第30回 株式会社ジャパネットたかた 高田 明

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第30回
株式会社ジャパネットたかた 代表取締役
高田 明 Akira Takata

1948年、長崎県平戸市生まれ。1971年、大阪経済大学経済学部卒業後、阪村機械製作所に入社し、約3年間勤務。入社1年後にヨーロッパに駐在し、得意の英語を使い、西欧、東欧、北欧などで機械営業に従事する。退職後、友人と翻訳会社の立ち上げを計画するも頓挫。それがきっかけとなり、生まれ故郷の平戸へUターン。1974年、父が経営していた「カメラのたかた」に入社。観光写真撮影販売の仕事から始め、事業拡大に尽力する。1986年に独立して、株式会社たかたを設立。社長に就任。1990年にラジオショッピング、1994年にはテレビショッピング事業に参入し、通信販売事業の展開を本格スタート。その後も、新聞折込、CS放送、インターネット、携帯サイトなどのメディア戦略を順次展開し、通信販売業界のトップクラスに君臨する企業へと成長させていった。1999年、ジャパネットたかたに社名を変更。2004年、元社員による顧客情報流出事件に見舞われるも、迅速な対応で難局を乗り切る。現在、年商1000億円を突破し、さらなる成長を遂げている。

ライフスタイル

好きなお酒

六十餘洲が好きなんです
アルコールは何でも飲むのですが、一番好きなのは甘口の日本酒。今は何でも辛口ブームですから、あまり店に置かれてないんですけどね。中でも好きなのが、 長崎県波佐見町にある今里酒造さんがつくっている「六十餘洲(ろくじゅうよしゅう)」。昔はけっこうな量を飲んでいましたが、今では2合飲めばふらふらで すね(笑)。

趣味

目で会話できます 
3年前に我が家にやってきた、ミニチュアダックスフントのバリー君と一緒にいるのが、一番楽しい時間かもしれません。子どもたちも家を出て行きましたか ら、今は女房と私とバリー君と3人家族のようなものです。寝る時も一緒ですし、もうバリー君とは会話できるくらいになりました。目を見れば何を言いたいの かがわかるんですよ(笑)。

好きな街

やっぱり故郷の平戸と佐世保でしょうか
生まれ故郷の平戸は、海に囲まれた町でいくつになっても私の心の故郷です。佐世保は、本社機能に全国に生放送できるスタジオ、物流にコールセンターと、基 本的には佐世保ですべての仕事がまかなえます。一部の業務は、福岡や愛知県でも行なうようになりましたが。魚はうまいし、空気もきれい。私の地元でもある 平戸と佐世保は、最高の場所であると思います。

行ってみたい場所

ポーランドのクラコフです
会社員時代に駐在していたことがあるんですが、真冬には-20℃にもなるところです。歴史的な趣を残す街並みがとてもきれいなんで、人々も温かいんです。時間ができたら、またぜひ訪れてみたいですね。

人を感動させ、生活そのものを変えてくれる商品。
商品に魂を込めることで、商品は生き物に変わる!

 ジャパネットたかた社長、高田明氏をイメージしたCGキャラクター、「ミスターJ」が登場する同社のコマーシャルが今日もテレビで流されていた。今やほぼ 毎日、なんらかのメディアで同社がさまざまな商品を通信販売するコンテンツを見ることができる。長崎県佐世保市を拠点とし、ジャパネットたかたが日本中の メディアに浸透していくまでの経緯と、その裏側にはどのような努力があったのだろう。高田氏は言う「商品の先にあるもの。それは感動だったり、楽しさだっ たり、人の生活を変えるもの。私はその感動をお客様に伝えていきたいのです」と。そのとおり、高田氏が商品にメッセージという魂を込めることで、無機質な 印象だった商品が生き物となる。インタビュー中に何度も高田氏は「信頼」「責任」という言葉を口にされた。その対象は、消費者はもちろん、取引先に、自社 の社員に、そして地球環境までと幅広い。ジャパネットたかたが継続発展してこられた本質は、この「信頼」「責任」を守りとおしてきたことにあるのではない だろうか。今回は通販業界の風雲児とも呼ばれる高田氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語ってい ただいた。

