第28回 株式会社幻冬舎 見城 徹

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第28回
株式会社幻冬舎 代表取締役社長
見城 徹 Toru Kenjo

1950年、静岡県清水市生まれ。県立清水南高等学校を卒業後、慶応義塾大学法学部政治学科に進む。大学卒業後、廣済堂出版に入社。このときにつくった書籍『十万円独立商法』が、東京スポーツ記者時代の高橋三千綱氏の目に留まり、紙面で大きく取り上げられる。高橋氏との出会いがきっかけとなり、中上健次氏、立松和平氏などとの交遊が始まった。75年、角川書店に転じ、文芸編集者としての活動をスタート。斬新なアイデアと出版界の常識を覆す大胆な手法で、ベストセラーを連発。『野性時代』副編集長、『月刊カドカワ』の編集長、取締役編集部長を歴任。1993年、角川春樹氏のコカイン密輸疑惑を機に退社し、同年11月、幻冬舎を設立。ひとつの出版社から10年に一冊出ればと言われる業界にあって同社は、『大河の一滴』『弟』『ダディ』『永遠の仔』など、これまでなんと13冊のミリオンセラーを生み出してきた。2003年1月、JASDAQ市場に上場。現在では、文芸書、実用書、漫画、雑誌とその守備範囲を広げ、総合出版社へと成長を遂げている。同社ロゴマークの「槍を高くかざした原始人」のモデルは見城氏本人で、自らがポーズをとり描かせたもの。

ライフスタイル

好きな食べ物

ポン酢でしゃぶしゃぶと白いご飯
最後の晩餐で何を食べたいか?と聞かれたら。僕は、迷わず、ポン酢でいただくしゃぶしゃぶと、白いご飯と答えるだろうね。それを白のシャルドネでゆっくり楽しみたい。あと食後は絶対に、柑橘類のデザートがほしい。大好きなんだよ、これが。やっぱり一番はオレンジかな。

凝っていること

バーベル・ベンチプレスでどこまで上がるか 
バーベル・ベンチプレスで、20年前は120キロ上げられたんだよ。高校時代は40キロも上げられなかったんだが、その3倍の120キロを目標にして、 10年以上かけて達成した。ここ十数年休んでたんだけど、もう一度挑戦しようと思って再開しました。120キロは難しいかもしれないけど、100キロは上 げたい。ほら、僕は不可能や無謀が大好きでしょう(笑)。バーベル・ベンチプレスの世界も、ノーペイン・ノーゲイン。似てるんだよね。

好きなブランド

ジョルジオ・アルマーニが好き
20数年前にドイツで購入した皮のブルゾンが、偶然アルマーニだったんだよ。アルマーニができたばかりのころだよね。すごく着心地がよくて、今でも愛用し てる。それ以来、ずっとジョルジオ・アルマーニが好きだね。ネクタイは2000本以上もってると思うよ。着心地に加えて、あのラグジュアリー感がいいんだ よな。実はある時期、ゼニアに浮気したこともあるんだが(笑)。

行ってみたい場所

スリランカかイタリア・ミラノ
リゾートならスリランカだね。25年前に、仕事で2週間滞在したんだけど、すごくよかった。いつかもう一度行ってみたいと思ってる。都市だったらミラノか な。あの街に流れている空気、風景、建築物、人々、リストランテ……、すべてがたまらなくいいんだ。ショッピング好きな僕にもぴったりな街だしね。もう 10回以上は行っている。イタリア半島の西方、地中海に浮かぶ島、サルディニアにも行きたいんだけど……。もう少し後、老後の楽しみにとっておこうと決め て、今は我慢してるんだ(笑)。

無理、無謀といわれる道を自ら好んで選びながら、
汗と血を流し、七転八倒し、クリアし続けてきた

 「ミリオンセラーを連発する出版社」。そんな形容で語られることが多い幻冬舎。同社の舵を取り仕切っているのが、見城徹社長だ。出版界において、彼の名前 を知らぬ人はいないだろう。また出版会社の経営者としてだけではなく、五木寛之氏、村上龍氏、石原慎太郎氏など、編集者としての見城氏の手腕に全幅の信頼 を置く著名作家も多い。1993年、角川書店の取締役職を辞し、幻冬舎を立ち上げるに当たって、見城氏は「新しく出て行くものが無謀をやらなくて一体何が 変わるだろうか」という言葉を残している。そのとおり、五木寛之氏、村上龍氏、山田詠美氏、吉本ばなな氏、篠山紀信氏、北方謙三氏などビッグネームを引っ さげて、同時6冊で一挙創刊デビュー……。出版大手にしか無理といわれていた文庫分野に、設立わずか3年目にして進出……。郷ひろみ氏の『ダディ』では、 離婚届け提出日に出版という単行本でのスクープを実現し、前代未聞の初版50万部……。など、常に無謀ともいえる数々の計画を自ら描き、クリアし続けてき た。見城氏をこのようなリスキーな挑戦に駆り立てているものとは何なのか? 今回はそんな見城氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え 方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<見城 徹をつくったルーツ.1>
仲間と打ち解けることができず、物語の世界に自分を探した小学生時代

