第167回 株式会社カクヤス 佐藤 順一

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執筆者: ドリームゲート事務局

第167回
株式会社カクヤス
代表取締役社長
佐藤 順一 Junichi Satou

1959年、東京都生まれ。起業家に多い、いわゆるガキ大将タイプとは正反対のおとなしい少年だった。とはいえ、高校時代、教師に将来を問われて「実業家になりたい」と答える一面も。筑波大学在学中はパワーリフティングに打ち込み、関東大学選手権バンタム級で優勝した経験を持つ。大学卒業後、祖父が1921年に創業したカクヤス本店(現カクヤス)に新卒社員として入社。1993年に三代目の社長に就任。2002年、商号を株式会社カクヤスに変更し、事業名も「なんでも酒やカクヤス」に統一。酒のディスカウントショップから宅配中心の業態に大転換を果たした。現在、東京23区全域、横浜、川崎、さいたま、大阪などにもエリアを拡大し、同社の年商は1000億円を超える。カクヤスのシンボルでもあるピンク色の看板は、業績どん底時代に「元気を出そう!」と、佐藤氏自らがこの色に塗ったことに由来している。2011年、外食産業記者会が主催する表彰制度「外食アワード」を受賞。

- 目次 -

ライフスタイル

趣味
スキューバダイビングです。

ゴルフが趣味だったのですが、5年前にヘルニアを発症してから、休日は庭いじりに精を出しています。あとは、昔から海が大好きで、沖縄やフィリピンのきれいな海で、年に2回くらいのペースでスキューバダイビングを楽しんでいます。

行ってみたい場所
南の島です。

南の島のリゾートですね。人に合わない場所で、のんびりゆったり、ひっくり返ってぼーっとしたい。この春は、二男の受験も終わったし、家族でフィリピンのシークレットリゾートに出かける予定。消費税アップ前に予約できて、よかったです(笑)。

好きな食べ物
北京ダックです。

好き嫌いはほとんどないです。昔は焼肉やステーキを好んで食べていましたが、今はそれほどでも。東麻布の富麗華の北京ダックが最近のお気に入りです。お酒は弱かったのですが、家業に入社してから2年くらいかけて練習し、ビールの中瓶1本をやっと飲めるようになりました。

ビール1本でもOK、1時間内に無料でお届け!
常識破りの「なんでも酒やカクヤス」をつくった男

東京23区、どこでもビール1本から無料で、2時間以内にお届けする――。2000年、経営危機に瀕した酒販店が、そんな無謀な挑戦を始めた。誰もが無理だと見たビジネスモデルだったが、その予想を見事なまでに裏切り、今では1000億円の年商を上げる一大企業に成長。そんな常識破りのビジネスモデル「なんでも酒やカクヤス」の発案者でありけん引役が、現在も三代目社長として同社の舵を取る、佐藤順一氏である。「正直、商売の視点で考えたら、できればやりたくない難しいことばかりやっているわけですよ。でも、お客さまに求められる何かしらの“プラス1”を考えながら、これからも、カクヤスができるサービスを増やしていきたい。それが、うちにとっての“いいかたちの成長”だと思っています。」。今回はそんな佐藤氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<佐藤 順一をつくったルーツ1>
「家を継げ」と言う父を疎ましく思った少年時代。
親元から離れられることを第一条件に大学を選択

 生まれは東京の北区で、実家は祖父が1921年に創業した店売りの酒販店でしたが、父が継いだ後、飲食店など業務用販売に業態を転換しました。お酒の在庫、配送用のトラックを格納した本社兼倉庫の一角に家族で住んでいるような、そんな暮らしだった記憶があります。私は、弟が1人、妹が2人いる、4人きょうだいの長男です。小学校は越境入学で、進学校として評判の高い、文京区西片にある区立誠之(せいし)小学校へ入学。毎日、自宅から50分くらいかけて通っていました。この頃流行っていた遊びは、コレクションしている日本酒の酒蓋をひっくり返して取り合う、メンコのようなゲームです。なぜだか、月桂冠の蓋が強かった。うちは酒販店だから、いくらでも蓋が集まるのですが、月桂冠の蓋はとても希少でした。ちなみに、自分で言うのも何ですけど(笑)、お勉強はそこそこできたと思います。でも、スポーツはからきしでしたねえ。

