第161回 事業家 加藤順彦

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執筆者: ドリームゲート事務局

第161回
事業家
加藤順彦 Yorihiko Kato

1967年、東京都生まれ。小学2年生から大阪で育つ。1986年、関西学院大学商学部に入学。当時、大阪ミナミの“夜の顔”だった真田哲弥氏(現KLab株式会社代表)に憧れ、彼のカバン持ちをしつつ夜遊びをする日々を送る。大学の授業はほとんど受けず、真田氏が立ち上げた学生企業・株式会社リョーマに参画。1989年、「ダイヤルQ2」事業のダイヤルキューネットワークに参画。大学4回生ながら、部長職として7人の部下を持つ立場に。1992年、広告代理店、有限会社日広(現GMO NIKKO株式会社)を創業。雑誌広告からネット広告にシフトし、2006年には連結年商120億円の企業に成長。しかし、堀江貴文氏逮捕による株式市場暴落のあおりを受け、業績が急速に悪化。2008年、日広をGMOインターネットに譲渡し、シンガポールに移住。現在、アジア市場での成功を目指す日本の若手起業家のハンズオン・フルサポート支援を行っている。著書に『シンガポールと香港のことがマンガで3時間でわかる本』(アスカビジネス)、『講演録 若者よ、アジアのウミガメとなれ』(ゴマブックス)。

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ライフスタイル

好きな食べ物
寿司とか日本的なものです。

寿司が大好きですね。一番はコハダですかね。日本に帰ってくると無性に食べたくなります。あとは、カレーにラーメンなど、日本的な味付けのやつが好みです。お酒は何でも飲みますよ。焼酎に、ソーダ、レモンをよく飲んでいる気がします(笑)。

趣味
人と出会う旅。

私は世界中の日本人起業家に会うために旅を続けています。異国で頑張っている同胞との出会いは、とてもエキサイティング。彼らと人生の時間を共有することが、私の仕事でもあるのですが、楽しくて仕方ない。もはや趣味といっても過言ではありません(笑)。

行ってみたい場所
ルクセンブルク大公国です。

自分にとって、シンガポールは“約束の地”だったと思っています。シンガポールと同じように起業家にやさしい西ヨーロッパの小国、ルクセンブルクが、私を呼んでいる気がしています(笑)。日本人が世界で起業しやすくなるような武器を、これからも見つけていきたいと思っています。

日本を外から揺さぶり刺激を与える存在を目指す。
ニッポンの若者よ、アジアのウミガメとなれ!

シンガポール、アジア各国と、日本を反復横とびする大阪人――事業家・加藤順彦氏を一言で表現するとこうなる。大学生時代からさまざまな事業に参画し、自身でネット広告代理店を起業。その後の2008年、日本を飛び出し、シンガポールにいきなり移住した。以来、アジアで事業を成功させ、日本に凱旋する若き“ウミガメ”起業家の支援・育成に奔走中だ。そして加藤氏は、「日本を外から揺さぶり、刺激を与える存在」を本気で目指している。「これからもシンガポールを拠点とし、アジア各国を飛び回りながら、若き日本の起業家を応援する挑戦を続けていきます。まずは一人でもいい、できるだけ早く、日本を代表する“ウミガメ”をつくりたいですね」。今回はそんな加藤氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<加藤順彦をつくったルーツ1>
鉄鋼問屋の長男として生を受ける。
商売を学ぶため、関西学院大学商学部へ

 祖父は、大阪で鋼材問屋を起こした起業家で、私は祖父の長男の長男として誕生。二代目となる父は家業に入り、私が生まれた1967年当時、東京支店を任されていました。そんなわけで、小さな頃は神奈川県の金沢八景で暮らしていたんです。で、祖父が体調を崩したことがきっかけとなって、小学2年の終わりに家族で大阪に戻りました。ちなみに私のきょうだいは4人ですが、いとこがめちゃくちゃ多かったんですよ。父は7人きょうだいの長男で、ほか6人は全員が女性。盆暮れには、大阪の豊中にある祖父の自宅に一族全員が集合するのがしきたりです。そして毎年、元日の朝は、大人も子供も、もちろん叔母たちの旦那さん方も全員が正座して、祖父から新年のあいさつを聴くという――子ども心ながら、「うちは何だか普通とはちょっと違うとんでもない家」と、思っていました。。