 小学生のころ、他人がとても怖かったんだよ。自分の容姿に自信がなかったし、いつも陰で誰かに笑われているような気がしてた。自意識過剰だったのか もしれない。周囲の目がいつも気になってたから。僕の名前が見城でしょう。それで同級生たちから「検便、検便」なんて呼ばれてさ。気づかないふりをすれば いいものを、つい振り向いちゃうからまた標的にされる。それから休み時間にトイレに行けなくなってね。ほら、休み時間って廊下にみんながよくたむろする じゃない。そいつらの前を通ってトイレに行くのがいやなんだよ。また、はやし立てられそうで。授業中、ずっと我慢するわけ。つらいよね。

  ほんと、このころはいい思い出がほとんどないね。たぶん小学校6年だな、あれは。目の前をとおりかかったある女の子のスカートに、偶然、僕の手がかかっ ちゃって、彼女のスカートがベランとめくれた。それから僕のあだ名は「ベランダエッチ」。ちょうどエッチという言葉が流行り始めたタイミングだったから、 それはもうすごい屈辱でさ。そういえば学校の先生も、僕のことを女の子のスカートをめくるような生徒だと思ってたんだろう。通知表の行動評価を悪く書いて たな。やる気が出ないから成績も落ちるし、本当は仲間がほしいんだけど、打ち解けることができない。そんなだから、ひとりにならざるを得ないわけだ。正 直、当時の僕は、いじめられっこだったんですよ。孤独だったね。そんな僕にとって、唯一楽しい時間が読書。マンガも好きだった。『少年サンデー』と『少年 マガジン』はずっと愛読してた。

 最初に感銘を受けた本として記憶に残っているのは、ジョイ・アダムソンが雌ライオンとの交流をつづったノンフィクション「野生のエルザ」「永遠の エルザ」「私のエルザ」「エルザの子供たち」のシリーズかな。あと、「ドリトル先生」シリーズにもはまったね。どちらも人間同士の交わりではなく、人間と 動物との交わりがモチーフなんだよ。そこにすごく魅かれた。自分以外の人との関わりを避けていた僕が、逃げ込みやすい世界だったんだと思う。物語の世界な ら、誰にもじゃまされないからね。

 「レ・ミゼラブル」も思い出の一冊だね。登場人物のひとりに、コゼットという孤児の女の子がいて、さまざまな虐待を受けながら宿屋で働かされてい る。そんな彼女が、食卓の下に隠れて、ナイフだったかな、それに布をかぶせて人形遊びをしてるわけ。そのシーンがすごく悲しくて、周りの登場人物が許せな くなる。それが自分の孤独な現状と重なって、ますます悲しくなる。夢中になって読んだよ。そして、自分の心の中にある何かに照らし合わせられる世界を探す ために、僕はどんどん読書にはまっていくんだ。

<見城 徹をつくったルーツ.2>
満たされない自分を綴った日記は、高校卒業とともにハッピーエンド

 小田実の「何でも見てやろう」、五味川純平の「人間の條件」、高橋和巳の「邪宗門」に「悲の器」、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」、マルタ ン・デュ・ガールの「チボー家の人々」……。高校になってからも読書熱は下がるどころか上がる一方。中学、高校を通して、学校の図書館で一番本を借りたの は絶対に僕だと思う。そうしているうちに、感動した本を誰かに教えたくてしょうがなくなった。紹介した中で一番みんなが読んでくれたのは、司馬遼太郎の 「竜馬が行く」。振り返ってみると、自分が感動したものをひとりでも多くの人に届けたいという想いは、このころすでに醸成されていたんだね。

