの人々が、毎年、食料不足が原因で地球上から消えているということです。今後も人口は拡大していき、世界で食料の奪い合いは激化していくでしょう。そして日本の食料自給率はカロリーベースで40%。ちなみに経済大国といわれるアメリカ、フランス、ドイツの食料自給率は100%を超えています。それらの国は経済大国でもあり、食料大国でもあるのです。60%の食料を外国に頼っている日本は今、とても危険な状況に置かれています。たとえば今年の4月、世界一の米輸出国であるタイが、米の輸出をストップしました。これにより世界の米流通価格がいっきに3倍まで高騰。そのほか、とうもろこし、大豆などの価格も同じように上がっています。

 多少価格が上がっても、金を出せばなんとかなると考えていた平和ボケ日本。世界の秩序が急速に変わろうとしているにもかかわらず、です。そんな現状の中、世界を構成する一国である日本が今何をしなければならないのか。間違いなく食料安保でしょう。ちなみに有機・無農薬で安心をうたったブランド作物が増えていますよね。別段否定はしませんが、僕の目には一部のマニアや富裕層向けのビジネスゲームに映ります。そもそも食料が安心・安全なのは当たり前。当社も努力はしますけど、特別それをウリにはしません。そもそも世の中に広く行き渡らないものが、日本の食料安保に貢献できるとは思えませんから。食料安保のために当社ができること。まずは、たくさんの仲間と一緒に畑を増やすこと。そして価格交渉権を持った持続可能な新しい農業の仕組みを構築すること。この両輪を主軸とし、日夜奔走しているというわけです。

 坂本竜馬が好きなんです。先日も『竜馬がいく』を読み直したくらい。彼は新しい日本をつくりたいという志を胸に、脱藩という罪を犯した犯罪者でした。多くの人々からあり得ないと言われながらも、世の中が必要としていた旗を命がけで掲げたから、共鳴する人がどんどん彼のもとに集まって来てくれた。捨てる神もあれば拾う神もあるということです。創業から5年半で170億円の年商を挙げる企業となれたのも、当社の理念に共鳴し、田畑を持参してまで集まって。

<未来へ~ナチュラルアートが目指すもの>
ひとつの目標は農業生産高の10%年商の獲得。農業ビジネス界のリーディングカンパニーとなる

 1000軒を超える農家の方々が協力してくれたおかげで、たとえばこんなことが起こっています。山口県のイチゴ農家の話です。それまでは、100円の原価をかけてつくったイチゴでも、流通側から80円でしか買わないといわれたら、泣く泣く売らざるを得ませんでした。でも今、ある品目のイチゴを共同でつくることで、県内では一番大きな出荷シェアを獲得するまでになっています。朝穫りイチゴを仕入れたい流通側は、当社に頼むしかルートがなくなった。そうなって初めて、農家側に価格交渉権が生まれるというわけです。いくら農作業が好きであっても、作物の評価が低いとやる気なんて出ませんよね。ずっとそんな状況が続いていたから、農家の人々も見下されていると感じ、負け犬根性に陥ってしまっていた。でも、流通と同じ土俵で交渉できる仕組みがありさえすれば、農家の人々の収入も尊厳も戻ってくる。これからも全国でそんな活動を積極的に行っていきます。

 15年ほど前、私が銀行でベンチャー支援をしていた頃、猫も杓子もITビジネスに乗り出していました。おそらく9割以上の新規ビジネスがつぶれましたが、楽天やサイバーエージェントなど、1割が残ったことで、ITビジネスというひとつの産業が確立され、今も拡大成長を続けているわけです。農業もそれと同じ。年間に30~50人の新規農家が生まれ1割残ってもダメなんです。10万人単位で新規参加者が生まれ、たとえば1万人の成功を生みださないと。分母が大きくないと産業は拡大発展していかないと思います。だから、当社1社がいくら大きな声を張り上げても限界がある。情報はいくらでも開示しますから、どんどん農業に挑戦する人たちを増やしていきたい。また、農業の中だけではなく、金融、流通、工業などなど、外側にあるさまざまな産業と協力しながら農業革命に挑戦していきたいのです。

