第37回 株式会社星野リゾート 星野佳路

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第37回
株式会社星野リゾート 代表取締役社長
星野佳路 Yoshiharu Hoshino

1960年、長野県生まれ。軽井沢町の老舗旅館、星野温泉の四代目として生を受ける。中学から慶応で、大学卒業までずっとアイスホッケーを続ける。慶応義 塾大学経済学部を卒業後、米国コーネル大学ホテル経営大学院修士課程修了後、日本航空開発(現・JALホテルズ)に入社。シカゴにて2年間、新ホテルの開 発から開業までの業務に携わる。1989年の帰国後、家業である星野リゾートに副社長として入社。が、6カ月で退職。その後、シティバンクに転職し、リ ゾート企業の債権回収業務に携わる。1991年、再び星野リゾートへ入社。代表取締役社長に就任する。「ホテルブレストンコート」「星のや 軽井沢」など の自社リゾート施設を経営する傍ら、2001年より、「リゾナーレ」(山梨県)、「アルファリゾート・トマム」(北海道)、「磐梯リゾート」(福島県)な ど経営破綻した大型リゾート施設の再生活動を開始。2005年からは、ゴールドマン・サックスグループと提携し、「白銀屋」(石川県)、「湯の宿 いづみ 荘」(静岡県)などの温泉旅館の再生活動にも注力している。2003年、国土交通省より、第1回観光カリスマに選ばれた。

ライフスタイル

好きな食べ物

迷ったらトンカツを選んでいる、らしいです。
何でも食べるのですが、周りからは迷ったらトンカツを選んでいるって言われますね。だから最近は避けるようにしているのですが(笑)。出張が多いですから 外食は多いですよね。運営している施設で試食を兼ねて食事することもあります。お酒はですね、外ではほとんど飲みません。自宅で少したしなむか、自社商品 の「よなよなエール」を試飲する程度でしょうか。

趣味

今年6歳になる長男の子育てくらいでしょうか。 
今はほとんどないですね。アイスホッケーも社会人になりたての頃までは続けてたのですが、時間が全くないですから。スキーも趣味というより、試走するため の仕事になっちゃってますし。あとは今年6歳になる長男の子育てくらいでしょうか(笑)。彼の将来ですか? まだ全然わかりませんね。そもそも、親が思う ように育ってくれるとは思っていませんから(笑)。

グレート・スモーキー・マウンテン国立公園のロッジ。
アメリカの東海岸にある、グレート・スモーキー・マウンテン国立公園のロッジに行った時は感動しましたね。駐車場からホテルまで歩いて3時間もかかるんで す。で、「チェックインは何時ですか?」と聞かれて、「15時を予定しています」と答えたら、「では、必ず12時には駐車場を出発してください。日が暮れ たら遭難しますから」……。ホテルまでの行程には看板の案内しかないですし、その日は雪がすごくて不安になってきましてね。ただ、ロッジに到着した時の ウェルカム感はすごかったです。お客様の満足のさせ方が決して顧客のニーズに応えようとしてないし、お客様の声にこびへつらうサービスもない。でも、結果 的に圧倒的な満足を提供してくれる。ストーリー性があって、顧客の苦労もひっくるめて、最後に帰結するところで満足が高まる。本来の旅とは、そういうもの なのではないでしょうか。

読書

『ワン・トゥー・ワン・マーケティング』。
私の場合、本を読むのは最初の10ページ。取捨選択は非常に激しいですよ。でも、これは気に入ったと思える本と出合ったら、教科書のように忠実に従うよう になります。ビジネス理論書って本当にたくさんあるじゃないですか。最新の理論や評価されている理論が良いわけではなくて、やはり自分の価値観に合ったも のがいい。私はたくさんの本を読むタイプではないので価値観のあったものをできるだけ深く理解する。例えば、ドンペパーズの名著『ワン・トゥー・ワン・ マーケティング』。これを参考にしてうまくやっている会社ってあまり聞かないのですが、私たちは成功するまで絶対にやり続けようと誓っていますね。タリバ ンみたいなものです(笑)。