 誠之小学校は、開成などトップクラスの中学に行く生徒も多いのですが、僕はここが自分には適当と、立教中学・高校を受験して進学しました。昔から、理数系の勉強が好きでして、中学では科学部に所属。電解質溶液を使った実験とか、面白がってやっていました。高校生活も普通に楽しかったですよ。当時は、少し前まで大いに盛り上がっていたボウリングブームが下火になったタイミングで、1ゲーム一人50円で投げられた。週1くらいのペースで、同級生の仲間4、5人がボウリング場に集合して、一人が1レーンを確保する。ガラガラでしたからね。そして、スコアカードのマックス16ゲームが終わるまで、全員並んで延々と投げ続ける。振り返って思えば、男子校ならではの遊び方でしたね(笑)。

 中学に上がった頃から、父は頻繁に、「おまえが家業を継ぐのだ」と言うようになりました。でも、当時はまったくリアリティがなかったし、そんな父が疎ましくてしかたがなかった。俺の将来、どうなるんだろうっ?て、まだわかんないでしょ。でも、高校の進路指導の先生には、「将来は実業家になりたい」と答えているんですよね。おかしなものです。大学はエスカレータで立教へ、という選択ももちろんあったのですが、僕はどうしても自宅から通えない大学へ行きたかった。親元から離れて暮らしたかったから。で、担任のところに筑波大学の推薦入学の案内が届いていたのを見つけて、「先生、ここにします!」と。北海道や九州は遠すぎるけど、ロケーション的に、たまに帰ってこられるちょうどよさ(笑)。幸い、成績と内申書は問題なく、すんなり合格。立教高校の卒業式では、総代として答辞を読んでいます。

<佐藤 順一をつくったルーツ2>
ウェイトリフティングの練習に励んだ大学時代。
卒業後は、新卒社員として家業に入社する

 念願の一人暮らしを始めたわけですが、当時のつくばは、大学以外何もない場所でした。娯楽と言えば、パチンコか麻雀。それではあまりにむなしいと考え、運動を始めてみようと考えました。私の身長は161センチです。背の低いことが有利となるような競技を考えた結論が、ものを持ち上げるスポーツ。身長が低いほうがウェイトの移動距離が小さくて済むから、総運動量を少なくできるわけです。理数系的な考え方でしょ(笑)。そして、趣味程度と考えて、「ウェイトトレーニングクラブ」という同好会に入ったんですよ。ところが2年の終わり頃、日本パワーリフティング協会の理事をやっていた先生が慶応大から赴任してきて、風向きががらりと変わりました。体の全パーツが正方形で構成されているような先生で、同好会の顧問におさまるや、「強くするぞ!」と、いきなりしごき始めたんです。そのしごきに耐えられず、どんどん部員が去っていきました。

 それでも僕は、敵前逃亡はシャクだと考えて、練習を続けていたんです。そうしているうちにだんだん体ができ上がってきて、3年の秋から大会に出始め、なんと4年の秋、関東学生選手権大会のバンタム級に出場して優勝してしまった――。でもね、この時期に4年生が大会に出ていること自体がおかしいわけです。同期はみんなとっくの昔に就活を始めているんですから(笑)。秋の大会に出るという決断は、就職しない=家を継ぐという意思決定でもありました。親元から離れて暮らしたおかげで、父との間にあった溝のようなものも埋まりましたし、毎月仕送りをし続けてくれたことへの感謝の気持ちもありました。でも、「簡単に親父の軍門に下りたくない」という思いはなかなか消化できず、最終的に「家を継ぎます」と伝えたのは、大学卒業を目前に控えた2月。父は、ほとんどあきらめていたようです。

