第163回 株式会社リバースプロジェクト 龜石 太夏匡

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第163回
株式会社リバースプロジェクト
代表取締役
龜石太夏匡 Takamasa Kameishi

1971年、東京都生まれ。東海大学文学部北欧学科卒業。高校時代に、将来は脚本家になると決めていた。大学入学後、脚本を書きながら、俳優修業を開始。北野武監督の「ソナチネ」などにも出演している。大学3年の時、2人の兄が起業したアパレルビジネス「PIED PIPER(パイド・パイパー)」に参加。店舗責任者として、大阪支店を立ち上げるなど、20代後半までその仕事に携わる。その頃、俳優の伊勢谷友介と出会い、意気投合。「PIED PIPER」を退職し、再び脚本家を目指し始めた。2002年公開の映画「カクト」(脚本・出演)、2008年公開の映画「ぼくのおばあちゃん」(脚本・プロデュース)、2012年公開の映画「セイジ 陸の魚」(脚本・プロデュース)などの話題作を手掛ける。2009年、「人類が地球に生き残るためにどうするべきか」を理念とし、伊勢谷友介との共同代表で、株式会社リバースプロジェクトを始動。衣(HATCH YOU)、食(HOUSE475)、住(THE SPIKE SHOW)をはじめとし、教育・芸術・支援といった社会生活を営むうえで必要とされる分野の活動を、クリエイティブな視点から考察・実行し続けている。

- 目次 -

ライフスタイル

好きな食べ物
スパゲティミートソースです

小さな頃、父はとても忙しく、母は活動的で、おばあちゃんがけっこう料理をつくってくれていました。カレーに、シチュー、おでんとか、大なべ料理が多かった。でも、たまに母がつくってくれたのが、スパゲティミートソース。それがとてもおいしくて、大好だったんです。子ども時代の名残が、そのまま僕の好物になりました。

趣味
ジョギングです。

週に2回ほど、5キロくらい走る程度ですが。あの電柱まで走ろう、次の電柱までって、一所懸命走っています。健康のためという理由もありますが、走り終わると何だか気持ちがチェンジできているんです。ちなみに一番大好きな日曜の過ごし方は、朝大リーグの中継を見て、昼寝して、ジムに行って、家で夕ご飯を食べる。最高です(笑)。

行ってみたい場所
静かな海辺です。

昔から、海を眺めることが大好きでした。でも最近、まったく海に行けていないんですよ。実は今年の9月、12年お付き合いしてきた女性と結婚しました。彼女と一緒に、静かな海辺を散歩して、夕焼けを見ながらビールを飲む。仕事が忙しくて妻のことを疎かにしがちなので、できるだけ早く実現しなければと思っているところです(笑)。

今を生きる子ども、次世代の子どもたちに笑顔を!
映画人が立ち上げた、地球を救うプロジェクトチーム

映画づくりを夢見て、脚本を書き続けていた青年が、兄弟の誘いで伝説のアパレルビジネス経営に参加。顧客として来店した俳優・伊勢谷友介と意気投合し、再び映画づくりの世界へ舞い戻る――。ビジネスとエンターテインメントの両方を経験してきた男・龜石太夏匡氏は今、リバースプロジェクトという、新しいかたちを目指す株式会社代表となり、その船のかじを取る。誰からも無理と言われた船出だったが、周囲の期待をいい意味で裏切り続け、話題のプロジェクトを連発。忙しく“公の利益”を追求し続ける毎日だ。「僕にとっては映画もリバースプロジェクトも、自らの心が『どうしてもこうしていきたい』と思うことから生まれたこと。今はまだ、それがやっと、一つの仕事につながったり、小さなかたちになり始めた段階という感じです」。今回はそんな龜石氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<龜石太夏匡をつくったルーツ1>
男ばかり三兄弟の末っ子として生を受け、
やんちゃに楽しく過ごした少年時代