  高校は県立清水南高等学校へ進学した。そのころは、学区内では上から3番目の三流校だったから、ぎすぎすしてなくて意外とのびのび過ごせたね。山と海に囲 まれた環境も手伝ってか、やっとはつらつとしてきた(笑)。校技だったラグビーに夢中になって、僕は足の遅いフルバック(笑)。できたばかりの高校で野球 部がないこともあって、ラグビーに力を入れてたね。今では花園の常連校だよ。勉強した記憶もあまりない。けど、成績はずっとトップクラスだった。で、学校 に反抗し始めた。ベトナム反戦運動の高校部会にも参加してたし。校長に抗議したり、授業をボイコットしたり。成績のいい生徒がこれだから、学校側にとって は本当に扱いづらい問題児だったと思う。

 あと、少しずつ自分でも小説を書くようになった。すごく稚拙なものですよ。当時は自分の考えを書くことで救われるような気がしてた。高校1年から 3年間、毎日、日記も書き続けたね。今その日記を読み返すとすごく面白いんだけど、本当に自分は満たされていなかったんだなとも思う。だいたいは恋愛につ いてのものだったけど。僕はひとつ下の女生徒に恋をしていて、ずっと想いを伝えることができずにいたんだよ。それも学校で一番のマドンナ的存在の。でも東 京の大学に行くことも決まってたし、これが最後だと思い、勇気を振り絞って彼女に手紙を書いたら、向こうも僕のことがずっと好きだったと(笑)。それで卒 業式が終わった後に、生まれて初めてのデートをしたんだ。グラウンドの裏にある砂浜を一緒に歩きながら。

 富士山を望み、三保の松原に続くあの美しい砂浜は、僕の青春時代の感動、悩み、涙、すべてが埋まっている場所なんだよ。今でもいつかあの砂浜に帰 りたいと思ってる。それについてはちょっとした考えはあるんだけどね。ちなみにその後、彼女との付き合いは4年間続くんだが、僕の人生で初めての他者が、 彼女だった。日記は、卒業式の日を境に書かなくなったね。大学も受かって、ハッピーエンドで幕を閉じたというわけです。

<世の中との闘争の日々が始まる>
現実の踏み絵を踏み抜けなかった自分。資本主義世界での成功を心に誓う

  高校を卒業して慶応義塾大学に進んだ僕は、彼女に週に2、3回手紙を書いて文通して、たまに電話して。1年後に彼女が法政大学に進学して上京して来るまでは、そんなつながりです。そして、映像の世界に少し興味があった僕は、大学の放送研究会に入ったんだけど、そこはセクトの巣。ヘルメットに角材を 持って、自由と平等を勝ち取る闘争の日々に放り込まれた。デモに参加して、火炎瓶もよく投げたね。このころ、田舎から出てきた無名で貧乏な自分が、周りの仲間を愛しながら小さく生きて、最後は小さく死んでもいいじゃないかと本気で考えていて。その一方で、これからの自分はどうなっていくんだろうという不安を抱きながら、死のキャリアとしての人生を歩むことに、ものすごいせつなさを感じるようになっていったんだ。そもそも人間、生まれたからには例外なく、死に向かって歩いている死のキャリアであるわけだからね。

 そのせつなさを何かでごまかさなければ、苦しくて生きてはいけない。その苦しさを埋めるものが僕の中では5つある。恋愛、仕事、家族、友人、そして金。でも当時は恋愛しかなかったよ。好きな女性か ら「見城君、ステキー!」って思われることが、ものすごいエネルギーになる。これは今でも同じなんだけどさ(笑)。思い出すのは、機動隊と衝突して捕まっ て、引きずられて行く僕の足を彼女が必死でつかんでくれたときのこと。世の中の矛盾と戦う姿を大好きな彼女に見ていてほしいというパッションが、当時の僕を動かしていたんだと思う。

 1972年5月、赤軍派の奥平剛士ら3人がパレスチナ奪還のため、イスラエルのテルアビブ・リッダ国際空港で自動小銃を乱射した。結果、24人を 死亡させ、76人が重軽傷を負うというテロ事件を起こして、最後に奥平はここで命を絶った。彼は自分が抱いた観念を貫徹するために、現実の踏み絵を踏み抜 いたわけだ。でも、僕は結局、死を賭すことはできなかった。逮捕されるのは怖いし、母親を悲しませたくない、就職もしなければならないという想いが頭をよ ぎってね。行為として実践しないと、その思想や観念の価値はないんだよ。そして、僕は学生運動からすっぱり足を洗った。自分の臆病さに対する情けなさと、 奥平剛士の潔さと、実行への嫉妬……。このときに生まれた劣等感が、その後の僕をどんどんリスキーな仕事に向かわせているんだと思う。