 祖父からはたまに「将来は商売を継ぐんやで」と言われていました。ちなみに、祖父は私が小学5年の時に他界しましたが、葬儀がこれまたかなり立派な葬儀で。松下幸之助さんと同じ葬儀会場だったそうで、社葬には1000人を超える弔問客がいらしてくれたと聞いています。葬儀会場で、私たちの家族は祭壇に一番近い席に座り、二代目の父の横で、半ズボンをはいて座っている三代目と目されていた私は、何人もの弔問客の方々から「お爺さんはとても立派な人だった」「君もお爺さんのような偉い経営者になりなさい」など、口ぐちに声をかけていただき――祖父はやはり尋常ならざるすごい経営者だったということを改めて知りました。この葬儀の後で、私のなかに小さいけれど自我のようなものが芽生えたたように思います。自分もいつかきっと、商売に携わる大人になろう、と。

 中学、高校は地元の公立に通い、ずっと水泳部に所属していました。うちは家族みんな仲良くて、きょうだいげんかもまったくなし。私自身も、反抗期の記憶がないですし、「これをやりたい!」と決めたことはほとんどやらせてもらっていました。ただ、私は昔から皇室の熱狂的なファンで、高2の時、「大学はぜひ学習院大学に行きたい」と父に相談したら「それはダメだ。大阪で商売をするのだから、意味がないだろう」と即答。初めて親から反対されて驚きました。しかしまあ、自分でも商売をしたい気持ちはありましたから、すぐに方向転換です(笑)。いろいろ考えた結果、時間がもったいないので、浪人はせず、合格したところに行くと決め、商売が学べそうな商学部と経営学部のある大学を選んで受験。そして、関西学院大学の商学部に合格し、私の大学生活が始まりました。

<加藤順彦をつくったルーツ2>
憧れの先輩と出会い、カバン持ちと遊びの日々。
大学の授業は受けず、学生起業でビジネスを実践

 商売を学ぼうと思って進学した大学でしたが、儲ける術はここでは学べないということがすぐにわかりました。サークルにもアルバイトにも興味が持てず、ぶらぶらしていた時、大学の掲示板に張ってある「関学甲南ウエルカムダンスパーティ」というイベント告知ポスターを見つけたんです。何となくモテそうだし、学内活動だろうと思い、実行委員会に参加することに。そしたらいきなり、「チケットを売ってこい」と指示され、知り合いのつてを使って、1枚1000円のチケットを200枚ほどさばきました。6月に開催されたイベントには800人ほどの参加者が集まり大成功。その4分の1の集客に貢献したということで、マージンを渡されました。そう、このイベントは学内活動などではなく、個人の金儲けのために企画されたダンスパーティだったんですよ(笑)。

 その首謀者が、後にKLab株式会社を創業し、上場に導いた真田哲弥さんでした。彼は当時、大阪ミナミの夜の遊び場では、どこでも顔パスの超がつく遊び人で、一緒に遊ぶとめちゃくちゃかっこいいわけです。人脈も幅広くて、ディスコやバーなど、いろんな店にいいお客をどんどん紹介している。ギブをしっかりするから、店側からも気に入られて上客扱いされる。「加藤、俺と一緒にいろいろやらないか」と誘われて、毎晩、毎晩、真田さんと遊び歩くようになりました。そして1986年11月、真田さんの中高の同級生で、当時神戸大学の学生だった西山裕之さん、今はGMOインターネットの専務ですが、真田さんとその西山さんが事業を始めることになり、そこに私も参画。その母体が株式会社リョーマで、事業内容は運転免許合宿の斡旋でした。

