第5回 マネックス証券株式会社 代表取締役社長CEO 松本 大

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第5回
マネックス・ビーンズ・ホールディングス株式会社 マネックス証券株式会社
代表取締役社長CEO 松本 大 Oki Matsumoto

1963年、埼玉県生まれ。自身曰く、無軌道な青春時代を送るも東京大学法学部に現役で入学。87年3月、同大学卒業後、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券に入社。90年4月、ゴールドマン・サックス証券へ転職。92年5月にヴァイス・プレジデント、94年11月には、30歳で同社最年少ゼネラル・パートナー(共同経営者)に就任する。創業者を除き、英語圏外で教育を受けた初のパートナーとなる。98年10月、同社を退社。当時のソニー社長・出井氏に提案を持ちかけ、99年4月、ソニーと共同出資でマネックス証券を設立、代表取締役社長に就任。2000年8月、東証マザーズ上場。04年8月、日興ビーンズ証券と共同持株会社、マネックス・ビーンズ・ホールディングス設立。05年12月、マネックス証券と日興ビーンズ証券が合併したマネックス・ビーンズ証券の商号をマネックス証券に変更。01年5月には、米経済誌フォーチューンで「次代を担う世界の若手経営者25人」の1人に選ばれた。著書に『10億円を捨てた男の仕事術』(講談社)など多数。

ライフスタイル

好きな食べ物

寿司、蕎麦、日本酒です。
寿司、蕎麦、日本酒です。これらがないと生きていけないくらい好きです。お酒は週に5、6日は飲みますし、通常で1日5合、これまでの記録は2升。二日酔いもあまりしませんよ。

平均的な一日

 6時半に起床。睡眠時間は3時間か4時間半。
朝は6時半に起床。ネットでマーケットを眺めて、朝ごはん。その後、腕立て100回、腹筋100回、逆立ち1分のトレーニング。これは風邪を引いて体調悪 くても欠かしません。8時半に会社に着いてからは、休みなくミーティングが続きます、空いた時間は電話連絡に、メールの処理。雑誌を読む暇もないくらい忙 しいですよ。18時に会社を出て、セミナーなどに出席。それを終えると、仕事関連のディナー。それから、社員と飲みにいったりします。帰宅するのは深夜1 時。1時間半くらい今日の整理をして、就寝。睡眠は、1.5時間の整数倍がいいらしいので、3時間か4時間半と決めて寝るようにしています。

ストレスフリーの証明

ストレスを感じることが減ったんですね、きっと。
ゴールドマン・サックス時代は、脂肪肝があったけど今はないです。γ-GTPもその頃より下がっていますね。胃にも十二指腸にも全く問題がない。とてもき れいらしいんです。だから、お医者さんも、「悩みがないんですね~」ってあきられるくらい健康です。起業前とライフスタイルは変わっていないんですが、マ ネックスが大好きだからでしょうか。ストレスを感じることが減ったんですね、きっと。

もしも一週間休みがとれたら

海が好きです。
僕は何でも影響されやすいんですね。テレビコマーシャルで、中井貴一さんが、タヌキとカッパのぬいぐるみが出てくるヤツあるでしょう。あのリゾートバージョンを見て、海に行きたいな~と。海、好きですし。だから、海かな。

10億円を手にする権利よりも大切なこと。「新しい概念の金融事業」を立ち上げたかった!

 外資系証券会社の共同経営者として、半年後に確実に得られた上場益獲得の権利を辞し、1999年4月、松本大氏はマネックス証券を立ち上げた。「インター ネットという民主的なツールを使って、正しい金融機関をつくりたい」。創業時に誓ったこの思いを実現すべく、株、ミニ株、投資信託、債券、中国株など業界 随一の豊富な商品ラインナップを取り揃え、他社に先駆け夜間取引や自動売買システムを導入し、そして、初心者向けの投資セミナーを全国で積極的に開催 中……。など、個人、特に株初心者を中心に、多くのユーザーから「株取引のことならマネックスのサイトに行けばなんとかなる」という認知を得ることに成 功。今日現在も、日本のネット証券会社の旗手として、新たなサービスを開発し続けている。今回は、10億円、いや、数十億円を捨て挑戦の道を選んだ男、松 本大氏に、青春時代から起業に至るまでの経緯、大切にしているポリシー、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<松本大をつくったルーツ:小学校時代>
父に教え込まれた、反全体主義と批判精神