<高田 明をつくったルーツ.1>
4人兄弟の次男として長崎で育つ。次男ゆえかガキ大将気質の少年時代

 私が生まれたのは長崎県にある平戸市です。上に兄、下に弟と妹とがいる4人兄弟の次男として育ちました。父は写真が大好きな人でして、自宅に暗室が あって、自分で写真を現像するんですよ。私もその暗室に一緒に入って、白黒写真を焼き付ける作業をよく眺めていましたね。その趣味が高じて、父はフィルム を販売する小さなカメラ店を開業するんですね。実家が商売を始めるようになり、お客様や父の写真仲間とのふれあいが増えたからか、目上の人にはきちんと挨 拶する子どもでしたし、大人は当然尊敬すべき存在であると思っていました。そして当時は街も人々もとても温かで、我が家は「オールウェイズ 三丁目の夕日」写真屋さんバージョンのような雰囲気でしたよ。

 次男だからか、少年時代の私はわんぱく。外に出 れば、ガキ大将ですね。仲間とケンカはよくしましたが、今のようなイジメなんて全くない。兄弟もすごく仲が良かった。もちろん兄弟ゲンカはしょっちゅうで したが(笑)。遊びは自然を相手にいろいろやりました。家の裏側が山になっていて、竹を切ってチャンバラごっこしたり、木の上に秘密基地をつくったり、防 空壕の跡を荒らしまわったり。今思えば、危ない遊びですねえ(笑)。また少し行けば海があって、夏は毎日、朝と夕方に泳ぐものだから、ワンシーズンで3回 は背中の皮がむけた。それを自慢し合ったりするんですよ。素もぐりで、タコをついたり、サザエをとったり……。タコなんて1時間に8匹とった記憶がありま すよ。

 あと、母方の祖父母が芝居好きでしてね。毎年、一緒に連れて行ってもらっていました。特に座長さんがカッコよくて、よく兄と芝居の真似事をしてい たそうですよ(笑)。それと、歌は浪曲から軍歌に歌謡曲まで、ジャンルを問わず大好きでした。中学くらいになると、テープレコーダーに自分の歌を吹き込ん で聴いてみたり。今も続いている長寿番組の「歌のない歌謡曲」という番組を聴きながら歌ったり。カラオケなんてない時代ですが、そうやって友人たちといつ も歌っていました。僕は昔の歌が大好きなので、ここ20年間くらいに出た新曲ってほとんど知らないんです。だから若い人とカラオケに行くと困っちゃいます ね。先日、最近の歌を覚えたと長渕剛さんの「乾杯」をカラオケで披露したのですが、これももう古いんですってね(笑)。

<高田 明をつくったルーツ.2>
恋もおしゃれも全くの門外漢。歌と英語に明け暮れた青春時代

 高校時代も相変わらず歌が好きでしたね。予餞会、今でいえば文化祭では学年の代表としてステージで歌いましたし。そのときの歌が舟木一夫さんの「あヽりんどうの花咲けど」。残念ながら、いくら探してもこの曲が今のカラオケ店にはないんですよね(笑)。

  あと、ものすごくまじめな生徒だったと思いますよ。「レストランに行ってはいけない」とか、校則で決められたことは絶対に守っていましたし。恋愛も全くし ませんでしたね。恋心らしきものは芽生えるのですが、彼女をつくろうとは思わない。ラブレターももらった記憶はあるんですが、ただ不思議に思うだけ。大学 時代も女性にはあまり興味がわかなかった。そっちの方面はきっと遅れていたんですね。でも、もしも当時の僕がそっちの方面に発展していたら、今、当社の副 社長でもある女房と結婚できなかったですよ、きっと。だから、いいんじゃないですかね。

 ファッションにも無頓着です。「学生ズボンに2本線が入っている男が歩いて来たら、それが高田だ」って噂されてたくらい(笑)。このような商売を させていただいているのにこんなこと言っていいのだろうかと思うんですが、身の回りの買い物自体、自分ではほとんどしません。スーツやネクタイはもちろ ん、靴下から下着まで全部女房にお願いしていますから。10年前くらいに一度だけ自分で洋服を買ってみたことがあったのですが、子どもたちに大笑いされて しまいました(笑)。