 当時はバブル花盛りし頃。男子大学生のほとんどが、車の免許を取っていました。リョーマでは、従来の合宿免許をただ斡旋するのではなく、スキーやテニスという遊びの付加価値を盛り込んだうえで広報。「俺たちは大学生なんだから、大学で告知すればいい」という真田さんの号令で、勝手に学内にポスターを張りまくって(笑)。この戦略が当たり、毎月20名ほどの集客に成功します。1人当たりの代金は20数万円で、リョーマの利益は2万円くらい。今考えれば小さな商いですが、売り上げはすぐに億に届きました。その後、私が関西の有名大学の学生をスカウトしながら、リョーマのネットワークは30人ほどに膨れ上がります。そしてさらなるバブルの波に乗り、さまざまな企業から大学生マーケティングの仕事がどんどん舞い込むように。そして1988年の10月、私はリョーマの取締役に就任。商売が面白くてしかたなく、大学の授業にはまったく出ていませんでした(笑)。

<関西の大学生、東京で勤務>
情報通信事業に参画し、7人の部下を持つ部長に。
「このまま上場か!」の勢いが瞬時にしぼむ……

 1989年になった頃、東京に出ていた真田さんから、「これからものすごいことが起こるぞ!」という連絡が。聞けば、民営化したばかりNTTが通話課金以外の新規サービスをスタートする、それが情報料金課金回収サービス「ダイヤルQ2」でした。真田さんはすでに、現株式会社ザッパラス代表で、当時、東京大学の1年生だった玉置真理さんを社長にすることを決めていました。実際、広報的にも「美人東大生がベンチャー経営」という話題性は大当たり。また、「ダイヤルQ2」の初期解放枠100回線の多くを押さえるために、申し込み開始日に全国の大学生をネットワークして、NTTの指定支社で配られる用紙をすべて彼らに回収させるという奇策も。当時は、個人・法人問わず申し込みができ、その後の譲渡が可能でしたからね。そのおかげで、100回線のうちの約半分を押さえる寡占化に成功。そうやって、ダイヤルキューネットワークという会社がスタートしました。

 そして私を含め、リューマの主要メンバーがダイヤルキューネットワークへの参画。しかし、関西にある大学の4回生が、東京の会社で毎日働くということは、どう考えても異常ですよね(笑)。もちろん、父からも引きとめられ、父のコネで、川鉄商事(現JFE商事)への腰かけ就職が決まります。そうしておけば、大人しく就職して、後々、家業を継ぐ気になるだろうと考えたのでしょう。ただ、私にとってダイヤルキューネットワークの仕事は、リョーマ時代の何倍も面白かったんです。毎日20時間は働いていたと思います。まったく苦じゃなかったです。大学を卒業しても、この仕事を続けていきたいと考えた私は、4年の単位をわざと1つだけ落として留年。父と川鉄商事さんには本当に申し訳なかったですが、“卒業できず”で内定を取り消してもらいました。当時の私は、ダイヤルキューネットワークはこのまま右肩上がりで急成長を続け、すぐに上場するだろうくらいに思っていたんです。

 しかし、昨日までゼロだったものが、わずか1年で1000億産業に――あまりの急拡大が問題視され、「ダイヤルQ2」が社会問題化してしまうのです。特に、ツーショットダイヤルと呼ばれていた男女間のマッチングサービスが問題視されました。もちろん、我々はツーショットダイヤル、やっていません。PTAが騒ぎ出し、国会でも議論されても、「真面目にやっている俺たちはそれでも大丈夫」と高を括くっていたんです。ところが、一留して大学を何とか卒業した1991年の4月末、「ダイヤルQ2」のコンテンツプロバイダーに対して、NTTからの通達が届きました。「情報料金の支払いサイトを、これまでの月末締め翌々月10日払いから、月末締めの翌々々々月10日払いに変更する」。大手企業は支払いが多少遅れてもそれほど打撃はないでしょうが、我々のようなベンチャーが支払いを2カ月も先延ばしにされるのは死活問題です。そう、ダイヤルキューネットワークは、あっけなく潰れてしまいました……。

