第32回 東京ヤクルトスワローズ 古田敦也 2

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日本のプロ野球をこれまで以上に楽しいものに。
僕たちには、できることがまだまだあるんです!

 「現在の日本を代表するプロ野球選手は誰か?」。この質問に、筆者の私なら間違いなく「古田敦也選手」と答える。ちなみに、私は熱狂的なプロ野球ファンで はない。しかし、古田氏が1998年に日本プロ野球選手会会長に就任してから選手の権利を守るために機構側と行ってきたさまざまな交渉、そしてまだ記憶に 新しいセ・パ両リーグ合併問題への抗議運動などなど。ゲームよりも、彼の球場外での活動に注目していた。プロ野球ファンでなくとも、古田氏が大きな権力と 戦う姿に胸を打たれた方も多いのではないだろうか。インタビュー中、古田氏は「地域のために」「ファンのために」「大きく言えば、球界の未来のために」 と、誰かのために行動する自分の話をしてくれた。成功を果たしたベンチャー企業経営者も彼と同じように、「利他の精神」の大切さを説く方が多い。そういっ た意味で、古田氏が一プレイヤーという役割だけではなく、責任の重い選手会長を引き受けたり、昨年のシーズンから選手兼監督に就任した理由もわかる気がし てくる。今回は、経営者感覚を持ったプロ野球選手、古田敦也氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに 語っていただいた。

<古田敦也をつくったルーツ.1>
「太っていたから」が理由で、キャッチャーのポジションに

 1965年に私が産声をあげたのは兵庫県の川西市です。両親と、3人兄弟の5人家族で、僕は兄と妹にはさまれた二男として育ちました。父は自動車会 社に勤めていて、母も事務員として働く共働きの家庭でしたが、残念ながら裕福ではなかったですね。野球を本格的に始めたのは小学校3年のとき。友だちに誘 われるかたちで、地元の野球チーム「加茂ブレーブス」に入部したんです。監督から「誰かキャッチャーやるやつはいないか?」と質問されて、僕の隣にいた友 人が「古田君ができま~す」って言っちゃったんですよ。当時の僕は太ってたんでね。太っている、イコール、キャッチャーって何となくわかりますよね。これが現在まで変わらない、僕のポジション決定の真実です(笑)。当時の野球少年はみんなプロ野球選手に憧れていましたし、僕の将来の夢も当然プロ野球選手でした。「10年後には、プロが1億円出して僕を獲得するくらいの選手になって楽させてあげるか ら」って母に話したりしていましたね。小学校6年になると主将に抜擢されて、4番でキャッチャーです。休みの日に対外試合があると、必ず家族全員で応援に 駆けつけてくれていました。家族の応援がとてもうれしくて頑張れましたね。野球以外にはまったのは、習字と将棋かな。習字は小学校3年くらいに初めて、中 学まで習い続けていましたよ。将棋は父とのコミュニケーションツールでしたね。今でも将棋は大好きで、日本将棋連盟さんから、三段の免状もいただいています。

<古田敦也をつくったルーツ.2>
スポーツセレクションではなく、普通に受験して立命館大学へ進学

 中学でもキャッチャーとしてそれなりに活躍していましたので、野球の強豪高校数校からお誘いをいただきました。でも有名校だと部員がすごく多いか ら、レギュラーになってプレーできるかどうかわからないでしょう。家もそれほど裕福じゃなかったですから、自宅から一番近い川西明峰高校へ進学することに したのです。この学校は僕で6期目という新設の進学校で、スポーツよりも勉強に力を入れるという校風。一応、野球部には入部しましたが、放課後の部活時間 は4時半から始めて夏場は6時まで、冬場は5時半までに練習を終えて下校することがルール。しかも、グランドもほかの部活動との共同利用。朝練もやれない ですから、甲子園なんて夢のまた夢です。

 それでも野球が大好きですから、毎日欠かさず練習には参加 します。高校2年の夏の大会が終わり、3年生が部から去っていくと、僕がキャプテンに選ばれ、キャッチャーで4番を任されました。高校時代の3年間は、県 大会で3回戦に進出したのがベスト記録でしたね。クラスの進学組は、学校が終わるとすぐに塾や予備校に通っていましたけど、僕は3年の夏まで部活を続け て、帰宅したら父や兄と将棋を指す。そんなのんびりした毎日ですよ。

 大学へは野球推薦ではなく、普通に受験して入ろうと。高校3年の夏が終わった8月から本格的に受験勉強を始めました。結果的に立命館大学と関西大 学に合格し、最初は関西大学へ行くつもりだったのです。すると川西明峰野球部監督の前田芳美監督が、「立命館大学野球部の練習に参加してこい」と。そこ で、立命館野球部監督の中尾卓一監督に「ぜひ、ほしい」と、みそめられてしまった。でも、京都だと下宿しなければならないからお金がかかる。両親は、自由 に決めていいと言ってはくれていましたが、これ以上負担をかけたくないですし、やはり自宅から通える関西大学に行こうと立命館までお断りに出向いたので す。そうしたら、お会いするなり中尾監督が勘違いだったのか、狙いだったのか、「ついに決心してくれたか!」と握手までされちゃいまして。そのまま強引に 押し切られるかたちで、僕の進路は立命館大学の経営学部に決定したのです。

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