第19回 有限会社てっぺん NPO法人居酒屋甲子園 大嶋啓介

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第19回
有限会社てっぺん 代表取締役
NPO法人居酒屋甲子園 理事長
大嶋啓介 Keisuke Oshima

1973年、愛知県生まれ。小さな頃から、祖父が経営する喫茶店を見て育ち、将来は自分も飲食店オーナーになりたいと思うように。名城大学理工学部卒業 後、1年間だけサラリーマンをやると決め、専門商社へ就職。横浜地区の営業を担当する。1年後、公約どおり退職し、愛知県へ戻る。1カ月かけて40店以上 の店を視察した中で、ここで働きたいという居酒屋に出合う。97年5月、(株)かぶらやグループにアルバイトとして入社。8カ月という異例の早さで「飯場 本店(はんば・ほんてん)」の店長に昇格。その後、常にNo.1の業績を挙げ続け、名古屋でもっとも注目される繁盛店に育て上げた。2001年、東京進出1号 店となる「飯場銀座店」の立ち上げを担当。「朝礼日本一の店」としてマスコミ各社が取り上げ、全国から朝礼見学者が殺到。30歳で、かぶらやグループを退 職後、03年7月、(有)てっぺんを設立。04年1月に、第1号店「てっぺん自由が丘店」、05年4月「てっぺん渋谷店」(現・てっぺん女道場)、05年 8月には、大嶋氏が幼少期を過ごした三重県桑名市に「てっぺん桑名店」を、そして06年8月「てっぺん男道場」を渋谷にオープン。また05年には、日本の 居酒屋を元気にするプロジェクト、「第一回居酒屋甲子園」を開催。大きな成功を収め、業界内外から注目を集めた。てっぺんの朝礼の極意を納めたDVD、『本気の朝礼』(日経BP社)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

餅をいっぱい入れた母の手づくり雑煮です 
母がつくってくれる雑煮が一番好きですね。本当に美味しいんですよ。多いときは一度にお餅を20個くらいは食べます。お酒は何でも飲みますが、焼酎系が好きですね。特に芋焼酎が好き。ちなみに泡盛を飲むときは、必ず記憶がなくなるまで飲んじゃいます(笑)。

趣味

話すことが大好き。毎月15~20回は講演やってます 
講演やセミナーでしゃべることです(笑)。僕は話すことも、話を聞くことも大好きなんです。毎月、15~20回は講演を引き受けていまして、全国を飛び 回っています。今は、「居酒屋甲子園」と「てっぺん」の広報的な講演が多いですね。今後は、学校の先生や生徒向けの講演も増やしていきたいと思っていま す。

休日の過ごし方

子どもたちと本気で遊んでいます
オールオフでオールオンといえます(笑)。仕事もプライベートもほとんど境目がないですね。名古屋に、妻と6歳、3歳の男の子を残して仕事をしてますか ら、たまの休みがとれたら、自宅で子どもたちと遊んでいます。仕事よりもパワーを使うくらい、本気で遊んでいますよ(笑)。

いま一番行きたい場所

ハワイや沖縄などのリゾートで、じっくり本を書きたい
ちょっと前に1冊本を書き終えたばかりなんですが、まだ書きたい本が3冊くらいあるんですよ。だから、少し長い休みが取れたなら、ハワイや沖縄など南国のリゾートのホテルで、のんびりじっくり執筆をしたいですね。

「夢」と「元気」を提供し続ける居酒屋が、日本の時代を担うリーダーを育成します!

 ありえないくらい元気な居酒屋がある。その名は「てっぺん」。現在、東京・自由が丘に1店、渋谷に2店、三重県桑名市に1店と合計4店舗が元気に営業中。 この居酒屋を経営する会社を率いるリーダーが、大嶋啓介氏である。自称「夢を与える男日本一」。営業前に毎日スタッフ全員で行う「本気の朝礼」が、業界内 外のマネジメント層から注目され、年間で5000名を超える見学者が殺到。もちろん一般のお客も、「夢」と「元気」をもらいに夜な夜なこの店に訪れる。4 店舗とも、月商1000万円ペースをキープするなど、業績も絶好調だ。大嶋氏は店舗の経営以外にも、日本の居酒屋を元気にするプロジェクト「居酒屋甲子 園」をプロデュース。また、リーダーシップ研修の講師としての依頼が絶えず、毎月15~20本の講演のため全国を飛び回っている。「共に学び、共に成長 し、共に勝つ」を合言葉とし、居酒屋という舞台で日本中に元気を提供している大嶋氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプ ライベートまで大いに語っていただいた。