<ベンチャーは怖い>
雲の上のルール変更で、いきなり倒産の憂き目に。
知人たちから依頼され、広告代理ビジネスを開始

 ダイヤルキューネットワークは、「ダイヤルQ2」の情報通信用の大型コンピューターを全国6カ所のセンターに設置するため、銀行から何億円ものリース契約をしていました。NTTから通達が出された後すぐに、銀行、リース会社、番組制作会社がお金を回収にやってきました。しかし、支払いなんてできません。支払いに充てられる売り上げが入ってくるのは、2カ月も先なんですから。毎月数億の売り上げがあった会社が、本当に、あっと言う間に倒産……と同時に、これまで順調に歩んできた自分の人生が、いきなり頓挫です。もうひとつ、雇用することの責任の大きさを痛感しました。7人いた部下の最年長者は47歳で、当時高校3年のお子さんがいましたから……。ベンチャーは怖い。まじめにやっていても、雲の上で勝手にルールを変更され、理不尽に潰されることが本当にある。私は呆気に取られて、一人悔し泣きするしか、できることがありませんでした。

 その1カ月後、ありがたいことに、徳間書店さんが「ダイヤルQ2」事業を引き取ってくださり、私はそのためにつくってもらった新会社、徳間インテリジェンスネットワークに15名のスタッフとともに転籍します。会社は潰れましたが、ニーズはあったし、利益も挙がっていましたから、何とか続けていこうと。ただし、「ダイヤルQ2」の社会問題はまだくすぶっていました。徳間さんはスタジオジブリさんと「となりのトトロ」や「紅の豚」をやっていたり、児童書も展開していました。徐々に会社の上のほうで、「そんな我々がダイヤルQ2をやってていいのか?」という議論が噴出し始めます。そして結論としては、親会社の決定で、「ダイヤルQ2」は終了……。転籍して1年と少しで、私のアイデンティティはどこにもなくなってしまいました。会社が潰れたことは親には内緒でしたし、もう家業は弟が継いでいます。まさに根なし草のような、つらい日々でした。

 1992年8月、有限会社日広という広告代理店を立ち上げることになります。ダイヤルキューネットワークの活動を通じて仲良くなった、ツーショットダイヤル系の経営者たちから、「成人誌など、雑誌広告の買い付けを代わりにやってくれ」と依頼されたのがきっかけです。儲かっている彼らは、広告に自社の所在地などの情報を出したくないんです。なぜなら、広告出稿が多い会社は儲かっていると見られ、怪しいお客が訪ねてきたりするそうで……。ツーショットダイヤルの大手数社と提携し、最初から広告予算が渡され、私がその範囲で雑誌社から広告枠の仕入れをするだけで商売になる。そうやって何となく始めたのが、自身初の広告代理店ビジネスです。3名ほどのアシスタントを雇っても、かなりの利益が残る。3年くらいは面白く、この商売をやっていました。しかし、またもや自分ではどうにも変えられないルールが立ちはだかることになります。



シンガポール、アジア、日本を反復横飛びする大阪人。
若き日本の起業家の成功を、ハンズオンで支援!

<新たな黒船がやってきた!>
インターネット広告にビジネスをシフトし、
連結年商120億円の事業経営者となる

 ツーショット系の事業自体が成長したことで、「有名な雑誌で広告を打ちたい」とオーダーされたんです。ならばと、講談社、小学館、集英社など大手出版社の雑誌広告枠の買いつけに動いたのですが、有名雑誌の広告枠はすでに大手代理店が何年も先まで押さえてあり、いくらお金を出しても絶対に買えないのです。リスクなく儲かるビジネスには、やはりスケール化を阻止するハードルがある……。いわゆる「既得権益」が邪魔をするのです。そのことをもって考えてみました。ベンチャーで大きく成功できるのは、既得権益やルールのない業界だけ。すなわち、新しく儲かりそうなフィールドを誰よりも早く見つけ、そのフィールドの中で、ルールメーカーになる必要がある。その気づきが生まれたのが1995年頃で、秋にマイクロソフトがWindows95を発表。そして、インターネットという、新しい情報通信ネットワークがアメリカで爆発的に流行り始めている。「これはダイヤルQ2に似ている! 産業として急成長する!」と確信しました。