 高校卒業後は、大阪の大学に進学します。強い目標があったわけではなく、みんな都会に出るなら自分もそうしてみるかって感じですよ。ただ、英語研 究会のESSに入部することは決めていました。小学校高学年のころ、英単語の暗記にはまりましてね。英語がしゃべれるようになりたいと、ずっと思っていた のです。経済学部だったんですが、大学4年間は授業そっちのけで英語漬けの毎日。簿記なんて4年まで単位を残していたくらい。簿記を落としたら留年だった のですが、赤点ぎりぎりで何とか卒業はできました。また、大学3年次には大阪万博が開催されていて、15回くらいは会場に足を運んだと思います。パビリオンの展示物には全く興味がなくて、会場にいる外国の方に話しかけるのが目的でした(笑)。

<友人との起業を断念し、故郷へ戻る>
機械メーカーを退職し、家業へ入社。観光写真の仕事で天性の才が開眼!

  就職も英語を生かした仕事ができそうだという理由で、京都にある機械メーカーに入社します。希望どおり1年後にはヨーロッパに駐在させていただくこ とになり、さまざまな国で機械を売り歩きました。ドイツを拠点に、ヨーロッパのほとんどの国々に行きましたね。当時、飛行機に何百回乗ったかわからないく らいです。1年弱という短い期間でしたが、英語というひとつの言語を身につけたおかげで、いろんな文化に触れられ、また伝えることができたのです。私の場 合は英語でしたが、何かに熱中することが必ずその後の人生を豊かにしてくれるんですよね。23歳でこのような得がたい経験ができたことを、今でも本当にあ りがたく思っています。先日、お世話になった機械メーカーの当時の社長さんからお手紙をいただきまして、一度お会いしなければと考えているんです。

  と、それほどの恩をいただいた会社なのですが、3年で退社するんですよ。大学時代の友人に、翻訳会社を一緒に立ち上げないかと誘われまして、あっさり。 じゃあやってみようかと。私は本当に気ままな人生を送っているんですね(笑)。その翻訳会社ですが、うまくいくはずないですよね。すぐに立ち行かなくなっ て、立ち消えました。それで私は、いったん生まれ故郷の平戸に帰ることにしたんです。兄も弟も写真の専門学校を出て、地元でカメラ店の仕事をしていまして ね。おりしも白黒からカラー写真に移行し始めた時期でしたし、平戸の観光旅行が盛んなころで、家業はものすごく忙しかった。帰って1週間もしないうちに、 観光写真の仕事を手伝ってほしいと頼まれまして。それで、いつの間にか家業の有限会社に入社し、写真の仕事にのめりこむようになっていったのです。

 観光写真の仕事は私の水に合っていたというか、すごく面白かったですね。旅行者の方々に興味ある会話をすればこちらを向いていただけますから、きちんと顔が映った写真が撮れるんです。そうやって会話しながら夜の親睦会や食事会などの写真を撮って、夜現像した写真を翌日お売りするわけです。銀行、学 校、病院、戦友会、婦人会など、団体旅行のお客様の属性はさまざまですし、どの地方からこられた方かも重要なポイント。撮影した写真は必ず売れるとは限ら ないですから、どんぶり勘定で枚数を焼くんですが、戦友会の方は友人、知人に配るから多めに焼く、あの県から来た方々はあまり買ってくれないなど、当時は 県民性や職業柄の性格などをすごく研究しましたよ。観光写真の仕事は10年くらい続けましたからね。このときに培ったノウハウが、全国の方々に商品を買っ ていただく今の仕事にもきっと生かされているのだと思います。

<ソニーの特約店として独立>
家業の事業拡大に尽力し、独立。ビデオカメラ、カラオケマシンを売りまくる

 長崎の松浦市に営業所を出すことになり、27歳で結婚した私に白羽の矢が。そのころはまだ平戸大橋がかかっていなかったので、1年間くらい夫婦で船 に乗って通勤していました。4坪くらいの小さな店で、営業を始めてみると月55万円の売り上げです。これではダメだと、私は月間の売り上げ目標300万円 を掲げます。1日2万円の日商を、10万円強にするわけですから、それはもう大変な挑戦です。