 僕の父は小学校6年生で終戦を迎え、空襲も経験したそうです。当時、仲間内でベーゴマ遊びをしていても、強いベーゴマ のことを、「B29」って呼んでたとか。きっと、日本がアメリカに負けることを、純粋な子どもたちは大人よりも敏感に察知していたんですよ。新制中学に入 学した頃、久しぶりにす~っとぬけた青空を見て感動したことを、よく話してくれました。うれしかったんですね、戦争がやっと終わったと実感できたことが。 父は、日本の敗戦体験を通じてファシズム、全体主義に強い批判精神を持つようになったのだと思います。誰かがそう言ったからではなく、まずはそれを疑い、 常に自分で考えを構成して行動しろ。どんな時でもイエスマンにはなるな。父の教育方針は、そんな感じでした。それもあって昔から、僕はおかしいことはおか しいって、はっきり言うタイプですね。それが災いして、ある腹に据えかねられない問題が生じ、校長先生に反論するため直談判。私立小学校を2年で退学に なっていますから、僕は(笑)。

 それで公立の小学校に移ったんですが、日々おちゃらけてばかり。授業中、僕があまりにうるさいからって、教室の後ろ にあるロッカーの上に正座させられたりして(笑)。でも、先生や同級生とはそれなりに仲良くやってました。僕が生まれ育った当時の浦和は、まだけっこう自 然が残っていて、カエルをエサにしてザリガニ釣ったり、クワガタを捕ったりと、田舎っぽい遊びもしていました。

<松本大をつくったルーツ:青春時代.1>
無軌道に遊んだ中高時代。麻雀でマーケット感覚を養う

 中高は開成へ。僕が小学校5年生の時に兄貴が病死したんです。これは本当にショックで、一時期学校にも行けなくなっ た。彼も開成を目指していたからというのが、開成中学を受験した理由です。兄貴は、不本意に人生から下ろされたけど、僕はまだ生かしてもらっているから、 怠けてはいけない。ふたり分頑張らなければと、どこかで思っていたんでしょう。何かにつけ、自分にそんなプレッシャーを感じていました。でもまあ、根がお 調子者なんで、勉強もスポーツにものめりこむことなく、無軌道に遊んでました。

 麻雀とか。これは少しはまったんですが、麻雀卓というリミテーションな空間を囲んで、4人の人間同士が相手を間近に 見ながら勝負する。同じように社会やマーケットを、国というリミテーションな空間で人が営むものと考えれば、これはとても示唆に富んでいるゲーム。マー ケット感覚を少しは養えた遊びだったと思います。でも高校時代のある日、生活指導の先生が雀荘で遊んでいる現場に踏み込んできまして、次回見つけたら重い 罰則を発令するという白紙委任状を書かされました。当時を振り返ってみれば、あの先生たちも雀荘に遊びに来てたんだと思いますけどね。偶然、そこに僕がい てしまったと(笑)。挑戦がテーマのインタビューとのことですが、挑戦する話が少なくて、すいません(苦笑)。

<松本大をつくったルーツ:青春時代.2>
大学時、アメリカでのつらい経験が、自らを奮い立たせる好機に

  父から、どこの大学に行っても年間の学費は100万円って決められていました。それが理由で、入学金や学費が安い国立 を目指したんです。でも遊びのせいで、成績も模試の結果も最悪。これではいけないと一念発起したのが、3年生の12月。それからあわてて、毎日参考書を片 手に12時間の受験勉強を始めます。これは真面目な話なのですが、入試の際にいろんな科目に参考書でチェックしていた問題がかなり出た。それもあって、な んとか東京大学法学部に入学することができました。

 大学入学後は、狙いどおり、父からもらった100万円のうち70万円ほどが手元に残ります。でも、大金を目の前に興 奮して、あっという間に飲みつくしてしまった。で、後期の学費が払えずにヨドバシカメラでバイト。カメラが好きでしたから。社員記録を塗り替えるくらい売 りました。在籍期間をわざと延ばしてくれて、多くバイト料を支払ってくれましたよ。と、相変わらず無軌道なんですが、大学3年次に友人とアメリカ旅行に出 かけます。これがとにかく面白くて、アメリカにはまってしまった。それで翌年、今度はタフツ大学のサマープログラムに参加するんです。世界中から学生が集 まって、寮の食堂やロビーで話をしてるんですが、僕はその輪に溶け込めないんです。壁の花、みそっかすですよ。英語も通じないし、自分を全く理解してもら えない。確かに、自分は少し変わっているって認識はあったんですけどね(笑)。そうではなく、生まれて初めての孤独感と挫折感を味わいました。それで予定 を2週間切り上げ、傷心のまま逃げるように帰国。でも、この経験が僕を金融の世界に導いてくれたのです。