 そこから2年ほどは、ツーショットダイヤルの広告と並行し、創刊が続いたインターネット雑誌へ、接続プロバイダのユーザー獲得広告の営業に注力。その後徐々に、雑誌広告のシェアをゼロに近づけながら、インターネットのバナー広告営業にシフトしていきました。ページに限りがある雑誌と違い、インターネットは際限なく膨張していくメディアです。また、大手はまだインターネットがよくわからないうえ、売り上げサイズが小さすぎるため参入しづらい。だからこそ、このフィールドはベンチャーがルールメーカーなれると踏みました。ただ、月刊雑誌広告1ページ200万円の売り上げに比べ、当時、ヤフージャパンのトップバナーを必死で売っても1カ月50万円になるかどうか。会社の生産性はガタ落ちです。実際、1997年の年商16億円が、1999年には9億円ほどに激減しました。また、「インターネットの可能性がよくわかりません」と、半分ほどの社員が去って行った。引きとめられず、悲しかったですね。
 
 その後、インターネットは社会にどんどん広がって、ネット広告市場もどんどん成長し、日広の売り上げはそれに比例して伸びていきました。その理由は、産業が成長していく大きな波と追い風をしっかりとつかめたからです。そして日広はその勢いを受け、2006年に連結で年商120億円、従業員数180名の企業に成長します。その間、34社のネットベンチャーに投資をしており、そのうちのDeNAやザッパラスなどが上場。会社としても個人としても、まさに我が世の春のような状態でした。 しかし、2006年1月16日、ライブドアの堀江貴文さんが逮捕――。ご存じのとおり、ネットベンチャーの信用はいっきに地に落ち、2000年以降に上場した新興上場企業株が、ひどいところでは100分の1に、ヤフージャパンですら3分の1に下がってしまった。おまけに、いわゆる消費者金融業界の過払い問題で、日広の大型顧客の外資系消費者金融会社さんが日本から撤退。2006年初めに11億円ほどあった月商は、半年でいっきに5億円強までシュリンクです……。

<さらば……日広>
会社と残されたスタッフを救うことを優先し、
苦渋の決断で、創業会社を売却することに

 堀江さんが、いわれなき嫌疑を理由に逮捕。楽天の三木谷さんが、あと1%の株を取得すればTBSを持ち株適用会社にできる寸前で、各方面から脅され買収を断念。日本はなぜ、成功を目指すベンチャーに対して自虐ともとれるいじめをするのか……。そんなこんなで株価が下がり、市場の信用収縮につながり、資金調達が非常に難しくなった。日広も同様、毎月、千万円単位の資金繰りに追われ、社員のみんなに2007年6月の賞与が出せず、初の希望退職者を募ることに。また、今後も大変苦しい状態が続きそうだと読んだ私は、会社と残されたスタッフを救うことを優先し、2007年12月、GMOインターネットさんに会社を託す意思決定をしました。日広の名前を残す、業態を変えない、私以外の役員は引き続き現任という3つの条件を受け入れてもらえました。会社は人を幸せにする道具と考え、一所懸命、日広を育ててきた私にとって、本当に苦渋の決断でした。2008年8月、私は大切な事業を失いました。

 話が前後しますが、私は2006年10月に、グーグル主催の国際カンファレンス「zeitgeist」に招かれ参加しています。前年までは、アメリカ、ヨーロッパ、日本の参加者が中心だったそうですが、その年の参加者は前年の3倍。しかもその半分が、中国、シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイ、インドなどから呼ばれたアジア各国の参加者たちです。当時のグーグルのCEO・エリック・シュミットさんは、カンファレンスのなかで、「これからグーグルが注力するのは東南アジア。特にモバイルに力を入れる。そして、アジアのハブはシンガポールである」と、高らかに宣言しました。正直、グーグルの先を読む力の鋭さに、驚きました。もうひとつ驚いたのは、同時通訳機を使っていたのは日本人だけだったことです……。アジア各国の参加者は、誰ひとり同時通訳機を使いませんでした。