日本を世界に名だたる観光大国に引き上げること。
リゾート運営の達人である私たちに課せられた使命

 経常利益20%、自社で定めた顧客満足度数値2.50ポイント(3点満点)、NPOグリーン購入ネットワークが定めた環境負荷数値24.3ポイント(25点満点)。これがリゾートビジネス界のカリスマ、星野佳路氏が率いる「リゾート運営の達人」になるべく星野リゾートが企業として目指している3つの数値目標である。現場にどんどん裁量権を与えるフラットな組織体制。少人数で構成されたグループユニットの責任者であるディレクターは立候補と全スタッフの投票で決定。定例会議はアルバイト、パートタイマーまで参加可能という徹底した情報公開。「社員が主人公」を信念に置き、自社施設の経営はもちろん、経営破たんした大型リゾート施設、老舗温泉旅館などの再生・運営活動にも奔走している。これから星野氏が目指すもの。それは観光後進国といわれる日本を、世界に伍していける観光大国に引き上げることであるという。そして、今、彼がそのためのカギであると考えているツールが、「スキー」と「温泉旅館」だ。これからの星野氏の活躍に期待したい。今回はそんな星野氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<星野佳路をつくったルーツ.1>
祖父母と出かけた2週間のアフリカ旅行。この時、「跡継ぎである自分」を強く実感

 当社は1904年に軽井沢の開発に着手し始め、その10年後に星野温泉旅館を開業。これが星野リゾートの始まりで、私で四代目になるんですね。当然、私が生まれたのも軽井沢。3つ歳下の弟と二人兄弟です。小さな頃はそれほど意識してはいなかったのですが、ただ周囲の方々は僕が次の経営者になるものと決めていたように思います。その意識が少しずつ変わっていったのが小学校の高学年になった頃でしょうか。小学4年生の時に祖父母に連れられてアフリカ旅行に出かけたのです。僕が9歳か10歳だったので、1970年ですか。祖母は軽井沢が無医村の頃から、医者をしていましてね。祖母の友人の山崎さんという医師がザンビアに渡って病院を開業したのです。しかし、医療機器も薬も足りない。祖母は何とかしてほしいという手紙を受け取った。それで、2週間ほど祖父母と旅行をすることになったのです。物資を手渡すということが一番の目的でした。

 ちなみに祖父は、野鳥の森をつくったり、軽井沢のゴルフ場建設にひとりで反対したり、当時から自然や環境問題にうるさい、ちょっと変わった人でした(笑)。そもそも日本野鳥の会を創設した中西悟堂(なかにしごどう)さんという方が星野リゾート内に別荘を持っていまして、その方から影響を受けて環境保護活動を始めたのだそうです。それで趣味が鳥を見ることになった。祖父はこのアフリカ旅行のついでに、ぜひともケニアのナクル湖に行きたいと。フラミンゴがたくさん住んでいる湖で、いれば湖面がピンクになり、飛び立てば空がピンクになるという、そんな湖です。僕も連れて行ってもらったのですが、それは壮観でしたね。この時の何がきっかけになったという訳ではないんですが、ただ、星野リゾートを守ってきたふたりの話をたくさん聞いたのです。この時は旅館経営をというよりも、自然保護の活動を将来は自分が継ぐべきなのだろうなと。そんな雰囲気が漂っていた2週間の旅行だったことを覚えています。

 非常によくしゃべる、うるさい子どもだったようで、弟が静かなタイプですから、余計目立ったのでしょう。「あなたがしゃべり過ぎるから弟がしゃべれない。少し大人しくしていなさい」ってよく怒られていた記憶があります。小学校の頃にはまったものといえば、場所柄なのでしょうがスピードスケートですね。ちなみに、中学からは東京の慶応高校へ進みました。母が「スポーツを極めるなら一貫高校のほうがいい。受かれば後はずっとスポーツをやっていてかまわない」と急に言い出しましてね。自分も、それはいいと(笑)。何とか頑張って勉強して、入学することができたのです。

<星野佳路をつくったルーツ.1>
中学から大学卒業までアイスホッケー三昧。ホテル経営を学ぶため、米国コーネル大学へ

 中学からはアイスホッケーを始めました。中学では全国大会で優勝していて、中学2年から高校2年の夏は毎年、アイスホッケーのサマーキャンプに参加するためにカナダに短期留学していました。当時の日本では、アイスホッケーは今よりもずっとマイナースポーツでしたから、本場で学んでみたいと思ったんですね。高校では国体にも出たりしていましたが、この年代からはやはり北海道勢が強くなって、タイトルは取っていません。当然、大学でも体育会のアイスホッケー部へ。しかし、明治大学や法政大学が良い選手をたくさんスカウトしますからやはり強い。優勝は無理でした。慶応大学は1部リーグと2部リーグを行ったり来たりでしたが、僕が主将を務めた4年次には何とか1部リーグに返り咲くことができました。そんな青春時代でしたから、中学からはもうアイスホッケーしかやっていなかったような気がしています(笑)。