 一般的に、酒販店の息子が家を継ぐ場合、いったんビール会社などに修業に出されるんです。でも、私が家を継ぐと宣言したタイミングでは、さすがにねじ込める会社がなかった。で、1981年、大学卒業と同時に“新卒入社”した家業の酒販店は、従業員数16人、売上高6億~7億円規模の会社でした。そして、従業員の中での人の評価基準は、「酒が強いか」「力が強いか」が最大のポイントです。「あの人は中瓶のビールケースを3箱いっきに運べる、人間フォークリフト」「樽生のビールを一晩で軽く飲んで空けちゃうってすごい!」とか(笑)。営業力やマネジメント力などいっさい不要、そして新規開拓をすると「仕事が増える」と文句の出る世界でした。私はそんな会社に入ってきた新人でしょう。「面倒くさいことは全部社長の息子にやらせてしまえ」、です(笑)。しかし何にせよ、自分にとってはまさにゼロからのスタートであることは違いありません。とにかくできることは何でもやって、早く仕事を覚えていこうと思い、頑張りましたよ。

<バブルは弾ける宿命>
バブル崩壊と共に、会社の利益が10分の1に激減。
苦肉の策で地図にコンパスで記した円が大きな転機に

 業務用専門の酒販店ですから、お客さんのほとんどが飲食店です。店の夜の営業が終わって、注文を受けるのは深夜の留守番電話。私は毎朝4時半から7時の間に留守電のメッセージを聞き取って、それから伝票を書き、午後からは配達、夜は売掛金の集金で店を回る。最後の集金を終えたら、日付が変わっている。1日の平均睡眠時間は3時間くらいだったでしょうか。給料は、当時の大卒初任給と同程度の9万8000円。この状態が、3、4年続いていきました。ところが、バブル景気が到来し、夜の街もいっきに活況を呈すようになって、会社の売り上げも右肩上がりに。最盛期の年商は15億円、営業利益が9000万円。私の給料も50万円近くに跳ね上がっていました。当時一番困ったのは、人がまったく採れなかったことです。酒販店の仕事は“3K”の代表みたいに言われていましたからね。生命保険のおばちゃんから「いい人紹介するわ」と言われ、採用できたお礼として1億円の生命保険に入ったこともあります(笑)。

 しかし、ご存じのとおり、バブルは弾けるわけです。当然、当社の売り上げは下がり、売掛金の回収が難しくなり、不良債権が増えていきます。夜討ち朝駆けで回収に走りましたが、何度も怖い目に遭いました。例えば、新宿歌舞伎町の“事務所”に集金に行ったら、「おまえ、これでも取り立てるのか?」と、こめかみに拳銃を突きつけられた……。その後、「あほう、冗談や」と、現金入りの封筒を渡され、中身をその場でしっかり数えてみたら、10万円ほど多いわけです。もちろん、10万円はすぐに返しました。あれを知らずに持ち帰っていたら、あとでどんないちゃもんをつけられていたのか……ぞっとしましたよね。でも、現場仕事の大変さを実地で学ぶことができたのは、今思えばよかったと思っています。しかし、バブルの崩壊と合わせて、営業利益はどんどん減っていき、9000万円のピーク時から3年後には1000万円に。そして、その翌期の赤字転落が現実味を帯びてきました。さて、どうするか――。

 父はフランチャイズに加盟し、コンビニを経営していました。裏とおりで、人とおりは少なく、駐車場もない、最悪の立地で、です。こちらの経営がうまくいってないことは知っていましたから、父が「コンビニをたたみたい」と言ってきた時は、「どうぞどうぞ」と二つ返事したのです。でも、調べてみると、本部からの貸付金が4000万~5000万円に膨らんでいます。ここで撤退すれば、本業の赤字転落は確実です。再び、さて、どうするか。ちょうどその頃、急伸していたのが、酒類ディスカウントショップ(DS)。うちも、コンビニの場所を使って安売りで勝負してみようと考えましたが、DSのような郊外の大きな敷地、駐車場スペースはない。だったら、来てもらうのではなく、自宅に届ける=宅配をすればどうか、と。調べてみるとDSの商圏は、店舗から半径5 km。車で買いに来る顧客を想定していますからね。翻って、うちの場合は、車が入れるような立地ではなく、宅配するとすれば自転車だろうと。そこでその店からだいたい半径1 kmと決め、コンパスで住宅地図に円を描いてみた。これの行為が、大きな発見となるんですよ。