 父は、1959年に東映ニューフェイスに選ばれた、俳優の亀石征一郎です。同期には千葉真一さんや太地喜和子さんがいますね。父は元来の一本気な性格で、人とぶつかることも多く、結果的には悪役として頭角を現していきます。スタジオやロケ地での撮影、打ち合わせに大忙しの父でしたから、家に帰ってくるのは月に1日か2日くらい。ただ、父からは、いつも家族に対する絶対的な愛情を感じていました。そんな父と活動的で明るい母の間の、3人兄弟の末っ子として僕は生を受けたわけです。父は僕たち子どもに、とても厳しかった。まず、理不尽な言動は小さなことでもいっさい許してくれません。一方で、「画集を渡すから模写せよ、本を読んで感想文を書いて見せよ、しっかり運動せよ」など、情操教育と体を鍛えることを約束させられていました。でも、たまにさぼるでしょ。それがばれて思いっきりカミナリを落とされる(笑)。

 僕たち兄弟3人は、もちろんたまにケンカもしましたけど、結束力が強く、とても仲がよかった。ちなみに生まれ育ったのは東京・蒲田。街全体が遊び場で、当時からタフな街でしたね。兄弟と、友だちと屋外でやんちゃに遊びながらも、一人になると静かに本を読んだり、物思いにふけったり、いろんな空想のストーリーを考える。それは今も変わらない昔っからの癖。何となく精神年例の低い子どもだった気がします(笑)。この頃は、オリンピックを見たら、重量挙げの選手になりたくなる、ドラマの「熱中時代」を見たら、教師になりたくなる……いろんな夢がたくさんありました。ちょっとした自慢は足が速かったこと。当時は少しぽっちゃり体型でしたが、運動会では必ずリレーの選手。あとは、自分以外の誰かのために何かを率先してやる。例えば学級委員になったり。自分はサッカーをしませんでしたが、友だちのためにサッカー部をつくる活動をしたこともありました。

 中学では部活には所属せず、相変わらず高校生になった兄や友だちと遊ぶ日々。思い出深いのは、父の勧めで、千葉真一さん率いるプロダクション「ジャパンアクションクラブ(JAC)」の合宿に毎年の夏と冬、参加したことです。当時のJACはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、100人以上の所属タレントさんがいたと思います。真田広之さん、堤真一さんもJAC出身ですね。夏はスキューバ中心、冬はスキー中心の合宿で、20日間泊まり込みで、みっちりしごかれる。例えば冬の合宿では、朝5時起きで2時間山道を走って、やっと朝ごはん。その後は1日中スキー。体を資本に俳優としての成功を目指す大人の中に中学生が混じっての集団行動、ハードトレーニングは、当然ですがついていくので精いっぱい。ただ、この合宿のおかげでものすごく体が引き締まったのと、多少のことならへこたれない強い根性が身につきました。今思い出しても、よくぞ耐えられたなあと(笑)。

<龜石太夏匡をつくったルーツ2>
大学を卒業したら映画をやる。脚本家になる!
その傍ら、将来の糧にと俳優修業もスタート

 高校は東海大学付属高輪台高等学校へ進学しました。陸上部に入ってみましたが、学校から離れた場所にあるグランドへ通うのが億劫で、すぐに幽霊部員に。すでに兄たちは大学生になっていて、バブル景気の勢いに乗ってパーティサークルを立ち上げ、ディスコを借り切った大学横断の大規模イベントをしたり、スキーツアーを企画して出かけたりと、大いに青春を謳歌していたんです。高校生の俺たちにもできそうだと、仲間とサークルを立ち上げて、兄たちにやり方を教わりながら、いろんなイベントを企画・実行するようになりました。背伸びして遊ぶことが、楽しくてしかたなかったんですよ。また、父の舞台や撮影現場に、頻繁に遊びに行くようにもなりました。もちろん、小さな時から行ってはいましたが、この頃、いわゆる作品の舞台裏=バックヤードをしっかり見ていたことが、とてもいい経験になったと思っています。ちなみに僕はずっと、遊びの傍ら、“脚本めいた”ものを書き続けていました。