 大学卒業を目前にして、全く勉強していない自分に気づくわけです。この頃は、星野リゾートを継ぐつもりになっていましたから、さすがに少しは業界の勉強をしなくてはまずいだろうと。それでコーネル大学のホテル経営大学院を目指したのですが、本当に中学受験以来ですね、あれほど勉強したのは(笑)。TOEFLやGMATなどの受験勉強は当然ですが、コーネルの大学院に行くためには、実社会経験も必要となります。そこで、コーネル大学卒業生でもある当時のホテルオークラ総支配人、山崎五郎さんにお願いして、オークラで働かせてもらった。推薦状をいただき、受験勉強を終えるまで約1年間を費やしました。

 そして2年間コーネル大学で学び、1986年に修士課程を修了しています。入学してから半年くらいは、ネイティブの英語になかなか付いていけず、授業を理解するために1日2、3時間睡眠で四苦八苦。2学期に入った頃から、やっと少し楽になりましたね。コーネルの大学院で学べたことですか? 20年前の当時、コーネルで学んだものが、今、実際の経営に使えているかというと難しいですよ。しかし、ホテル経営に対する考え方の基礎を学べたこと、さまざまな才能と出会えたことが、自分の視野を広げてくれたということは間違いありません。そして、アメリカでの生活のすべてが素晴らしい経験でした。旅行産業を目指していましたから、あちこち見て回ることができましたし。車で全米一周の旅に出かけたことも、とてもいい思い出であり、得がたい経験ですね。

<シカゴで新ホテル立ち上げを経験>
いったん家業に入るも、半年で退職。その後、シティバンクで債権処理に従事

  コーネルの大学院で学んでいた数年前に、ニューヨークの高級ホテル、エセックスハウスを日本航空開発(現・JALホテルズ)が買収。コーネルにも日本航空開発の社員が研修に来ており、シカゴに新しいホテルを開発するので担当しないかという誘いを受けていました。現地を見学に行ったら、まだ更地でした(笑)。ここに、日本航空開発の在米法人とシカゴベースの大手建設会社・ティッシュマンズとの合弁で、新しいホテルをつくるという一大プロジェクト。これは非常に面白そうだと、お引き受けすることにしました。そして約2年間をかけて、ホテルの建設から運営スタッフのコーディネーションや教育など、ホテル開業までの一連の流れを手がけることができました。このプロジェクトを終えて1989年に帰国した私は、その後、星野リゾートに入社します。

  この時は、副社長という肩書きでした。ですが、たしか6カ月くらいで辞めているんです。この決断に至るまでにはさまざまな事情があったんですが、一番の理由は、戦略的方向性が定まらないこと。同族会社という会社の在り方もそれを助長していたのでしょう。そもそも資産はありますし、大赤字で困っているわけもない。このまま資産管理会社として存在し続けてもいいわけです。しかし、これから観光の時代がやって来るかもしれない。そうなった時に十分競争していけるように、変えていかなければならない部分はたくさんある。変えるためには当然ですが、少なからずリスクや痛みが伴うでしょう。しかし、当時の経営陣は、総論は賛成だけど、各論は反対というスタンスです。私は経営者の役割とは変革を行いながら、会社の成長を支えていくことであると思っています。この任務を遂行できないのであれば、マネジメントのプロとして入社した私がこの会社にいる意味はありません。逆に迷惑だろうと。そう考えました。

 その後、私はシティバンクに転職しています。大学時代は体育会で超封建的な世界、最初に働いた日航開発というとても日本的な社風でしたでしょう。ですから、日本の中でアメリカ資本の会社で働くということがすごく新鮮で面白かったです。組織経営のノウハウをたくさん学ぶことができました。どのようなビジネスを担当していたかといいますと、シティバンクが世界中のリゾート運営企業に融資している中で、焦げ付いた債権を回収するというものです。時には当該企業に乗り込んで、収益性をアップさせ、回収率を高めるという仕事もしました。この頃からすでに、債権が焦げ付いたリゾートと付き合っていくという私の運命は始まっていたんですね(笑)。