<お届け開始!>
競合は酒類ディスカウントショップ、だったはず。
宅配も評判になったが、店売りが繁盛した理由

 ちょうど1 kmの円内に豊島五丁目団地という大規模団地があって、団地の3分の2は1 kmの円内に入るけど、残り3分の1が入らない。そうはいっても、団地はとりあえず全部押さえたいということで、すべてを含めた円を描くと1.2km。それで宅配の範囲を1.2kmに決めたのです。宅配料は当時のバイトの時給が1000円だったので、1時間に3、4件は配達できると予測して、切りのいい1件300円に。そんなモデルで、商圏内にチラシを撒いて、DSを始めたのが1992年6月9日のこと。その結果、想像以上に売れました。しかも、宅配はもちろん好調だったのですが、悪立地の店売りのほうが売れた。実は1.2kmに競合視していたDSは1店もなく、競合は普通の酒販店だったんですよ。そんな場所で、「地域で最安」を謳っていたので当然といえば当然です(笑)。で、ご近所さんから苦情が来るほど、たくさんのお客さんが車で買いにきてくれました。そして1993年、父から社長の座を譲られ、私が当社の社長に就任。34歳のことでした。

 一方、宅配のほうも順調でしたが、1つの問題が露呈してきました。価格の安さはご理解いただけたのですが、どうも、宅配料の300円が気に入らないようで……。毎回、3ケースのビールの宅配を頼まれるお客さまがいたのですが、その方は、団地の両隣のご家族と一緒に1ケースずつ買っていたことがわかりました。それほど、この300円がいやなのか、と。そこで、店舗スタッフと宅配スタッフの売り上げ対人件費比率を比べてみたら、驚愕の事実が。宅配と、店舗の売り上げ対人件費比率がほぼ7%と同じだったのです。宅配は顧客単価が1万6000円と高く、しかも1時間で5、6件の配達ができていた。この事実を知った以上、もう宅配料をお取りするわけにはいきません。でも、最初はお買い上げ1万円以上が無料、次の段階で5000円以上を無料とし、3000円以上に下げたところで、1ケース当たり2880円の発泡酒が市場に登場……。そのタイミングでこっそりと、宅配料を無料化しました。ちょっとカッコ悪いやり方でしたね(笑)。

 また、東京23区をゆるやかに取り囲んでいる環状7号線の円内には、DSがほとんどないことにも気づきました。そして当社は、調子に乗って都心への出店を開始。しかし、出店を進めていくなかで、2つのやっかいな問題が立ちはだかります。1つは1996年頃、これまでずっと伸び続けてきた国内のお酒の消費量が鈍化し始めたこと。大量に仕入れ、安く売るDSの利益の源泉の一つに、メーカーからの販促支援費があるのですが、メーカーが販促費を絞り始めると、この商売自体の先行きが怪しくなります。もうひとつ、国が免許制だった酒販業の規制緩和を発表したこと。施行時期は2003年9月。その規制緩和の結果、セブンイレブンやイオンでお酒が買えるようになったわけです。当社の残された強みは、無料で宅配できるシステムですが、これもコンビニやスーパーがヤマトや佐川と提携して始めたら、大きな脅威です。本当にまずい――。次の一手を探し、真剣に模索を始めたのが、2000年の少し手前。28店のDSを展開していたタイミングでした。