 高校に進学したタイミングで、僕たち家族は蒲田から横浜の戸塚に引っ越ししています。きれいな海を眺めることが好きでしたから、逗子や鎌倉に近くなるこの転居はうれしかった。昔から僕はサザンオールスターズの大ファンで、当時、桑田佳祐さんが監督を務めた「稲村ジェーン」という映画が公開され、めちゃくちゃ期待して映画館に足を運んだんですよ。映画を観終わった後、めちゃくちゃ自信過剰だった僕は、「もしかしたら自分のほうがいい脚本をつくれるのでは?」と思ってしまった(笑)。そして、これまでの“脚本めいた”ものではなく、本格的な脚本を書いてみようと書き上げたのが、あるラブストーリーでした。ものすごい作品ができ上がってしまった、と一人で感動。家族にもその内容を朗読して聞かせていました。その際の第三者評価は覚えていませんが(笑)、これが僕にとって最初に書き上げた本格的な脚本だったことは確かです。

 高校時代はそんなかたちで楽しく過ごしていましたから、学校の成績は目も当てられないほどの惨状に……。まあ、もともと大学にはそれほど興味ありませんでしたし、期待もしていませんでした。結局、自分の成績でエスカレーター式に上がれる推薦枠を使って、東海大学の文学部北欧学科に進学。大学にはほとんど行かず、脚本を書きまくる毎日です。高校生の頃にはもう、どんなかたちであれ、「映画をやる。脚本家になる」と決めていましたからね。そうなるためには、俳優を経験することが肥しになるかもと、父に相談してみたんです。すると父から、「大学の単位はきちんと取れ。そのうえで、指定した本と主要な新聞をしっかり読め。あとは、演劇とダンスのレッスンに通え。ただし、それらにかかる費用はすべて自分で稼ぐこと」という指令を出されました。そのオーダーをこなすために、僕はガソリンスタンド、銀座のクラブのバイトを掛け持ちしながら俳優修業に精を出し、オーディションを受け続けたのです。

<初めての就職>
龜石三兄弟が立ち上げた「PIED PIPER」。
みんなの夢を乗せたビジネスとして急成長

 そんな生活を続けるうちに、自分の行動範囲が知らず知らずのうちに広がっていき、自然といろんな社会勉強ができました。また、北野武監督の「ソナチネ」、深夜放送のテレビドラマなど、まだまだ端役でしたけど少しずつ役をもらえるように。大学3年になった頃にはバブル景気も泡と消え、就職氷河期というコピーがメディアに飛び交いましたが、就職するつもりはもちろんありません。ただひたすら、「映画をやる、脚本家になる」という目標を掲げ、毎日をすごしていたんです。その頃、会社に勤めながら起業を模索していた長兄の剣一郎と、スタイリストをしていた次兄の将也から、「借金してアパレルショップを立ち上げる。太夏匡、手伝ってくれないか」と誘われた。「なぜアパレルショップか?」。その答えは「自分たちが欲しいと思える服がどこにも売っていないからだ」と、単純明快(笑)。結果、俳優業との両天秤で構わないという約束で、僕は兄たちのアパレルビジネスを手伝うことを決めました。

 1993年11月、渋谷の並木橋に構えた小さなショップの名前は、「PIED PIPER(パイド・パイパー)」。スタイリストの次兄が世界一周チケット片手に買い付けてきた、高額なコートから安価なTシャツまでさまざまなアイテムそろえたセレクトショップです。内装は長兄と僕と、友だちにも協力してもらい、廃材をかき集めた手づくり。オープン当初は見向きもされませんでしたが、徐々に感度の高いスタイリストや芸能人たちが来店し始め、顧客になってくれました。そしてオリジナルアイテムの販売を開始したオープン1年後には、大ブレイク。その後すぐ、原宿に新たなショップを構えるなど、ビジネスは急成長を遂げることになります。長兄が経営者、次兄がデザイナー、僕の役目はスタッフィングと店舗マネジメントをする、いわば店長です。そして、「PIED PIPER」には僕の同級生を含め、何人もの仲間が集まり、このビジネスはみんなにとっての希望、夢になっていきました。