 奥平に比べれば、今僕が背負っている、たとえば個人破産や会社倒産のリスクなんて何でもない。だから絶対に俺はこの世の中で成功してやろう。それが資本主義の醜さの証明につながる。いつもそんな気持ちで目の前の仕事に対峙してきたんだ。

<文芸編集者、見城徹の誕生>
表現者の情念を理解する自分を発見。角川書店にもぐり込み編集者の道を拓く

 大学を卒業後、ある出版社に就職した僕が初めて手がけた本のタイトルは『十万円独立商法』。当時、東京スポーツで記者をしていた高橋三千綱が、この 本を特集で大々的に取り上げてくれたんだよ。それが縁となって、三千綱から中上健次を紹介された。それ以降、ゴールデン街や新宿二丁目で、文学論議と喧嘩 の毎日を送るようになった。村上龍、立松和平、つかこうへいと知り合ったのもこのころだね。そんな日々を重ねるうちに、「彼らが表現しようとしている世界 には狂気が潜んでいる。自分には表現することができないオリジナルな世界だ。彼らは、それを表現しなければ生きていけない人たちなんだ」と思うようになっ た。

 百匹の羊、全員の平和と安全と維持を考えるのが、政治や経済、法律とか道徳の仕事。しかし、その群れから滑り落 ちる一匹の羊のために表現がある。僕はそう考えている。犯罪と表現、実は紙一重なんだとも。善悪を超えたものが本当の表現なんですよ。そして僕の中には、 一匹の羊である彼らが表現したい治癒不可能ともいえる情念を作品化し、プロデュースする役割のほうが合っている。小説家になりたいと思っていた時期に、そ のことに気づいてしまった……。そして僕は、彼らの表現活動をアシストしたり、補助線を引く、編集者として生きていくことを決めたんだよ。

 その後、会社を辞めて角川書店にアルバイトとしてもぐり込んだ。表現者たちと仕事をするために。でも最初は、事務や雑用ばかり。でも、どんな小さ なこともおろそかにせず、毎日明け方まで必死でやった。それが認められて、当時、角川書店で唯一の文芸誌『野性時代』の編集部に正式採用されたんだ。今で も、小さなことがきちんとできない人間に大きな仕事などできるわけないと思ってる。

 編集者となった僕は、「角川では書かない」と宣言している作家に書いてもらうことを決めた。角川書店というブランドの一員にはなったけど、入社以 来、その看板で仕事しようと思ったことは一度もない。ほかの誰かで足る仕事をしても意味がないし、スムーズに進んだ仕事なんて仕事とはいえないでしょう。 七転八倒して、血や汗を流して苦しんだものだけが大きな結果につながるんだよ。ローリスク・ハイリターンなんて絶対にない。そういえば学生時代の試験で も、一番難しい問題から先に解いてた。例えば英語の試験なら、まず英作文から。点の配当が一番高いし、誰でも解ける英文法なんかどうでもいいと思ってた ね。結局僕は、昔から難しいことに挑戦してしまう性分だったんだな(笑)。

常にヒリつくような挑戦者の立場を求め、圧倒的な努力で不可能をクリアし続ける

<見城徹、仕事の流儀>
好きな人を動かしたいのなら、相手をとことんイメージすべし

 角川書店には新作を書いてもらえなかった、五木寛之さんとの仕事を話そうか。まず、五木さんが書いたどんな小さなコラムも、エッセーや対談も必ず読 んで、そのすべてに手紙を書くことを決めた。ただ「良かったです」ではなく、ある程度の批評になってないといけない。自分は必ずあなたのプラスになりますという刺激を感じてもらえない限り振り向いてはくれないでしょう。的はずれになっては逆効果になるから、時間をかけて一所懸命に書いた。最初のうちは全く返事は来ない。18通目くらいで、初めての返事が届き、25通目くらいのときに、初めてお会いすることになった。もしも僕が角川の社員じゃなかったら、ストーカーだよ(笑)。でも、その出会いがきっかけで『野性時代』に『燃える秋』の連載をいただいて、単行本になって50万部くらい売れて、映画化もされた んだ。

 僕もよく人から手紙をたくさんもらうけど、時候の挨拶と自分のことばかり書いてくる人が多いね。僕を しっかりイマジネーションしてくれないと、僕が気づかなかった深層心理に気づかせてくれないと、その人に会いたいとは思えないよ。手紙って全部相手のこと を書かないとだめなんだよ。だから僕は対象への強い感動がないと動けないって言うんだ。結局、僕が尾崎豊の本を出したいと思ったのも、街角で流れてきた 「シェリー」を聞いて感動したからだし、ユーミンと仕事を始めたのも、カーラジオから流れてきた「卒業写真」に感動したから。僕の仕事は、すべて感動から 始まっている。