 現像するフィルムを集 めるために工事現場に営業に行ったり、タバコ屋さんなどの取次店もどんどん開拓していきました。たとえば大手が「明日できます」という看板を出し始めた ら、うちは「今日お渡しできます」という看板を出す。通勤前に取次店にフィルムを出せば、夕方の帰宅時にお渡しできる仕組みをつくる。その実現には集配効 率が大切ですから、すべての取次店の周りにある細かい裏道まですべて覚えましたよ。それでも目標に届かないとなれば、自分が離島に行って旅館などを会場に してカメラを販売する。商品がカメラだけでは集客がおぼつかないので、宝飾品店や衣料品店に協力をあおぎ一緒に売る。それで2日間泊まって売って10万 円、とか。結果、1年を待たずして月商300万円の目標をクリアすることができたのです。

 松浦営業所の後は、佐世保にも進出し、営業所を3店舗に拡大しました。最終的には、1店舗当たりでフィルムが月に1000本くらいまで集まるよう になり、現像しても現像しても追いつかないという嬉しい悲鳴状態。年商で2億5000万円ほどの商売に成長していました。その後私は、1986年に家業か ら独立し、株式会社たかたを設立。ソニーさんの特約店となり、新たな道を歩み始めます。パスポートサイズのハンディカムが発売された時は、月に100台を 販売して九州で3番目の特約店になったんです。

 他店が1000枚のチラシをポスティングするなら、うちは1万2000枚やる。自分や社員はもちろん、おじいちゃんや友だちにも協力してもらい、 ゼンリンの地図を片手にポスティングして回るんですよ。それを手がかりに訪問販売を行い、深夜12時まで駆けずり回って、1日に100万円の売り上げを挙 げたこともあります。本当にできることは何でもやりました。英語の話と同じで、何かを成し遂げたいならそのことに一極集中して取り組むことです。人間は一 所懸命精進してやり続けることで、ほとんどのことは実現できると、私は信じています。

より楽しい通販番組をお届けすることで、日本中のお客様を元気にしていきます!

<通信販売事業のスタート>
ラジオショッピング番組出演をきっかけに、全国通販ネットワークの構築を開始!

 1990年に、ラジオ局NBC長崎放送さんが、ラジオショッピングの番組をスタートさせました。私もこの企画に応募しまして、コンパクトカメラを販 売させてもらったのです。これが通信販売に進出するきっかけです。そのとき5分間しゃべっただけで、50台も売れましてね。でも、当時この番組は年に2回 しか放送されていませんでした。現在では、全国のラジオで通販番組が毎日放送されていますが、当時は2回で十分という認識。しかし私は、多くのお客様が喜 んでくれるサービスなのだから、もっと頻度を上げるべきであると考えたのです。そして、九州や沖縄から始めて、全国のラジオ局へ「ラジオショッピングをや らせてください」とお願いにあがりました。そうやって、年1回だった通販番組を月に1回に、週に1回を週に2回と、放送枠を少しずつ広げていただきなが ら、約1年をかけて、北は北海道から南は沖縄まで、全国のラジオ局でのネットワークを構築していったのです。

  テレビショッピングに進出したのは1994年です。ラジオ局の全国ネットワークを構築したノウハウを無駄にしないため、ルック21企画という会社を設立 し、事務所を東京・銀座に置きました。近くには広告代理店最大手の電通さんがあって、銀座周辺には地方テレビ局の東京支社が集まっているんですよ。営業効 率を高めるための戦略ですね。ラジオショッピングの実績をもって営業に回り、最初は6局のテレビ局で週3回、深夜30分の番組として「ジャパネットたかた テレビショッピング」がスタートしました。