 ビジネスはその後も順調に拡大し、僕が26歳になった年に、大阪進出を決定。社内では、その責任者として、僕が行くしかないという話になりました。ただ、俳優業のほうで、かなり大きな役がほぼ確定しそうなタイミングだったんです。もちろん、相当悩みました……。繰り返しになりますが、「PIED PIPER」は仲間たち全員の夢、俳優は僕一人だけの夢、じゃないですか。結局、最終オーディションを受け終わった後、「申し訳ありません。僕を不合格にしてください」と監督に伝え、大阪へ行くことを決めました。数日後、そのオーディションの件を伝え聞いた父から「おまえ、いったい何を考えているんだ!」と連絡が。正直に、「みんなの夢を叶えるための決断でした」と説明したんです。すると父は、「そうか、理由がよくわかった。ならば頑張れ」と、一言。そして、僕は「PIED PIPER」の新市場開拓の命を受け、大阪へ向かいました。

<転機となる出会い>
親友・パートナーとなる伊勢谷友介との出会い。
映画づくりの話がいつか、未来の地球の話に……

 1年ほど大阪に住んで、新店舗の立ち上げに奔走しました。比較的スムーズに大阪店をオープン、軌道に乗せることができたと思っています。その後も東京と大阪を行き来しながら、「PIED PIPER」の運営を支えていたんです。確かに、場をつくること、人を集めマネジメントすること、僕はこの2つは得意です。また、愛車はポルシェ、住居はレインボーブリッジが見える高級マンション。だけど、長兄は経営者で、次兄はデザイナーで、僕は店長という肩書のただの売り子……。このままで本当にいいのか? 自分が本当にすべきことを忘れていないか? そんなことを悶々と考えながら、ショップに立っていたある日、いきなり涙が出てきて止まらなくなった……。自分でも驚きました。プライベートで、手痛い失恋をした時期でもあったんですよ。そしてこの頃、当時、東京芸術大学のまだ学生だったモデル・俳優の伊勢谷友介と出会うんです。ショップにお客としてやって来た彼との出会いは、自分にとって大きな転機のきっかけになりました。

 僕は脚本を書きたい、友介は監督をやりたいという話で盛り上がり、すぐに意気投合。過去に僕が書いていた脚本を読ませたら、友介は、「面白い! でも、新しいのが見たい」というんですよ(笑)。この時、僕の心は決まりました。「こいつと一緒に、本気で映画をつくろう」。誰からも当然ですが猛反対されました。特に兄は「仕事があるということは幸せなことなんだぞ」と引き留めてくれました。それでも、「どうしてもやる。本気でやる」と周囲を説得し、僕は「PIED PIPER」を辞めることを決めた。自分の脚本で資金を集め、映画を公開させることが40歳までにできなかったら、映画づくりからきっぱり足を洗おうと決意して。そして、クルマを売却し、家賃の安いマンションに引っ越しし、映画以外のことはいっさいやらないと自分に約束して、脚本を再び書き始めたんです。しかし、貯金を切り崩しながらの生活は2年ともたず、バイクだけを残して実家に居候。それでも映画への情熱は薄れず、企画を持っていろんな人に会いに行きました。今思えば、もすごくアグレッシブなニートでしたね(笑)。