次週、「顧客視点に立って、“玄関”で商売できることを一つでも多く!」の後編へ続く→



世の中の成功の90%は後づけの理由で語られている。
お客さまの都合を最優先し、そろばんは後が成功への近道

<23区内すべてを網羅>
この店舗網が完成すれば、ものすごいことに!
しかし、その予想と期待は大きく覆された……

 では、どこでも、無料でお届けする、ならどうか。この方法で考えてみることしました。例え、セブンがヤマトと組んだとしても、配送業者のヤマトは無料にはできませんから。ちなみに、宅配ピザ店は便利なようで、不便です。なぜなら配達区域から1本道路の外側になるだけで、「あなたには売らない」と宣言しているわけでしょう。であれば、カクヤスの“どこでも”は、どうすれば実現するか。さすがに日本全国は無理ですが、東京23区ではどうか。ここで最初に決めた商圏である1.2㎞が再び登場します。既存の1.2㎞の商圏であれば、どこでも、何でも、無料でお届けが実現できています。そこで、東京の面積を1.2㎞×1.2㎞×3.14で割ってみました。すると137という数字が出ます。ただし、勝手ながら、夢の島、皇居、羽田空港を除けば、110くらいの店舗数で23区を網羅できる――。既存店がすでに28店舗ありますから、残りは約80店舗。タイムリミットは規制緩和が始まる2003年まで。いけるんじゃないか……そう確信してしまったんですよ。

 つぎに宅配のロットです。人によっては、ビール1箱なら、もしくは、6缶パックなら無料で宅配してくれそうと思うかもしれません。でも、人によって、無料宅配してもらえそうな基準って違いますよね。1本でも、と考える人だっているはずです。で、お届け時間に関しては、当日中のお届けは当然として、注文いただいてから2時間なら何とかいけそうだ。そうやって、23区内ならどこでも、ビール1本から、2時間以内にお届けできる店舗網をつくる意思決定をしたのです。これが2000年のこと。店舗名も「なんでも酒屋カクヤス」に変えました。この「なんでも」について、私たちとしては、お客さまの要望、期待には「なんでも」応えたいということです。もちろん、すべてができるわけはありません。ただし、「今はごめんなさい。でもいつか必ず」という思いを込めて、「なんでも酒や」という言葉を店名に添えています。

 「このネットワークが完成した暁には、ものすごいことになりますよ!」。銀行の融資担当者に伝えた時のことを、今でもよく覚えています。そして、そこから3年ほどをかけて、いっきに約100店舗まで持っていきましたが、残念ながら“大変なこと”にはならなかった……。約60%の店舗の数字が赤字だったんですよ。出店後、1つの店舗は半年くらいで黒転する計画だったのです。なぜか? 「23区内ならどこでも、ビール1本から、2時間以内にお届けする」という意思決定をしてから、お酒の価格はお値ごろ感を感じていただける程度に設定していました。価格での勝負ではなく、付加価値で勝負するということです。お客さまにとって価格の安さはすぐに理解できますが、付加価値の評価は人によって違いますし、1回使ってみないと、そのよさをわかってもらえません。私たちが提供していた付加価値の浸透に、早くとも数年が必要だったんですね。その後は、銀行からの借り入れの引きはがしは逃れたものの、新規融資はストップし、リースなどを駆使しながら、何とか117店まで出店。やっとのことで東京23区をすべて商圏とすることができました。

<社員からの一言>
飲食店など業務用の宅配をスタートしたことで、
10年以上かけて積み上げた年商が3年で2倍に!

 23区すべてが商圏となりましたが、会社としての経営はひっ迫したままです。完成したからといって、その日から爆発的に売れるわけではありませんからね。またじっくりと広めていく必要があるのです。当時は、私も役員もみんな、いつまで会社は持ちこたえられるのかと本気で心配していました。今となっては笑い話ですが、決算期前に経理部長から、「社長、決算がまとまりましたが、その数字、聞きたくないですよね?」と言われたことも(笑)。そんなある日のこと、古い営業社員からこんなことを言われました。「社長、一般家庭だけではなく、飲食店にも営業しましょう。寿司店、蕎麦店、雀荘など、家庭よりもたくさんお酒を使ってくれる場所がいくらでもあるのですから」と。もともと当社は、業務用向けの営業を行っていました。言われてみれば確かにそうです。そんなことすら気づけないほど余裕がなかったのだと思います。そして、一般家庭に加えて、飲食店を対象とした営業を始めることにしたのです。