<リゾート法の危機感を感じ再び家業へ>
新参跡取り社長のトップダウン経営で、100人いた社員の3分の1が退職・・・

 1987年に、リゾート法というものが発表されたのです。これからの日本は製造業からサービス業へ経済の主体を移管していくべきである。そのために国民の余暇をもっと充実させ、リゾート施設を整えていくのだという政府の方針です。当時の正月の新聞記事を今でも覚えていますが、「平成元年、リゾート元年」という見出しでした。そしてどんどん大手企業がリゾート開発に名乗りを挙げ、1990年には長崎のハウステンボス、宮崎のシーガイヤなど、大規模リゾート施設の開発案件が出揃いました。当時は数年後にバブルが崩壊することなど当然わかりませんから。また長野では、住友不動産が軽井沢の隣にある御代田町に数千億円規模の大規模リゾートを開発するという計画を発表。こうなってやっと、老舗旅館や小規模リゾート施設など、中小企業が危機感を抱くようになるわけです。

 いったん退社した後も、私は星野リゾートの株主総会に出席していました。そして、1991年の総会で、株主の総意として私が次の経営者になるべきであると。自分自身としても、引き受けるのであればこのタイミングしかないと思っていました。もしもリゾート法が施行されなければ、恐らくこの総意も得られなかったでしょうし、私は全く別の仕事をしていたかもしれません。いずれにせよ私は2年間お世話になったシティバンクを退職し、家業を競争力のある企業へと成長させるため、軽井沢へ戻る決意をしました。この時、私は31歳になっていました。

 しかし、総論賛成、各論反対のままでは会社の改革などできるはずありません。そこで、私が代表権を持つこと、基本方針に賛同していただけない場合当時の経営陣の合意のもと退任していただくことを社長就任の条件としました。細かい戦略まで方針どおりに進めていくには、役員の構成が大切です。取締役会の議決事項は会社の命令となりますからね。そして社長就任後は、競合との競争に耐えうる一流ホテルに変革するべく、今ではとても考えられませんがトップダウンでマネジメントを行っていきました。しかし、給料も高くはなく、休みも少ない中でスタッフに厳しい対応を迫りましたから、気がついたら100人いた社員の3分の1ほどが退社。何とか人材を確保せねばと自らハローワークに求人を依頼したのですが、なかなか応募がない。ある日、ハローワークの壁を見たら、「星野に行けば殺される」そんな落書きを発見……。これには正直へこみました。ただ、いったん入社した以前の6カ月よりは、気持ちはとても楽でしたね。矛盾がなく、正しいことをやっていると思っていましたし、自分のミッションと未来へのビジョンはいっさいぶれませんでしたから。毎日7時間はぐっすり眠れていました(笑)。

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<スタッフにとって一番のモチベーションとは?>
リゾート運営の達人にふさわしい一流の舞台、ホテルブレストンコートの誕生

 当時はばら色の復活劇なんて想像すらできなくて、目の前にある大問題をどんどん解決していきながら、あと何年やれば少し楽になるのかな、なんて考えていました。先ほども申しましたが、方針をいっさいぶらさなかったですから、辞めていく人は多かった。しかし、辞めるべき人はそれでいいのですが、辞めてほしくない人も辞めていくわけです。もちろん引き止めはするのですが、その前にどう歯止めをかけるか、それが課題でした。

  給料も高くはなく、休みも少ない、おまけに施設も老朽化していましたから職場環境も自慢できるものではありません。そこで、未来はこうなるのだというビジョンを明確にして、全員スタッフで共有する。経営者として、私はこのような生活をしています、車はこれに乗っています、今週の行動はこのとおりです、会社の売り上げは現在こんな感じです、など情報をすべて公開していく。その上で、定めたビジョンへの最短距離を選びながら進んでいる経営者としての姿を見せる。そして、スタッフに仕事をどんどん任せていく。そうするとみんな、自分で考えるようになり、未来のビジョンを信じて、楽しみながら働いてくれるようになったのです。業績が良くなかったですから、引き止めるために給料を上げることはできません。これしか方法がなかったということでもあります。しかし、やはり仕事が楽しい、ここで働きたいと思えることが、一番のモチベーションになるのですね。情報公開に関してですが、月に1度の定例会議は、社員はもちろん、アルバイトでもパートタイマーでも誰でも参加できるよう門戸を開放しています。