 まず、僕が脚本を書き、友介が監督と主演を務めた「カクト」という映画が2002年に公開されます。この作品の完成は、僕に大きな達成感をもたらしてくれましたが、「得るお金はたったこれだけか……」という甘くない現実も併せて見せつけてくれました。ただし、自分はもっとやれるという、映画づくりを続ける気持ちを奮い立たせてくれた作品になったのは確かです。この頃、友介と映画のテーマについて、ほぼ365日、毎日何かしら話し合っていたと思います。そうすると、たいてい自分たちの生き方や人生、未来の話に行きつくんですよ。特に環境など社会問題に対して、これから自分たちはどんなスタンスで考え、行動していくのか――。子どもの頃から思っていました。さまざまな社会問題が存在することをみんな分かっているのに、大人たちはなぜ本気で解決しようとしないのか、できないのか、と。そこには2つの分かれ道があります。一つは傍観者を決め込んで何もしない、もう一つは自分がやれることから行動に移す。そして、二人で決めたのは、「俺たちは後者でいく」ということ。映画づくりはもちろん、自分たちの生き方すべて、未来に対する正しいアクションに紐付けて考えていくことを決めたのです。

「モラルと想像力のグッドバランスで、人類の未来に光を灯すプロジェクト」の後編へ続く→



人類が地球に生き残るため、大人に何ができるか?
自分の心を裏切らず、公の利益を謙虚に追求する

<起業>
継続して、より積極的に直接的に影響力を
残していける仕組みを構築する必要がある

 30歳を過ぎてからは、ラブホテルで清掃のバイトをしながら、脚本を書き続ける日々。友介や映画関係者と、ホテルの空き部屋を使わせてもらって打ち合わせしたことも(笑)、今となってはいい思い出です。「カクト」の次にかたちになったのは、2008年公開の「ぼくのおばあちゃん」という映画作品。僕が脚本を書いてプロデュースし、監督は俳優でもある榊英雄さん。発想の原点は、子どもが親を殺したり、親が子どもを殺したりする事件が増えていることに対する不安と疑問です。僕、おばあちゃん子で、祖母が亡くなった時、ものすごく悲しかった。祖父母って、家族に対して身をもって“死”を、教えてくれる存在でもあるんですよね。赤ちゃんの時からずっと自分を愛してくれた人が最初に亡くなる。そのつらい経験から、人は命の尊さと儚さを知り、他者を大切にできるのだと思います。このことをテーマに「ぼくのおばあちゃん」の脚本を書きました。そして初めて自分で脚本、プロデュース、公開まで持っていけた。ちなみに、主演をお願いした女優の菅井きんさんは、なんとこの作品が映画初主演。さらに、ギネス世界記録で「世界最高齢映画初主演女優」に認定されました。

 実は、「ぼくのおばあちゃん」の前に、動き出していた企画があります。それが、辻内智貴さんの小説「セイジ」の映画化です。友介と話をするなかで、この物語であれば、「人が生きていくことの意味と大切さ、社会が抱えている問題や未来への不安を希望に変えるためのヒント」をメッセージすることができると確信しました。人生を真剣に生きようとすればするほど、これでもかってくらい、つらいことが目の前に現れます。でも、自分が信じた未来をかたちにするためには、それらを一つひとつ乗り越え続けるしかない。ちなみに、「セイジ」の映画化を決めてから完成まで、企画が動き出したり、ぽしゃったりで、公開まで7年もの時間がかかりました。そのうちの6年10カ月はつらいことばかりで、何度も挫折しそうになった。だけど、最後まで何とか踏ん張って、2012年に完成した作品「セイジ 陸の魚」をスクリーンで観た瞬間、それまでの苦しかった7年間が、ものすごく素晴らしい7年に変わったんですよ。
 