 ある作品に感動すると、もっとその人のことを知りたいと思うでしょう。編集の仕事って、それを独り占めにせず、誰かに分け与えたいという情熱を もって、表現者と編集者がお互いの個をぶつけ合いながら、素晴らしい作品に仕立て上げていくこと。そういった意味で、編集者というのはある意味特権階級な んだよ。なぜなら、この人に会いたい、一緒に仕事したいと思えばそれができるんだから。もちろん、本気でそれを実現するためには、圧倒的な努力が必要とな るんだけど。

 僕は、角川時代も、幻冬舎をつくってからも、たくさんのベストセラーを世に出し続けてきた。よく「見城さん、あなたは運がいいね」って言われるんだよ。「ああ、おかげさまで」と応えてはいるけど、「バカ野郎。俺はあんたの百倍以上、血みどろの努力をしているんだよ」と心の中で呟いてる。もちろん、 そんなこと言っても無駄だから口に出しては言いませんよ。まあ、「これほどの努力を人は運と言うんだ」って愚痴っているときが、実は一番いいときなんだろうね。

<幻冬舎の誕生と船出>
単行本同時一挙6冊で創刊。圧倒的な努力で運を手繰り寄せる

 角川書店では、入社した年から17年後に辞めるまで、ずっと一番の稼ぎ頭だった。だから、一番若い取締役に抜擢されました。でも、年齢や地位が上 がってくると、自分でやらなくてもいいことが増えて、それゆえ感動との出会いが減って……、だんだんそんな自分に嫌気がさしてくる。腐り始めた自分に気づ いてしまったとき、もうこの環境を壊すしか道はないと思った。すべてをゼロに戻したとしても、戦おうと思える自分がいる限り大丈夫だろうと。会社を辞める ふんぎりがついたのは、コカイン密輸事件で角川春樹氏の社長解任動議に賛成票を投じたときだね。そして、1993年に僕は角川書店を退職して、その年の 11月、五木寛之さんに社名をつけてもらい、幻冬舎を立ち上げたんだ。実をいうと35歳くらいから、いつもポケットに辞表を忍ばせていたんだが。

  1994年の3月25日、朝日新聞に「文芸元年。歴史はここから始まる」というコピーの全面広告を掲出し、五木寛之、村上龍、山田詠美、吉本ばなな、篠山 紀信、北方謙三の単行本を一挙6冊創刊。その後、郷ひろみの『ダディ』では、前代未聞の初刷50万部、天童荒太の『永遠の仔』では、25万部売れないと採 算が取れないくらいの広告を投下、そして設立3年目には文庫を一気に62冊刊行……。なぜ、ここまでの無謀に挑戦し続けるのか。やはり死を賭して戦った奥 平に比べたら、僕のやっているリスクなんて大したことないって思えちゃうんだよ。僕自身は、とても臆病で、後ろ髪を引かれていつも小石につまずくようなタ イプなんだけど。

 でもね、無理・無謀に挑戦して、それをクリアしていくことが世の中からは一番カッコよく見えるんですよ。僕は設立当初から、何かを売るというより も、幻冬舎というブランドがいかに鮮やかに見えるかということに心を砕いてきた。もちろん、その実現には圧倒的な努力が必要とされる。運をつかもうと思っ たら、絶対に圧倒的な努力が必要なんだよ。それがあったとしても、運がつかめないときはあるんだから。でも僕は圧倒的な努力で8割のリスクは埋めることが できると信じてる。だから、勝ちが決まっているゲームをあたかも無謀のように演出しながらやってきたという想いはあるよね。これまでのすべての仕事におい て。自分で言うのも何だけど、幻冬舎は世の中の人たちがカッコイイと思ってくれるブランド力のある会社になったと思ってる。

<未来へ~幻冬舎が目指すもの>
まずは雑誌『ゲーテ』を大成功させ、グラビア誌を5誌くらい発行したい

 僕はね、やっぱり「売れる本」が「いい本」だと思う。いくら偉い人が「あの本は売れているけど、どうだか……」って言ったって、何十万人の心を動か したのはまぎれもない事実だからね。その人たちは新しい価値が生まれていることに無自覚なだけなんですよ。でも、いい本がいつも売れるとは限らない。もち ろん、いい本を一所懸命につくって、売るための圧倒的な努力は常に怠らないけれども。去年の11月には新書分野に進出して、一気に17冊を刊行しました。 出版社としては最後発だったんだけど。これも、今なら自分が知りたい、読みたいと思う情報、すなわち自分が納得できるいい本がたくさんつくれると思ったか ら。単行本よりもスピード感をもって出版できる新書というかたちでやることにしただけ。マーケティングなんかじゃなしに、走り出すためのモチベーションは いつも個人的理由なんですよ。結果は、大成功でした。