 私たちは「リゾート運営の達人」になるというコンセプトを掲げました。そして将来は、ここで培ったノウハウを基にしながら、軽井沢を超えて、ほかさまざまなリゾート施設の運営マネジメントを手がけていくんだと。それを宣言した以上、軽井沢で私たちがナンバーワンでなくては意味がありません。最初の大きな挑戦として、1995年、ブライダル需要を見込んで、ホテルニューホシノをホテルブレストンコートとしてリニューアルしました。まずはリゾート運営の達人にふさわしい、一流の舞台を持ちたかったのです。もしも採算が合わなくて潰れていくなら、それはそれで仕方がないという割り切りがありました。そういった意味では、今ほど緻密なシミュレーションはしていなかったですね(笑)。しかし、緑に囲まれた広々としたテラスで、新郎新婦と列席者がシャンパンを手に乾杯。このシャンパントーストという演出も大きな人気を呼び、ホテルブレストンコートは私たちの予想を超えた成功を収めることになるのです。

<さらば!トップダウン経営>
現場に裁量権を与えるフラットな組織体制。責任者の選任は立候補とスタッフ投票で決定

 業績が上向いていくことは大変よろこばしいことなのですが、それによる弊害も生まれました。顧客満足度の先行指標が落ち始めるという現象です。コンサルタントも入れながら改善策を模索していく中で、その理由が明らかになった。それは年功序列という問題だったのです。業績が良ければ、降格人事がありませんから、上司のポジションが守られる。しかし、部下にとっては「なんであの人が」とか、「自分のほうがうまくやれる」などの愚痴が目立つようになる。そうすると会社全体の士気も下がってしまいます。そこで、2000年に従来のピラミッド型の組織体制をやめ、10人ほどのグループユニットで構成された全くフラットな組織体制へと移行したのです。それだけではなく、ユニットの責任者であるディレクター職は完全な立候補制としました。やりたい人が手を挙げて、全スタッフの投票により選任されるのです。その際の条件はいっさいなく、入社1年目のスタッフであってもその権利があります。

  また、この人事制度を行うための前提条件として、出世し続けることが大事で、降格したら終わりという従来の発想を完全に捨て去ることが必要です。私たちは「充電」と「発散」と呼んでいますが、ディレクターとして培ってきた能力を発散する時期もあれば、他者にディレクターを任せて再び充電する時期もある。ですから当社では、充電期に入ることは、悲観するようなことではないのです。大切なことは、今、一番勝てるチームを常につくっておくということ。アイスホッケーのように、5人の選手が交代しながら目の前の勝利を目指していく。サッカーもそう。後半20分から選手交代したけれども、退いた選手はまた次のゲームで頑張ればいい。そんな感じです。

 2001年、大手銀行の不良債権処理が一気に進む中、ある銀行から、小淵沢にある大型リゾート施設、リゾナーレの再建を担ってみませんかという声がかかりました。しかし、私たちは軽井沢をまず完成させたかった。星野温泉ホテルという当社の本丸といえる施設の改築もまだでしたし。社内で何度も喧々諤々やりましたが、私は決断の1週間前までは強硬に反対していたのです。そもそも自社以外のリゾートであれば、運営マネジメントは引き受けても、施設の保有はしない方針でしたから。いくら安く購入できるといっても、借金はそのままですからね。これは千載一遇のチャンスなのか、それとも悪魔のささやきなのか。しかし、銀行の方に誘われて現地へ赴いた私は、リゾナーレの再建をお引き受けすることになります。

<未来へ~星野リゾートが目指すもの>
温泉旅館の魅力を最大限に有効活用して、世界のリゾートに伍していく

 リゾナーレに残った社員の方々が集まった部屋に招かれまして、紹介されました。彼、彼女たちは、親会社も破綻して、民事再生で身売りになって、誰に買われるのかもわからないという状況の中で、不安な生活を強いられていました。そんな彼・彼女たちが、できれば星野リゾートと一緒にやりたいとおっしゃる。決断のポイントは、その熱意ですよね。私たちはリゾート運営の達人を目指して、1991年から自社のために利益を積み重ねてきました。しかし、外から求められたときに手を差し伸べられない自分たちは、本当の達人といえるのかと。達人を標榜する以上、これは超えねばならないハードルであると。思いもよらないシナリオとの遭遇から、私たちはリゾナーレの再建をお手伝いすることになりました。