 話が前後しますが、友介と映画づくりを続けていた頃、ひとつの疑問が浮かびました。いくら長い時間と多くの予算をかけて、素晴らしい映画ができ上がったとしても、観てくれた人はその後1週間で内容を忘れてしまうかもしれない。映画づくりは続けていくとして、一過性のものではなく、継続して、より積極的に直接的に、影響力を残していける仕組みを構築する必要があるのではないか、と。2008年頃、そんな思いで構想し始めたのが、今のリバースプロジェクトでした。最初に考えたのは、「人類が地球に生き残るためにはどうするべきか?」という活動理念です。そしてリバースプロジェクトは、人間が生きるうえで必要とする3つの基本「衣・食・住」をテーマに、地球環境に配慮したプロジェクト活動を推進していく。そして、持続可能な社会をつくるために、「消費」「仕事」「理念」を横串にして、プロジェクトにかかわってくれた全員が、それぞれの立場から実際に行動する。活動の性質上、NPOという組織形態も考えましたが、資本主義社会へのアンチテーゼの意味も含め、今、一番持続可能であると思われる形態、株式会社としてスタートすることを決めました。

<誰からも無理と言われる>
衣・食・住を基本としたプロジェクトを発信。
フレキシブルで軽やかな活動を継続していく

 そして2009年、株式会社リバースプロジェクトを設立。友介と僕が共同代表に就任しました。周囲に自分たちがやりたい活動や理念、組織形態の話をすると、10人中10人から「気持ちはわかるけど、無理だろ」と言われましたよ(苦笑)。でも、前述したとおり、僕たち二人は、小さくてもいい、やれることから行動に移すと決めていましたからね。本当は誰だって分かっているんです。このままではまずい。いつか誰かが責任を取らなければいけないってことを。当時、僕は「ぼくのおばあちゃん」の公開と「セイジ 陸の魚」の製作、友介はNHKのドラマスペシャル「白州次郎」、大河ドラマの「龍馬伝」、映画「あしたのジョー」への出演が決まり、お互い大忙し。なので、設立初年度の2009年は理念をゆっくりかたちにしていく、2年目は社会とつながりをつくっていく、3年目に本格的なスタートといった、青写真を描いていました。ちなみに、映画「あしたのジョー」で友介は力石徹役を演じましたが、僕の父・征一郎も、1970年公開の実写版で力石徹役だったんです。なんというか、親友でありパートナーの友介とは、改めて大きな因縁を感じざるを得ませんでした(笑)。

 リバースプロジェクトの活動をかいつまんで紹介しておきます。まずは、農家と協業して行っている「食」の活動。実は、100%コシヒカリとして売られている商品には、ブレンド米が多いんです。そこに不満を感じていた新潟・南魚沼市の農家の方が、無農薬でつくった100%のコシヒカリで販売したいと。しっかりとお話を聞くと、強い意志とビジョンを持たれた方でした。そこで実際に米づくりの現場体験をさせてもらうなどしながら話を詰め、デザインやブランディングのお手伝いをさせていただくことになりました。過去4期連続でこの活動は続いています。また、僕自身アパレル出身だったこともあって、商品廃棄ロスの問題を何とかしたかった。そこで「衣」の活動として、リサーチを続けるなかで、ジーンズメーカー大手Leeさんが我々に興味を持ってくれました。廃棄予定のデニムに、リバースプロジェクトのクリエーターがグラフィックを施し、再度市場に出す。そして、収益の一部を環境改善に使う。ゴミがプラスを生み出し、環境改善に役立つというシステムの完成です。こちらのプロジェクトも継続中で、来春、第4弾をリリースする計画です。