 ただ、既存の酒販店から鞍替してほしいといったトークはいっさい使いませんでした。「前日に注文し忘れた、急な追加が必要となった、そんな時にご連絡ください。2時間でお届けしますし、空き瓶も回収しますから」。そんな感じの営業です。その結果は、もう入れ食い状態でした。当日に注文しても2時間以内に届くとわかると、飲食店は前日に注文しなくなるんです。それまでかさばって場所を取っていた在庫も絞れますし、冷えたビールがすぐに届くのですから。そうやって、飲食店にも営業するようになったことで、過去、10年以上かけて一所懸命積み上げてきた一般家庭の売り上げを、3年で超えてしまいました。そしてボトムで単年8億円もあった赤字続きの決算が、黒字に転じたのが2006年。目の前にあった、大きなお宝を忘れていたというわけです。

 これまでお話ししてきたとおり、ある意味、私はついていたと思います。前に進む時は、“におい”と“勘”でいく。ただし、当社では、「コストのものさし」と呼んでいますが、常に数字で図ることができる安心材料を用意したうえで挑戦してきました。うまくいった段になって、数字で検証して安心し、さらに前へと進む成長動機が「コストのものさし」というわけです。振り返ってみれば、最初に決めた1.2㎞の商圏もそう。仮に商圏を1.5kmにしていれば、宅配面積は1.56倍になり、配達の移動距離は2倍くらいになる。逆に商圏を1kmにしていたら宅配面積が0.69倍になり、今のような売り上げが確保できたかどうかわからない。また、23区すべてを網羅する計算で、137という数字が出ましたが、それが例えば1000であったら、たぶん挑戦していなかったでしょう。豊島五丁目団地の存在と、「飲食店に営業しましょう」と言ってくれた営業社員に、感謝しなくてはいけないですね(笑)。

<未来へ~カクヤスが目指すもの>
どのくらい面白い「お届けやさん」になれるか。 玄関という仕事場から新たなお宝を探し続ける

 2014年3月現在、カクヤスは23区内に倉庫を兼ねたデポ拠点を含め、約170店舗を展開しています。半径1.2㎞商圏ではなく、山手線内の繁華街では800mでも十分に採算に合う店舗があることもわかりました。月曜日から金曜日までは飲食店など業務用のオーダーが、土日は一般家庭からオーダーがどんどん入ります。毎日、忙しく商売ができているのは、一般家庭と飲食店、両方からご利用いただけているからなんですね。それにより、1日あたり1万3000件もの宅配を行っているわけですが、昔のように300円の宅配料をいただいていたら、それだけで毎日プラス400万円の収入増。そのことを考えると少しだけだけど、惜しい気がします(笑)。統計では都内のお酒販売市場が7500億円という数字が出ていますが、私のみた感じだとそれは6500億円ほど。当社の年商1000億円のうち東京分の売り上げが850億円ですから、獲得シェアは13%程度。まだまだ伸び代は残っていると思っています。

 ある時、当社の配送のスタッフとこんな会話をしました。「社長、宅配ピザが1時間で届くのに、お酒が2時間って許されるんでしょうか?」「じゃあ、できるのか?」「いいえ、できません」と(笑)。無理だとしても、お客さま視点で仕事を考えられる、仲間の存在は本当に心強い。スタッフたちからのそんな声を聞きながら、今では365日無休、ご注文から1時間でお届けできる体制を敷いています。正直、商売の視点で考えたら、できればやりたくない難しいことばかりやっているわけですよ。でも、お客さまに求められる何かしらの“プラス1”を考えながら、これからも、カクヤスができるサービスを増やしていきたい。それが、うちにとっての“いいかたちの成長”だと思っています。毎年度頭に、「社長、今期はどんなことを考えているんですか」なんて、社員が聞いてくるんですよ。本当にうれしいことです。