<キャピタリスト、松本大の誕生>
リスクコントロールをしつくした結果、外資系証券会社へ就職

  ちょっと話が戻りますが、中学時代、「赤いペガサス」というマンガが好きでした。主人公のケン・アカバというF1ドラ イバーが、あるレースに出場し、優勝をかけて競っている。クライマックス、彼に恨みを持った子どもがマシンめがけてジュースの壜か何かを投げつけます。結 果、ケンのマシンはそれが原因でクラッシュし、レースに敗れてしまいます。でもその後、壜を投げた子どもが抱いていた恨みは、全くの誤解だったことがわか り、ケンに謝りにいく。ケンはその子どもに言います。「F1ドライバーは、レース中はすべてのリスクをコントロールできなければならない。だから君のせいで はない、私のせいだ」と。こんな内容だったはずです。これこそ、僕が求めていた真理。かっこいいでしょう。全巻揃えてたんですが、母が訳もわからず捨てて しまいました(苦笑)。

 何が言いたいかと言いますと、僕は、よく「逆バリ人生ですね」と質問されるのですが、結果としてそう見えるだけ。不 可抗力に自分をゆだねることが、危険なことだと思うんです。だから、就職先を決めたのも、自分にとっては一番リスクのない道を選んだだけ。例えば、悪い上 司の下についたら、コネがなかったら……、など、自分の実力や運以外のことが原因で評価されないとしたら僕は耐えられない。運転手が誰だかわからないよう な危険な車には乗らない。それと同じことだと思います。

 外資系企業を目指したのは、先ほどのアメリカでの悪夢を払拭するために英語くらい話せるようになろうと思ったから。 また、アメリカの実力主義というのも僕に合っている。国内企業や官僚はあまり変化がなさそうだし、コネとか派閥とか、やりたいことができるまでに時間がか かりそうだと除外。コンドラチェフの波の上下に位置する、業績のいい会社と悪い会社、景気のいい国と悪い国、この真ん中に立って融通するのが金融の仕事。 金融業界であれば、常に変化に触れていられる。それらの理由を総合して、ダイナミックな企業活動に携われる外資系証券会社、ソロモン・ブラザーズ・アジア 証券に入社を決めました。僕なりに考え抜き、リスクコントロールをしつくした決定なのです。

常にユーザー側の視点を大切にしながら、わかりやすく、身近な金融サービスを提供したい

<キャピタルマーケットでのポジション獲得>
30歳で最年少のゼネラル・パートナーに抜擢される

  1987年、ソロモン・ブラザーズに入社し、ニューヨークでの研修がスタート。その年の10月、ブラックマンデーが発 生します。研修どころじゃなかったですよ。研修後、数名の同期は全員日本に戻ったのですが、僕だけニューヨークに残るんです。デリバティブが動き出したば かりの頃で、お前はそれをやれと。配属先の上司は、ジョン・メリウェザーという信義に厚い人物で、いわゆるスーパートップ。彼からは、金融はクレディビリ ティ、信頼がすべてであり、ヒューマンインタフェースが大事だということを教えられました。最初の上司が彼だったことは、非常にラッキーでした。

 翌年、東京に戻り引き続きデリバティブを担当。その後、社内事情で米国債のトレーディングに配属され、ここで大きな 利益を会社にもたらしました。しかし、この時の上司とそりが合わず、それをきっかけに、90年、ゴールドマン・サックス証券に転職。円のデリバティブデス クの担当を任されます。それで、取引用のシステムづくりから、トレーディング部門まで、すべてをほぼひとりで立ち上げました。結果的に、このビジネスはも のすごい勢いで成長を遂げ、会社にも大きな貢献ができたと思っています。

 常に僕は、誰もやったことがない、後世に残るようなビジネスや仕組みをゼロからつくることに価値があると考えていま した。実践するための苦労は半端じゃなかったですけどね(笑)。でも94年、この成功が評価され、30歳で最年少のゼネラル・パートナーに就任。責任も重 いですが、やりがいのあるポジションを手にすることができたのです。

 

<マネックス証券、起業への経緯>
どちらかの選択に迷ったなら、とどまるより先へ。自分の決断を信じて、マネックス証券を立ち上げる

 僕が外資系証券会社で働いた期間は約12年間。最初の10年は、債券のトレーディングやデリバティブの開発、トレー ディングを行いながら、資本市場について学んだ。そして最後の2年間は、日本版ビッグバンが進む中で発生する、さまざまな変化に対応するビジネスの設計と実行 を指揮しました。日本の金融業界が抱える構造的な問題に対峙したとも言えるでしょう。そんなビッグバンの最中である1998年、僕はインターネットと出合 い、おくてながらはまってしまった。きっと近い将来、債券でもオフラインでもなく、個人がインターネットを通じて、自由に株を売買する時代が絶対に来る。 そう確信したのです。すぐにゴールドマン・サックス証券に「個人向けネット証券取引」の事業化を提案したのですが、却下されてしまいます。