<大嶋啓介をつくったルーツ.1>
祖父が経営する喫茶店を見て育ち、飲食業を志す

 小さな頃から、ありえないくらい元気(笑)。いつも体中に生傷が耐えない、腕白少年でした。でも誰に対しても愛想良かったですし、元気に挨拶してま したね。親戚の人たちは今でも笑いながら言うんですよ、「本当にお前は手がつけられない子どもだった」って。僕のことが本当に可愛かったんだと思います よ、みんな(笑)。

 小学校の頃にはまったのは野球ですね。僕のポジションはキャッチャーで、3年連 続全国大会に出場して上位に入賞していたくらい強かった。ちなみにこの頃、あのイチロー選手とも対戦しているんです。今でも道は違えどもライバルだと思っ てますね(笑)。いつか彼との対談本を絶対に出したいと本気で考えています。

 小学校3年の頃、僕は 父を亡くしています。柔道が県で一番強くて、警官の道に進んだ人なのですが、殉職したときは刑事になっていました。その葬儀のシーンは今でも鮮明に覚えて います。同僚の方々が本当に驚くほどたくさん来てくださって、口々に亡き父に対して「ありがとう」と言うわけです。父はすごい人だったんだな~と、強く感 じましたね。その後、母が働きに出るようになり、僕は、三重県桑名市にある実家の1階で喫茶店を営業していた祖父の元で生活するようになりました。祖父も また人望の厚い人で、彼のキャラクターでお客さんが集まる、そんな店でした。思えばこの頃から、僕は飲食店のオーナーになろうと考えていたんだと思いま す。

 中学でも野球は続けたのですが、ひじを故障してしまいまして。で、僕が通っていた中学校はかな り荒れている学校で、バッテリーを組んでいたピッチャーが、これまたすごいワル。まあ、いろいろ悪事の誘いも多かった。でも刑事だった亡き父のこともあ り、警察のごやっかいになるわけにはいかない。だから、なんとなく遊びも野球も中途半端。いろんなことに全く自信が持てなくて、中学時代は自分を押し殺し ていた時代ですね。

 

<大嶋啓介をつくったルーツ.2>
1年間の期間限定で、サラリーマンを経験する

  結局、高校受験にも失敗し、僕は滑り止めに受けた私立の男子校に進学しました。でも、入学後最初に受けた試験で、なぜか学年で上位5番になったんで す。「大嶋ってすごいじゃん」て周りから言われて、僕も調子に乗って。テスト期間中だけは猛勉強するようになって。3年間、常に学年で1番か2番の成績が 続くんですよ。すると、また「やっぱり大嶋はすごい」ってなる。やはり人間は、人からほめられたり、尊敬されると頑張れるじゃないですか。それから、少し ずついいスパイラルが生まれてきて、僕の高校生活は非常に楽しくなりました。

 部活には入らずに、仲 間たちと思い切り遊びましたよ。この辺は、あまり書かないでほしいんですが、まあ、合コンばかりやってました(笑)。そんなこんなやっていたら楽しい高校 生活はあっという間に終わって、大学進学のシーズンが到来。僕は付属高校の上にある大学の理工学部への推薦枠をとって進学しました。理数系の科目が得意 だったのと、その大学の中で一番偏差値が高かったというのが理由です。

 大学時代の話ですか? やっ ぱり仲間たちと思い切り遊びましたよ。夏はテーマパークのプールの監視員、夜はダイニングバーでバイトしながら。この辺もあまり細かくは書かないでほしい んですが、まあ、合コンは相変わらずやってました(笑)。ちなみに大学生になって初めてセッティングした合コンで、一目ぼれしたのが今の僕の奥さんなんで すよ。これは意外といい話ですよね(笑)。

 就職活動のシーズンになり、飲食業の道に進むか、会社員 になるか悩みました。母親からは、安定感のある会社員になってほしいと言われてましたし。そこで、バイトしていたダイニングバーのマスターに相談してみた んです。彼いわく「決められたレールの上を歩くサラリーマン人生なんてつまらない。自分の夢なんて持てないぞ」と。でも彼は一度もサラリーマンを経験した ことがないわけです。なんだかやってもないことを否定する彼の考え方に嫌悪感を覚えまして、じゃあ本当につまらないかどうか自分で確かめてやろうと。東京 にある専門商社へ就職することに。1年後には退職すると決めて、サラリーマン生活を経験してみることにしたのです。