 出版は斜陽産業。そういわれている中で、9年 目に上場して。こんなとこで言うのも恥ずかしいんだけど、それは圧倒的な努力だったのね。そして、ブランドも確立できて、幻冬舎と一緒に仕事したい、映画 をつくりたい、資本提携したい、ありがたいことにそんな話がすごく増えています。だけどそんなことに惑わされてはだめなんだよ。毛沢東が唱えた革命成功の 三原則に、「貧しいこと」「無名であること」「若いこと」というのがある。それが昔は確かにあった。ヒリつくような何かが、かつてのウチには。それはそう だよね、後がないんだから。残念ながら今はそのヒリつくような何かがないわけだから、やっぱり、自分たちでゼロに戻さなければいけない。いろんな意味でブ ランド力にあぐらをかいてるというか、どこかで慢心してしまうというか、それは組織であったり、社員にも僕自身にもいえることだと思う。ゼロに戻すために ディスクロージャーの道を選んだんだけど。上場したらしたで、ゼロに戻しづらいこともあるし、そうでないこともある。

 そういった中で、今年は『ゲーテ』という雑誌をもっと採算的に成功させようと思っています。今は半成功のところを成功させて、その上で大成功に もっていく。雑誌といっても、ウチがやってる『パピルス』みたいな文芸誌をつくるなら簡単だけれども、そうではなくて。ナショナルクライアントの広告が もっときっちり入るグラビア誌として育てていく。今は男性誌の『ゲーテ』一誌だけなんだけど、女性版をつくったり、最終的には5誌くらい出したい。そのた めにはやっぱり圧倒的な努力をしていかないといけないよね。難しいかもしれないけど。難しいことに挑戦してクリアしていかない限り、ハイリターンなんて望 めないんだから。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
好きな分野で不可能な道を選択し、圧倒的な努力を続けなさい

 まず、どんな仕事でも他者を知ることが一番重要だと思う。他者をイマジネーションできない人には、いい仕事なんてできないよ。僕の若い頃は学生運動 があったし、僕らの父親の世代には戦争があった。そこには集団の中での強烈な、劣等感、猜疑心、嫉妬心、独占欲といった負の感情を育てるものが確かにあっ たよね。そこを通過してきた人間は強いよ。本当の意味で他者を知りながら、自分自身を思い知らざるを得なかったから。でも、今の人たちには潜り抜けなけれ ばならないものが何もないから、この時代、もう恋愛しかないんじゃないかな。本気で他者を知ろうと思うなら。自分がこうしたら、相手が傷ついたとか。それ がわからない限り、人を動かすことなんてできないよ。

 起業したいけどやりたいことが見つからない?  そんな人は起業することをあきらめたほうがいいよね。社会で仕事することすら無理なんじゃないの。でも好きなことはいろいろあるでしょう。たとえば、旅 行が好きな人なら、その分野で何かを立ち上げればいいだろうし、派手な世界が好きな人なら、まずどんな手を使ってでも芸能界に潜り込むとか。そのためにあ らゆる努力をすればいいじゃない。好きなことなら努力できるし、続けられるでしょう。まず、自分が感動することを探してみるといい。僕が街の雑踏の中で聴 いた尾崎豊の「シェリー」に感動し、タクシーのカーラジオから流れてきたユーミンの「卒業写真」に感動して仕事を始めたように。それを感じる場所は人それ ぞれだけど、感動することは誰にでもできることなんだから。

 そもそも成功のコツなんてないし、苦労や難関のないところに前進はない。僕は昔から、「ヒンシュクは金を出してでも買え」「薄氷は自分で薄くして 踏め」「スムーズに進んだ仕事は疑え」って言ってきたけど、不可能な道を自ら選んで、そこに向かって努力していけば成功するものなんですよ。だから、本気 で成功したいと思うのならば、不可能だ、無謀だ、無理だと、みんなが言うことをやればいいんだよ。その中で自分が好きなことを見つけること。そして、そこ に向けて圧倒的な努力をする。それしかない。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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