 当初は東京や福岡、長崎の制作会社に番組づくりを依頼していたんです。しかし、1回当たり、1000万円ほどの制作コストがかかるうえに、完パケ までにすごい時間がかかる。また、外部会社にはうまく私たちのつくりたいものが伝わらないというジレンマもありました。ならば、ハウスエージェンシーを もって、自分たちで番組づくりをしたほうが良いという結論を出し、自社制作体制に切り替えたのです。そこからは一気にコスト削減と番組づくりのスピードが アップし、1997年ころには年間で約400本の番組を自社で制作できるまでになりました。

 ラジオはわずか5分間、テレビも深夜枠30分の地方局番組からスタートし、可能性を信じながら、そして実績をひとつずつ積み上げながら、長崎県の 佐世保を拠点に、通信販売の販路をローカルから中央へと広げていきました。今では佐世保に自社スタジオを完備。衛星放送「スカイパーフェクTV!」の専門 チャンネル「ジャパネットスタジオ242」を、生放送を交えながら毎日24時間全国のお客様に向けて放送中です。

<成長を支えてきたものとは?>
厳選された品質の高い商品を扱うこと。お客様の声は必ず自分たちが受けるということ

 2000年には、顧客会員向けの通信販売カタログ、「ジャパネット倶楽部」の発行を開始。当社はより多くのお客様に信頼できる商品の情報をお届けす るために、ラジオ、テレビ、紙メディア、CS放送、インターネット、携帯サイトなど、メディアをどんどん増やしながら、通信販売事業を拡大させているので す。

 通信販売事業を継続していく中でこれまで常に心がけてきたことは、利益が上がる商品だけを優先 することなく、厳選された品質の高い商品を扱うということ。また、商品へのお問い合わせは当社が受け、放送枠を提供いただいたテレビ・ラジオ局にご迷惑を かけないということ。そういった意味で、当初からソニーさんなど、信頼できるナショナルブランドメーカーとお取引を始められたことは良かったですよね。し かし当時、ナショナルブランドは販売店との取引が主で、もとより通信販売などタブー視されていたのです。そこを何とか信頼していただけたのは、私たちの熱 意と、小さな実績の積み重ねしかないですよね。メーカーと販売店、双方が信頼し合えるパートナーになれて初めて、お客様への責任が果たせると思います。

 私が販売させていただく商品を選ぶ際の基準として考えるのは、その商品が人の生活のどこを変えていくのかということです。それにはふたつあって、 本当に人々の生活を潤してくれたり、より楽しくしてくれる商品か。もうひとつ「こう変わりますよ」とメッセージを込めることによって人の生活を変えていく 商品か。だから私は、商品は生き物であると考えています。商品にメッセージという魂を注入することで、その商品を手にしたお客様の生活が豊かになると思え ば、おせっかいといわれようとも紹介せずにはいられなくなるのです(笑)。

 たとえばこんなお手紙をいただいたことがあります。小児ガンを患っているお子さんを元気づけるために、当社でニコンの一眼レフカメラを購入いただいたご家族がいらっしゃいました。そのカメラを手にしたお子さんは写真を撮る楽しさを知り、以前と比べて生き生きとし始め、病気と前向きに対峙するようになったのだそうです。ただの美談ではなく、商品は人の生活を変えていく力をもっているということを証明してくれる話ですよね。

<未来へ~ジャパネットたかたが目指すもの>
CSRをしっかり守りながら、緩やかな成長を続けるブランドに

 2004年3月、元社員による51万人分の当社顧客情報流出という事件が起こりました。事件発覚当日の朝11時に私は記者会見を開き、50日間、ラ ジオ・テレビでの活動自粛を発表します。出社してから、わずか2時間での決断でした。それにより約150億円の機会損失となりました。「なぜたった2時間 で、このような決断ができたのか?」とよく聞かれます。そもそも私は生命とはすべからく「善」であると思っています。私たちの商売はお客様あってのもので すから、まずは反省してお詫びすることが人間としてごく自然な判断だったのです。正直このときは、倒産という二文字が頭をよぎりましたよね。しかし経営者 として集ってくれた社員を守らなければなりませんから、たとえ資産がゼロになったとしても、またそこから頑張れると思っていました。