 今後も、お届けするというビジネスのスタイルを継続してきますから、ライバルはアマゾンや楽天になるのかもしれません。ただ、ネットスーパーになるなど、そこまで土俵を広げるのは無理でしょうね。ちなみにこれまで、フラワー、文具、業務用食材、それぞれの通信販売を行っている会社3社を買収し、お届けできる商品ラインナップを増やしています。これら三つは、主に飲食店とシナジーがありますが、それ以外にも一般家庭に向けた新たな宅配商材があるかもしれない。これからもお酒をメインとはしますが、お酒の注文およびお届けが集中する時間帯には山も谷もあります。その谷の時間を利用でき、当社のプラットホームに乗せて、お客さまに届けることで喜ばれる商品を探していきたい。幸い、私たちは、自社の電話オペレーターがお客さまから直接ご注文をお聞きし、そして配送スタッフが玄関先まで商品をお届けするスタイルをとっています。そんな電話口、玄関先でお客様と直接コミュニケーションできることも大きな強み。そこから、どんな新しいお宝が見つかるか――。自分自身、カクヤスがどのくらい面白い「お届けやさん」になれるか、とても楽しみなんですよ。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
例えば「中華料理の円卓」で最後に料理を取る。
これこそが、経営者の正しい在り方だと思う

 座右の銘はないのですが、「中華料理の円卓」という話をよく使います。例えば、社長、取締役、部長、社員など8人で、中華料理屋さんによくある、回るテーブル席に着いたとします。そこで、いつも社長である私は「まず、みんなから取りなよ。俺は後でいいからさ」と伝えるわけです。そうすると最後に自分のところに料理が回ってきたところ、だいたい2人分くらいの料理が残っている。それを私が皿に取って食べたとしても、誰からも文句が出ないのです。しかも、一番いい思いをしている。もしも、自分から先に2人分の料理を取っていたら、きっと「がめつい人だ」とか言われるんですよ。そんな人に、下の人たちはついていきたくないでしょ。この話が、経営者の正しい在り方をすべて物語っていると思います。もうひとつ、私には交際費枠は1円もありません。責任に応じた額の給料を取っていますから、ほしいものは自分で買う。もちろん、どうしても営業上必要であれば、経費として認めますよ。うちの取締役は、例え1万円であっても接待費の許可を取りにきますからね(笑)。上がゆるむと、必ず下もゆるむのです。

 そうそう、私は父親から、「お前は仕事が嫌いなのか」と言われたことがあります。それはなぜか? 私は仕事をすぐほかの人に任せてしまうんです。ちなみに、夏休みの宿題は最終日にまとめてやるような子どもでした。それもあって、自分がやり方を理解していることは、ちゃんとやってくれる人に任せ、やってもらったほうがいいと(笑)。そうやって、どんどん自分の仕事を手離れさせていきましたが、大きな仕事が2つだけ残りました。1つは、事業と経営に関する大きな決断。もう1つが、「組織風土のマネジメント」です。今、当社の社員は約1200人、パート・アルバイトを含めると3000人の組織になりました。我々の会社が大事にするのはここだ。こういうことはしない。そのために、嘘はつかない、ごまかさない。そこをしっかり押さえておけば、いい人材が残り、居づらい人材は勝手にスピンアウトしていきます。この2つだけは、これからも私の手から離れることはありませんし、やり続けるべき仕事であると思っています。

 ビジネスのチャンスは、きっとたくさんあります。でも、何でもわかっている経営者なんていないですし、あれをやれば必ず成功するなんてこともありません。だって、ユニクロの柳井さんも、少し前に野菜の宅配にチャレンジしたけれど、敢えなく撤退しているじゃないですか。正直言って、世の中の成功の理由は90%後づけなんです。「自分は成功できる」と浮ついた気持ちになったら、気をつけたほうがいいですね。なによりもチャレンジして成功できた結果に感謝し、結果から学んでいく姿勢が大事だと思います。当社の場合、お客さまの敷居を下げるために、ビール1本からでも無料宅配することを決断しました。こっちにとっては都合が悪いことでも、お客さまが望んでいることを見つけたら、実現に向けて必死で創意工夫を積み重ねていけばいい。ビジネスはお客さまの都合が一番であって、こっちのそろばんの都合は後。「中華料理の円卓」の話をしましたが、最後にいい思いができるのは、みんなの都合を常に先に考え、叶えてあげられる人なのです。

<了>

取材・文:菊池徳行(ハイキックス)
撮影:内海明啓

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