 リゾート再生のお仕事をお引き受けする際、残った社員の方々の熱意ともうひとつ、その施設が持つ特徴を探しています。例えば、白銀屋は380年の歴史があるわけです。建物はすごく老朽化していましたが。徳川家康がなくなって8年後に開業したんですよね。加賀文化が色濃く残る、こんな旅館は日本中を探してもどこにも ありません。またリゾナーレは、マリオ・ベリーニがつくった建築というのが特徴です。テーマ、コンセプトをつくるうえで重要な特徴を持っているかどうか。ここを一番見ていますね。

 日本の製造業は世界一、サービス業は先進国の中でもあまり良くない、観光産業に至っては後進国だと言われているのです。世界的な観光大国に必要とされる三大条件は、交通インフラ、安全、文化の知名度。交通インフラの充実度は世界トップクラスですし、安全に関しては言うに及ばず、文化に至っては、今や寿司は世界中でブームですし、相撲や歌舞伎など、日本文化はハリウッド映画のテーマにもなるわけです。そういった意味で、日本は観光大国になるための条件をすでに整えています。何が悪かったのかというと、やはり業界が悪い。私たちの働き方が悪いし、努力が足りないし、世界と競争してきたという意識も持ってこなかった。これが最大の原因です。日本の観光産業を世界の水準に引き上げていく。これが私たち星野リゾートのこれからの使命です。そこには必ず運営ノウハウが求められますから。

 私は世界のリゾートを視察して回りましたが、どこに行っても食事はフォークとナイフ、寝るときはベッドを使います。しかし、日本の温泉旅館は、箸で食事をし、床に布団を敷いて寝ますし、お風呂なんてみんな一緒に素っ裸になって、それも外の温泉に入らせるわけです。みんな一緒に外のお風呂でぱちゃぱちゃやっている国って、日本以外ですとパプアニューギニアしか僕は知りません(笑)。そのくらい温泉旅館の一泊二日というのは、独特の日本文化を凝縮した体験が提供できるのです。温泉旅館の魅力を最大限に有効活用して、世界のリゾートに伍していくことが私は一番効果的だと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
マーケティング的な発想で始めないほうが良い。情熱と使命感のあるビジネスを見つけよう!

 まず、金儲けから始めてはいけないというのが実感ですね。それだけでは、自分も飽きちゃいますし、会社という組織を持続させるのも難しいでしょう。ビジネスって、お客様、社員、関係事業社、みんな一見金儲け、バリューの交換でつながっているように見えるのですが、やはりそこは人間が携わるものですから、最後はミッションや使命感というものでつながっているべきだと思います。ですから、これが儲かるとか、ニーズがあるとか、これを顧客は求めているとか、マーケティング的な発想だけでビジネスを始めてしまうと、たぶんすぐにつまらなくなってしまうでしょうし、続けられないのではないでしょうか。

  それよりも自分は誰のために、なぜ立ち上がるのかという情熱とか使命感をビジネスに感じられるようになると、そこには顧客もついてきてくれますし、社員もついてくるし、関係事業社も協力してくれます。そういう状態ができあがれば、自分が外れた後の継続性も維持できるようなるのです。特に最近はそんな考え方を持つようになりましたね。繰り返しになりますが、マーケティング的な発想からではなく、自分の気持ちが燃え上がるような対象をビジネスの題材にしたほうが絶対にいいと思います。僕にとっての温泉旅館のように。最近、温泉以外にもいくつか情熱を掲げてもいいと思えるものが生まれてきています。

 そもそも、ニーズがあるとか、成長分野であるとか、マーケティング的な発想で始めたものって、結局みんなもやっていますからね。むしろ競争が激しいから厳しいんじゃないですか。それよりも、全くニーズがない、そんなものうまくいくわけがない、などと周囲から言われてしまうビジネスのほうが可能性は高い気がします。儲かると思って始めたことが、儲からなかったら、腹が立ったり、悔いが残ったりするじゃないですか。でも、私の場合は、成し遂げたいと心から思えることを、使命感をもって始めましたから、ダメだったらいいじゃないか。少しでも貢献できたならそれでいいと割り切ることができるのです。ぜひみなさんにも、挑戦の結果として落ち込むことがあっても、納得感が残るビジネスを選んでほしいと思いますね。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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