  今1000億円の売り上げを挙げるようになって、みなさんから「すごいですね」と言われるのですが、その「すごい」の中身が何かということが重要なんです よね。それはCSR。企業の社会的責任だと思っています。その責任は企業が大きくなるにつれ、どんどん増幅していくものですから、今後はそこをしっかり守 りながら緩やかに成長していけばいい。そして、ジャパネットたかたは、強い社会的責任を共有した社員が集い、お客様に感動を発信していく。そして、「ジャ パネットの放送を見て元気になった」というお客様をひとりでも多く増やしていく。常にその役割が果たせる企業体として継続していってほしいと考えていま す。

 昨年の忘年会で、私は「今年は、中継車を購入します」と宣言したんですよ。たとえば、長野県のりんご園に行って、現地の生産者の方とおいしいりん ごを食べながら「30分でこのりんご農園を空っぽにしましょうか?」とかやってライブ中継で売る。たとえば、当社でパソカラを購入いただいたお客様のご自 宅に突然お伺いして、「1曲歌って、点数勝負をしましょうか?」とやってみるなど。楽しいことがいくらでも浮かんでくるんですよ。全国を中継車で回ること で、商品がもつエンターテインメント性や感動をどんどんお伝えしていけると思っています。これに双方向性の高いインターネットをからめれば実に面白いこと ができますよ。

 私はジャパネットたかたを、社会的責任感の強い社員、どこにも負けない販売ノウハウ、信頼できる商品という中身がつまったひとつのブランドとして 育てていきたいのです。昨年から社員教育や研修にもすごく力を入れていまして、だんだんとその結果も現れ始めています。起業に創業者は必要ですが、会社が でき上がって安定してくれば、創業者の必要性が低くなっていくべきなのです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
意識すべきは自分の信念と、自分の事業の先にあるお客様

 なりたいものとか、自分の夢とか、本当に若いうちに早く決めた方が良いのでしょうか。私はそんなことはないと思っています。私自身も「10年先の目 標のために」とか決めながらやってきたわけではありません。そもそも若いときは、影響を受ける人に会える数も、感動する本に出合える回数も少ない。20 代、30代と、時間軸によって夢は変わっていくものではないでしょうか。それよりも、今を超えない限り次には進めないのですから、今を成功させるための努 力をすることが一番大切です。努力しているけど実現できないという人は、努力の回数が足りていなかったり、努力の方法が間違っているだけ。今できることは すべて考えて、できるまで継続してみることです。ただし今の時代、ものすごい勢いで世の中は変化していますから、変化に対応できるための情報を学んでおく ことは必須。いずれにせよ、思いを達成するための近道は、今の成功に一局集中することだと思います。

  たとえば今、私は地球温暖化の問題をすごく気にしています。40年前と比べて、四季の変わり目がわかりづらいですし、冬物の設定が間違っていると感じるこ とすらあります。当社はメーカーと消費者の間に介在する存在ですから、地球に優しい商品をつくっているメーカーを応援させていただきたい。また消費者に も、地球温暖化を回避できる商品を使ってほしいと思っています。液晶テレビやエコドライブ機能が搭載されたカーナビなどは、明らかにCO2の 削減に貢献する商品なのです。私たちがその商品にメッセージを込めて、その商品が売れて、消費者も地球環境を守る活動に貢献できる。世の中を豊かにするために、今自分たちにできることは何かを考えていくことで、同じビジネスでも楽しさは変わってきます。そして、「こうあるべきである」と思うことをきちんと自分の言葉として発信していく。それを徹底していくことです。

 仕事だけにかかわらず、人生、他者との比較だけで生きてはいけません。常に、自分流の信念をコーディネートすることを心がけてください。ちなみに、メーカーがライバルメーカーを意識し過ぎて商品開発を進めると、消費者が本当に欲しているものと乖離した商品が生まれることがよくあります。使いきれない複雑な機能を搭載した高価な商品などがその一例です。他者を気にするのではなく、意識すべきは自分自身の信念と、自分の事業の先にあるお客様である。起業を目指されるなら、このことも忘れないでいてほしいですね。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:山本聡子

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