 「住」の活動はさまざまありますが、例えば、六本木ヒルズの森美術館で開催された、日本の自然観を再考する「ネイチャー・センス展」への参加。この時に担当した、「ネイチャー・ブックラウンジ」の空間デザインに着目された大手流通のイオンさんからお声かけいただき、オープンを控えていた越谷レイクタウンの「幸福を呼ぶリング」など、巨大オブジェ制作につながりました。しかし、この納品前に、東日本大震災が発生……。僕たちはすぐ、被災地支援のために動き出しました。友介がTwitterで広く支援を呼びかけ、J-waveさん、運送業のウィンローダーさんと協力。150トンの救援物資を、2週間後に被災地に届けることができました。また、現地に入り支援活動を続けるなか、自分たちにできる支援のかたちとして生まれたのがクラウドファインディングの「元気玉プロジェクト」。これは被災された方がネットを介して、自らが望む支援を直接メッセージできる仕組みです。その後、東松島市のまちづくりなどの復興再建サポートも動き始めています。そうやって掲げた理念にうそをつかず、多くの方々の支援と応援の気持ちを巻き込みながら、リバースプロジェクトはフレキシブルで軽やかな活動を続けているのです。

<未来へ~日本介護福祉グループが目指すもの>
モラルと想像力のバランスをしっかりとって、
サスティナビリティな社会実現を本気で目指す

オブジェ納品が震災の影響で遅れたこともあって、イオンさんと偶然、さまざまなやり取りをすることになりました。そんななかで、同社がいろんな社会貢献活動をしていることを知ったんです。そこから僕は「エシカル素材の洋服をつくりましょう」と提案。10円安い、20円安いで商品が選らばれる世の中はなくならないでしょう。それを、よいか悪いか僕たちはは否定も肯定もしません。ただ、消費者が選択できる状況をつくらないといけないとは思っていました。どのような商品であっても、できあがって店頭に並ぶまでにさまざまなストーリーがあります。そこに例えば、日本の技術力や伝統の重みを込めていく。少し高いけどこっちのほうが地球にやさしい=かっこいい――そうやって消費者の行動を変えていくことも、地球環境を守る大切な第一歩です。それをイオンさんのような大きな企業がやってくれたら、とても大きな影響力になることは間違いありません。この提案は、2011年に受け入れられ、その年末にいったん立ち消えましたが、何度もしつこく提案をさせていただいた結果、今年の6月、イオンさんのプライベートブランド「トップバリュ」を巻き込んだ、「環境LOVE宣言」というキャンペーンとして結実しました。

 これからの世界経済は、アジアを中心に回っていくはずです。グローバル企業であるイオンさんとの協業により、人口増、急速な経済発展を遂げる国々の人々に、環境保護の姿勢を見せていくことは、地球の未来にとって大きな貢献となるでしょう。実は、お金設けのビジネスに集中できるなら、もっと簡単にやれると思っています。そうではなく、僕にとっては映画もリバースプロジェクトも、自らの心が「どうしてもこうしていきたい」と思うことから生まれたこと。今はまだ、それがやっと、一つの仕事につながったり、小さなかたちになり始めた段階という感じです。国連事務総長のパン・ギムンさんは、「人類にとって、最悪のシナリオを回避できる時間的余裕は、もう10年にも満たない」と警告しています。気候変動や干ばつもそう。まだ自分に子どもはいませんが、今の子どもたち、次の世代の子どもたちのことを考えれば、いろんな問題はもう先送りできない。今が何とか対処できる可能性のある、ギリギリのタイミングのような気がしています。

 結局、地球の資源が無限にあるなら、資本主義社会は永続的に発展できるでしょう。しかし残念ながらそうではなく、地球の資源は有限です。しかもどんどん枯渇している。それなのに人間と、その集合体の企業は、個々のエゴをなかなか捨てられずにいます。だから、「人類が地球に生き残るためにはどうするべきか?」、モラルと想像力のバランスをしっかりとって、サスティナビリティ社会を実現するためのアイデアを必死で考えていかなければなりません。リバースプロジェクトの社員は現在6名。そのほか、著名なアーティスト、クリエーター、プロデューサーなど、約30名が得意分野を発揮しながら、協力メンバーとしてさまざまなプロジェクトに参加してくれています。地球人である僕たち一人ひとりは、何を我慢し、地球に思いやりをもって考え、行動することができるのか――。一人でも多くの人に、未来に対する自分の責任をしっかり認識・把握してほしい。そういった意味で、僕の究極の目標は、リバースプロジェクトの存在意義がこの世から消えてなくなること。そのために今も、僕たちはこの活動をあきらめず、続けているのです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
あなたにとっての一番の親友は、
常に厳しく応援してくれる自分である