<1年間のサラリーマン生活>
THE BLUE HEARTSの曲が、ダメな自分を奮い立たせた

  就職した先は、コンピュータ関連部品を扱う専門商社で、僕は横浜地区を担当することに。1年で辞めるなんてやはり甘かった。商品知識を覚えること自 体が大変ですし、そもそもスパンの長い営業活動が必要とされる業界なのです。やってもやっても結果が出せない。どんどんもう辞めたいと思う気持ちが大きく なる。自分は飲食の道に進みたいから辞めたいのか、それともただこの仕事から逃げたいから辞めたいのか悩むようになり、一種のノイローゼ状態に陥ってしま いました。

 そうやって半年が過ぎた頃、営業中に湘南に車を止めて一休みしていたら、カーラジオから ある曲が流れてきました。「栄光に向かって走る~、あの列車に乗って行こう~」。THE BLUE HEARTSの「TRAIN-TRAIN」でした。「俺、全く栄光に向かって走ってない!」。ズシンと来たと同時に、「俺はいったい何やってんだ!」と。 すぐに半年後に退社しますという辞表を書いて、上司に提出しました(笑)。「お前、何考えてんだ!」とあきれられましたが、僕は本気でした。今後の半年 間、思い切り営業をやって、できるだけ結果を残してから会社を辞めようと決めたのです。

 その後は、 退職するまでもうがむしゃらに働きましたよ。たった1年間でしたが、営業仕事の大変さを痛感できたし、夢や目標を持っているサラリーマンがたくさんいるこ とがわかった。これらのことが身を持って実感できただけでも、会社員をやってみた価値はあったと思っています。

  そして計画とおり1年で会社を退職し、飲食店オーナーの道を目指して名古屋に戻りました。やっぱり地元には仲間もいますし、パワーが出るんですよね。4月 いっぱいは自分が働く店を探すため、お客となって居酒屋を中心に調査しました。40軒くらいは回ったでしょうか。その中で2軒、サービス力と人間力をすご く感じさせてくれる店があったんです。それが2軒とも、かぶらやグループという会社が経営している居酒屋だったのです。

<飲食店修行時代>
24歳で、新規店店長に抜擢。チームづくりに悩む日々

 そして僕は97年5月に、アルバイトとしてかぶらやグループに入社します。3年後、26歳で自分の店を持とうと決めていましたし、ここなら得られる ものも多く、厳しく指導してもらえるだろうという確信があったのです。厨房では殴られ蹴られ、まさに厳しく指導いただきました(笑)。それでも周囲に「早 く店長にしてほしい」といい続け、当時では大抜擢だったと思うのですが、入社8カ月後の24歳で、僕はホール店長を任されたのです。

 その店は、かぶらやグループの記念すべき10店舗目となる「飯場本店」という店。オープン店長という重い責任からか、オープンから2週間39度の 高熱が続きます。その上、なかなかチームがまとまらないプレッシャーも重なって体が悲鳴をあげたんでしょう。なんと、信じられないくらい大きなイボ痔が3 つもできちゃったんです。お医者さんに言わせると、「これはすごい! 日本一のイボ痔だよ」と(笑)。僕は今では「夢を与える男日本一」を自称しています が、その前に、「イボ痔日本一の男」の栄誉を授かってたんです(笑)。

 それからも半年くらいは調子が悪く、スタッフ と僕の距離感は広がるいっぽう。僕の孤独感も募るいっぽう。「俺は飲食業に向いていないのかも……」と、本気で悩み始めた頃、会社の勧めもあって、ある リーダーシップ養成研修に参加しました。実はこの頃まで、「研修? 俺には必要ないよ。宗教みたいなのもあるって聞いてるし」とバカにしていたのですが、 この研修に参加したことで、僕の人生は大きく変わることになります。

 講師の方も素晴らしかったのだと思います。この 3日間の研修で、自分が一番ほしかったもの、なりたかった姿がはっきりとわかったのです。それは小さな頃、一緒に熱くなった野球チームの仲間のように「本 気で熱くなれる仲間がほしい」ということ。また「日本一のチームをつくりたい」「スタッフの可能性を引き出すリーダーになりたい」ということ。そしてそん な夢が認識できて初めて、まだ自分が本気になってないことに気づいた。本気じゃないリーダーに、誰もついて行こうとは思えないですよね。研修終了後、ゴメ ンから始めて、メンバーときちんと向き合って夢を共有できたことで、やっと店の一体感が生まれ、本気でいい店づくりにまい進することができるようになっ た。振り返って考えてみると、この研修を受けた24歳が僕の人生の分岐点でした。

「共に学び、共に成長し、共に勝つ」。本気のチームをつくって日本を元気に!