 実は、退社の半年後、ゴールドマン・サックス証券は上場を控えており、会社に残れば数十億の上場益が手に入ることはわかっていました。でも僕としては、ここで躊躇すると絶対に後悔する。金融の専門家として、今これをやるべきだと。

 正直、そんなですから辞めない理由は20億個ほどあったし(笑)、20日間、悩みに悩みました。でも、自分の思いを 信じよう。どちらかの選択に迷ったなら、とどまるより先に行った方がいい。そして未来の自分が後悔しないために、会社を飛び出してマネックス証券を立ち上 げたのです。

<未来へ~マネックス証券と松本大が目指すもの>
日本のキャピタルマーケットを、より素晴らしいものに!

  今もいろいろと大変なんですが、始まりも当然大変でした。僕たちはたった4人の仲間でスタートしたので、設計はしっか り我々がするけど、システム構築などはすべてアウトソーシング。業者は「できますよ!」っていうんですが、予想以上のアクセスに耐えられずパンクした り……。ユーザー対応に追われながら、業者の空返事への対応をせまるとか、すごく! 大変でした! また、ゴールドマン・サックスにいた頃は、急遽、明日 海外出張になっても、秘書がトラベルデスクに電話してすぐに手配が完了してたんですが、ベンチャーだとそうはいかない。全部自分たちでやらなければいけな いし、完全に前金制。まあそのほかいろいろ、日本の環境はベンチャーにとってきついですよ。でも、崖に落とされても這い上がれる力がある会社だけが生き残 れる。それでいいんだと思います。

 マネックス証券は、経営者であり、ビジネスマンであり、一市民である僕の思いをすべて詰めこんでデザインした会社で す。だから、どんどん押し寄せてくる最終判断は基本的に僕がすべきもの。全責任が僕にかかっているわけですから、日々、背水の陣で望んでいます。マスコミ 報道とか、奥歯を噛みしめるようなこともままありますが(笑)。ゲームセットがない野球の試合で、ひとり投げ続けるピッチャー、そんな感じでしょうか。も ちろんつらいこともありますが、あまりストレスに感じることはないんですよ。

 ピラミッドの頂点を今だとすれば、下には大きな可能性が広がっている。でも、一足飛びにどこかを狙おうとは思いませ ん。プライオリティをしっかり決めて、少しずつ下に三角形を広げていけばいい。山の向こう側の町に行きたいなら、まずその山に登って、頂上から町への最適 なルートを決める。そうやってステップ・バイ・ステップで、筋肉質のコアバリューを育てていきたいと考えています。

 これからもマネックス証券は、常にユーザーの側に立った視点で事業を推進していきます。お金は他の公共財と同様、使 われて初めて価値を生みます。電気やガスと同じように身近な金融サービスを提供したいという、私たちの理念は普遍です。そして会社は社会のために存在する ものでありますから、当社の株主、ユーザー、社員、すべてに喜んでもらえるようなベクトルを定めて、日本のキャピタルマーケットをより素晴らしいものにす るため、どんどん新しい挑戦をしていきたいと思います。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
まず、「簡単にはやるなよ」と言いたい

 ベンチャービジネスというものは、意義ある社会を創造するために、そして進化させるために、絶対に必要なプロセスであ ると思っています。ですが、起業はパラダイスでもなんでもない。重い責任がのしかかるとても大変な仕事です。ですからまず、「簡単にはやるなよ」と言いた いですね。大変さの確認をしっかりして、覚悟が固まってから一歩を踏み出すようにしてほしいです。

 そのための準備としては、とにかく一所懸命働くこと。これに尽きます。あと、トレーニングとしてお勧めなのが、経営 者シミュレーション。自分の会社で起こっていることでも、新聞で見つけた記事に出ている会社が抱えている問題でもいい。あなたがその会社の社長になったと したらどんな決断をするか、必死で考えるのです。いわば、「模擬修羅場」ってとこですかね(笑)。何かを批評することは誰にでもできますが、決断は経営者 である当事者にしかできない。この疑似体験を繰り返すことが、来るべき日に必要となる決断力を養ってくれると思います。

 それで、こりゃ自分には大変だ、難しいということがわかったら、やらなければいいだけ。ある意味、事前に踏みとどまることができるなら、ラッキーかもしれない。起業家とは、情熱をもって常に未来を目指しながら、完璧なリスクコントロールが求められる存在なのですから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:渡辺修身

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