 どんな難しい局面であっても、正解は必ずあります。そして、その正解を持っているのは、いつだって自分自身なのです。ただし、人の心ってミルフィーユ状態なんですね。例えば、毎日ジョギングをしようと決めたとしましょう。そして半年続けてきた、でも、久しぶりのひどい二日酔い……。その時、心は、「今日はやめておこう」とか、「明日また走り出せばいい」と答えるかもしれない。でも、奥底のほうで心は、「いや、せっかくここまで続けたのだから、今日も走ろう」と言っているはずなんです。それがやっぱり本当の正解でしょ。だからこそ、あなたにとっての一番の親友は、常に厳しく応援してくれる自分ということ。失恋した時も、大きな失敗をした時も、それを受け入れてくれたのはあなたの心じゃないですか。そしてあなたの心臓は、あなたをこの世に生かすために、最後の鼓動の1回まで、必死で動き続けてくれる。そんなあなたの体に、心は宿っているのです。そのことを理解すれば、どんどん自分という存在自体がありがたく、愛おしくなる。そしてそのことをしっかり認識すれば、他人のことも、今以上に好きになれると思います。

 1日5分でもいい、静かに自分の心と向き合う時間をつくってみましょう。そして、自分の心があなたに何を伝えようとしているのか、しっかり耳を傾けてみてください。その心の声を裏切らずに生きていくことができれば、必ずあなたの人生は豊かになります。豊か=お金があるではないと思います。僕はアパレル時代に、いい車に乗り、高級マンションで暮らしていた時よりも、ラブホテルで働きながら脚本を書いていた時のほうが、精神的に明らかに豊かでした。本当にやりたいことは何なのか、そこから逃げてはいないか、自分の心に常に聞いてみる。そこに起業のヒントが隠されているかもしれません。そして一度挑戦を決めたら、5つの山を乗り越えるまでは、決してあきらめないことです。理不尽な対応、心を殺さなければできない行為など、いろんな苦難が待ち受けているでしょう。でも、5つの山を乗り越えられれば、喜びや達成感がやっと見えてくるはず。起業に年齢など関係ありません。繰り返しになりますが、「セイジ 陸の魚」は完成まで7年かかりましたが、そのうち6年と10カ月は本当に苦しかった。それでも完成試写を観た瞬間に、苦しい7年間が本当に素晴らしいものに変わったのですから。

 今、地球環境は待ったなしの状態です。そんな時代に生まれてきた僕たちは、ある意味、選ばれしエリートなのかもしれない。だから、地球上に無駄な命なんて一つたりともありません。まずは目の前にある問題に対して、必死で立ち向かいましょう。僕は今、会社の経営者を担っていますが、文学部出身で、MBAホルダーでもない。でも、自分ができることに責任を持って、誰よりも働く、感謝する、人生を楽しむことを決めています。そして、謙虚に、素直に、公の利益を追求し続けています。そんな僕が感銘を受け、経営者としての指針となっている言葉を、最後に紹介しておきます。「生きるということを意識せず、生かされていることを意識して、繰り返される単調な日々の中、情熱を持って新しいことを想像・創造できる人間になる」。これは、オーガニックの牧草地をつくった、ある経営者の言葉です。生きる=それはエゴイスティックであり、生かされている=それはあなたが未来に必要とされているという意味だと思います。それでも、繰り返される単調な日々は続くけど、その中にいても情熱を失わずに、新しいことが想像・創造できる人が本当のプロ。そんな気持ちを胸に抱いて、未来へと続いていく人生を力強く歩んでいってほしいです。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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