<自由が丘に居酒屋てっぺん、誕生>
修行時代のノウハウを注ぎ込み、居酒屋日本一を本気で目指す

 その後は絶好調です。常にグループ業績No.1を挙げ続け、「飯場本店」を名古屋でもっとも注目される居酒屋に育てることに成功します。2000年には 和食統括店長に昇格し、店長会議のプログラム作成、店長教育を任せてもらいました。この当時も研修に毎月最低1本は参加し、また、全国の話題となった飲食 店舗には実際に足を運び、店長に業績好調の秘訣をヒアリング。1年間で100軒は通いましたね、ほぼ自腹で。もう自分磨き&リーダーシップ研究マニアと いっていいくらい(笑)。やはり店をつくるのは人であり、特に店長の成長意欲がスタッフを育て、店自体の成長にもつながるということを学びました。

  26歳を3カ月後に控え、独立するために退職の意向も会社に伝えていたのですが、社長から「東京に進出するのでやってみないか」という誘いを受けます。悩 みましたが、東京という大きなマーケットで自分の可能性を試してみるのも悪くないと、「飯場銀座店」の立ち上げを引き受けることにしました。居酒屋はお客 様に「夢」や「元気」を持ち帰っていただく場所です。そのためにはこの場所で働く自分たちが元気で輝いていないと。そのために、開業前に毎日「朝礼」を実 施。この朝礼が「日本一の朝礼」としてマスコミに取り上げられ、全国から見学者が集まるように。そうやって、東京で初めて僕が手がけた「飯場銀座店」は 「人間力日本一」として業界内外から注目され、もちろんお客様からも多大な支持をいただき、成功を収めることができたのです。

  そして2003年に、かぶらやグループを退職し、7月に(有)てっぺんを設立。当初の独立計画から4年遅れ、僕は30歳になっていました。これまで培って きたチームで勝つためのノウハウのすべてを注ぎ込み、04年1月に「てっぺん自由が丘店」をオープンします。ちなみに社名に付けた「てっぺん」とは、居酒 屋No.1を目指すという意味とともに、できるだけ高い位置=てっぺんで仕事をすることで、小さな頃に亡くなった天国にいる父に、僕の活躍を見てほしいと いう思いもこめています。

<てっぺん流「本気の朝礼」>
全国から5000人の視察を集める営業前の儀式とは?

 その後、04年11月に「てっぺん渋谷店」、05年8月に祖父の実家のあった三重県桑名市の駅前に「てっぺん桑名店」、今年の8月には、渋谷に 「てっぺん男道場」をオープン。どの店舗も月商1000万円をキープし、順調に経営を続けています。これも素晴らしいスタッフが集まってくれたからです。 そして、僕が信じる「店をかたちづくるのは何よりも人」という考え方をスタッフ全員が理解し、実践してくれているからでしょう。

  もちろん、各店舗で「本気の朝礼」を毎日実践しています。その内容を間単に説明しておきます。まずスタッフ全員が1分間目を閉じて、将来自分がなりたい姿 をイメージすることから始めます。そして日々変わっていく「感謝」「夢」などのテーマについて自分が考える思いを、各スタッフが大きな声で発表します。そ して挨拶の訓練、最後に自分以外のスタッフをほめまくって気合を入れ、最後は互いに握手を交わして営業開始。これによりスタッフ全員のモチベーションが最 高潮となり、元気な接客サービスができるのです。

 この「本気の朝礼」は外部の見学も受け入れていて、全国から年間で5000名を超える方々が視察に訪れています。朝礼を視察された後は、皆さんそのままお客様になって席につかれますから、一挙両得(笑)。だから、てっぺんは、オープン直後からほぼ満席です。