 日本の農業生産高は年間8兆円。300万人の農業生産者がいるのですが、この中に自動車産業界のトヨタのようなリーディングカンパニーは皆無。1億円の年商を挙げる農業生産法人で立派といわれるくらいですから。当社の年商170億円も、シェアで見ればまだ誤差の範囲ですよ。また、発展していく産業にはヒエラルキーが必要です。だから当社は、畑を増やしながら、8兆円のうちの最低10%。8000億円の売り上げを挙げるリーディングカンパニーを目指します。そのための新たな取り組みとして、金融機関と提携した農業再生ファンド、農業生産者が情報共有できるポータルサイトの構築を始めています。今、日本の農業はいわば明治維新のような革命期にあると思います。ひとりでは難しくても、多くの力を集めることで成し遂げられることがきっとある。これからも命がけで、日本の農業発展にためにできることを探していきたいと考えています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
何をするにも志、理念、やりぬく情熱が必要。農業ビジネスへの参画もぜひ検討してほしい

 農生産者も、農協やスーパーなどの流通業も、官公庁や自治体も、ほかさまざまな産業が一緒になって、新しい農業の姿を模索していきたいんです。いってみれば農業が元気になれるやり方であればなんでも。それには10人集まるより、100人集まったほうが面白いし、もちろん1万人集まればもっといい。だから、これから起業を目指す皆さんも、ぜひ農業ビジネスでの挑戦を考えてみてほしいと思うのです。正直言いますと、僕は農業生産者と一緒に畑を増やす作業に専念したい。これから立ち上げようと計画している農業ポータルサイトも、農業再生ファンドもそうですが、誰もやってくれないから当社がやらざるを得ないんです。先ほども言いましたが、産業を活性化させるためには分母が大事。産業としての農業にチャンスはたくさん隠れていますから、もっとこっちを向いてほしい。

 少し話がそれますが、食料自給率の話をします。食料自給率を上げるための本質は畑を増やすことにあります。が、そのほかのやり方で食料自給率の数字を上げることができるのです。たとえば、国内の畜産物自体はけっこうな自給率を占めています。ただ、牛や豚、鶏の餌となるトウモロコシなどを輸入に頼っているため、自給率を自ずと下げてしまう。今、その餌を米に代替えしようという動きが広まりつつある。この飼料米が拡大していけば、10~20%自給率が上がるといわれています。また、コンビニ弁当などの廃棄ロスも大きい。日本は今、食べ物バブルなんですね。100%でいいところを、120%くらいつくっている。ここを改善できれば、自給率はさらに10%ほど上がるでしょう。これまでの意識や、やり方を変えるだけでも、食料自給率は高まっていくということです。そのためには、僕たちひとりひとりの考え方を変えていかなくてはなりませんね。

 どんなビジネスでもテクニックや計画が必要ですが、その前に絶対に必要なもの。それはどこまでもやりぬく情熱です。当然ですが、どんな仕事にも困難がついて回ります。僕だって予想は外れるし、うまくいかないことが何度も訪れた。情熱をもって壁を乗り続けているうちに、ふとわかったことがあるんです。この仕事は金儲けでもビジネスゲームでもない。農業再生、日本再生のためにやっているんだって。苦労の連続であっても、自主的にこの事業をやめることは許されないのです。上場も視野に入りましたが、それはより長く成長し続けるための通過点。100年続く会社を目指す。100年社会に貢献する。逃げ道をつくらないために打ち立てた当社の企業理念です。起業とは挑戦の連続です。困難と出遭った時、勇気をくれるものが志や理念。ぜひ、志の高い挑戦を目指してほしいと思います。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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