  てっぺんの出店計画を忙しくこなしていた創業2年目頃、僕が代表となり「第一回居酒屋甲子園」というイベントの開催を決定。250店を超える全国の居酒屋 からエントリーがあり、06年2月9日に、5店の上位入選店舗が東京の日比谷公会堂で活動報告のプレゼンテーションを行いました。当日は会場に2500人 の観客も集まり、結果、大成功。僕は居酒屋で働き始めたことで、人生を好転させることができた。そして、「共に学び、共に成長し、共に勝つ」という夢が生 まれました。同じように居酒屋で働いている人たちに、夢を持ってチームで目標を達成することの素晴らしさを知ってほしいと思ったんです。すでに第二回の開 催も決定しています。ちなみに今回のテーマは「ありがとう」です。決勝大会は来年07年の3月で、5000人を収容できるパシフィコ横浜で開催します。よ り多くの居酒屋関係者にご来場いただきたいですね。

<未来へ~てっぺんが目指すもの>
リーダーをどんどん輩出し、将来は学校経営も計画

 以前、ある調査報告を読んでショックを受けたことがあります。世界の先進20カ国の中学生に「学校の先生を尊敬できるか」と聞いたところ、尊敬でき るという回答が平均で約70%。日本はというと、なんと21%。もちろんダントツで最下位です。この調査からは、先生だけでなく、大人を尊敬できない日本 の子どもたちが見えてきます。僕はひとりの大人として悲しくなると同時に、危機感を覚えました。もっと元気な大人のリーダーを増やして、元気な日本をつく らなければ、と。

 今のところ4店舗で居酒屋てっぺんの出店は打ち止め。これからは年に4人ずつ、 てっぺんから経営者を輩出していく計画です。独立道場でもある当店で、ホールからキッチン、店長を経験したあとは、てっぺん塾で実店舗立ち上げのノウハウ を学ぶというプロセスです。この9月には、副社長の内山正宏が第1号の卒業生として独立。「なかめのてっぺん」を開業します。こうやって、てっぺんイズム を持った夢と元気を伝えることのできる自立したリーダーをどんどん育てることで、外食産業全体を、ひいては日本という国をいい方向に変えていくことができ ると信じています。

 また、外食産業の次世代リーダーを育てるだけではなく、子どもたちの教育にも携 わっていきたいです。地元の桑名でてっぺんを開業したことが縁で、この8月、桑名市にある小中学校の校長会にお呼びいただき、2時間の講演をしてきまし た。今後は39校ある桑名市の全小中学校で講演させてもらうことが目標です。また桑名駅前は、てっぺんオープン後に人の流れが変わり、新しい飲食店が10 店ほどできたそうです。桑名市から、街づくりの提案をてっぺんにやらせてみようという声が上がっているという話も聞いています。まずは桑名市を、日本一子 どもたちが輝いている街にしたいですね。そして学校のコンサルティングを少しずつ手がけながら、数年後には、日本一の小学校をつくるというのが今の僕の夢 です。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
強いリーダーになりたいなら、常に本気で挑戦し、学び続けること

 夢をつかんだ人に共通して言えることは、夢をあきらめることなく、やり続けたということ。夢が見つかったなら、外野の声など気にすることなく、自分 を信じて何が何でもやり続ける。それも明日死んでしまってもいいと思うくらい、毎日を本気で真剣に生きてほしいと思います。夢を見つけるために、ぜひ、将 来自分がほしいもの、なりたいものを紙に書き出してみましょう。そして、見つかった夢には、達成するための日付を付けてください。そうすることで、自分の 思いが明確になり、これから何をすることが必要なのか見えてくるのです。

 夢を叶えようと頑張り続け れば、きっといろんなハードルが目の前に現れるでしょう。例えば、顧客からのクレーム処理。「あ~、クレームだ。嫌だな~」と思いながら対応するのか、 「よし! クレームは自分を成長させてくれる貴重な機会だ」と思って対応するのか。常に後者のようにハードルを前向きにとらえて対処していくこと。どんな ハードルでもこうやって解釈の仕方を変えることで、乗り越えやすくなるはずです。ぜひ実践してみてください。

  起業してリーダーになったとしましょう。ひとりでは何もできませんから、そこには仲間が必要です。どうすれば、仲間が自分についてきてくれるか。先ほども 言いましたが、「共に学び、共に成長し、共に勝つ」という考え方が大切だと思います。そうやって、ひとりひとりの能力を最大限に引き出していくのです。そ のためには、リーダーである自分自身が本気になって挑戦し続け、学び続けるしかない。そう思います。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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