 同じ年に、ニューヨークで開催された検索関連のカンファレンスで、百度(バイドゥ)のロビン・リーさんの英語のスピーチを聞きました。百度は中国語専門の検索エンジンで、ロビンさんも中国人。彼はアメリカの大学でMBAを取り、技術者も全員中国人ですがシリコンバレーの出身者たち。そして事業資金をアメリカで調達し、アメリカ市場での上場も計画している――とそんな内容のスピーチで、その戦略性にびっくりしました。ちなみに、アリババやタオバオを立ち上げたジャック・マーさん。彼も同じように、アメリカで認められ、中国に凱旋して大成功している起業家です。海外で成功して国内に新しい産業と雇用をもたらす起業家を、中国では誰もが、「ウミガメ族」と呼び尊敬します。中国での発音は「ハイグイ」――。「海に帰る」とも書きますし、「海の亀」とも書く、かけ言葉なんですね。さらに、彼らの自伝がベストセラーになっているだけではなく、中学の教科書の副読本にも載っている。日本の起業家も同じように新しい産業と雇用を創出しているのに、中国の起業家たちの待遇と比べると天地以上の開きがある! 「ああ、日本に足りないのはこれだ!」と強く思ったことを覚えています。

<未来へ~事業家・加藤順彦が目指すもの>
2008年、シンガポールへの移住を決行!
アジアの追い風を、日本の若き起業家へ

カンファレンスに参加した2006年頃からずっと、ロビン・リーさんやジャック・マーさんのように、海外で起業し、海外で名を挙げ、母国に凱旋して新しい産業と雇用を生み出す、「ウミガメ族」と呼ばれる人たちが日本にも必要だと考えていたのです。その頃、そんな日本人が過去にいたかどうか考えてみましたが、一人も思いつきませんでした。で、日広を離れることを決めた時、生まれて初めて仕掛け途中の物事がいっさいないことに気づいたんです。また、41歳で訪れた、この人生途中のリセットが意味するものは何か?――スクラッチで勝負できる最後のチャンスなのではないか、と。そう考えた時、グーグルのCEO・エリック・シュミットさんが言った、「これからはアジアの時代」という言葉と、「シンガポールはアジアのハブ」になるという言葉がフラッシュバックしてきたんです。

 私はシンガポールに行くことを決めました。シンガポールから、日本を揺さぶり、刺激を与えられる存在になりたいと思ったのです。そして2008年から、シンガポールに移住し、日本の若き起業家を対象とした投資とハンズオン型の経営支援を行っています。支援といっても単なるコンサルティングではなく、あくまでも経営陣の1人として経営者やスタッフと一緒に汗をかくやり方です。支援するかどうかは、基本的には日本人の20代、30代の起業家で、経営にしっかりコミットできることを条件としています。例えば、私が支援しているソーシャルワイヤーという会社は、もともと日本のニュースリリース配信会社ですが、今、アジアで「CROSSCOOP」というサービスオフィスのチェーンを展開しています。これは、日本の起業家たちをアジアへと導くことを目的としたビジネスですね。

 また、サティスファクション ギャランティードは、メンズのカジュアルウエアのアパレルメーカーです。同社はフェイスブックを使ってアジアの知名度を上げる戦略を取り、現在400万人以上から「いいね!」を集める人気ブランドに成長しています。ほか、スカイプ英会話レッスンのラングリッチ、アニメーションなど映像制作のダックビル・エンタテインメントなど、現在、主には8社の経営に参画しています。また、今年に入って、HUGSという会社の経営参画を決めました。キャッサバイモをカンボジアで生産し、世界に向けて輸出するビジネスなんですが、農業支援は私もまさかの想定外(笑)。経営者の魅力にひかれたんですね。これからもシンガポールを拠点とし、アジア各国を飛び回りながら、若き日本の起業家を応援する挑戦を続けていきます。まずは一人でもいい、できるだけ早く、日本を代表する“ウミガメ”をつくりたいですね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業、会社経営は本当に素晴らしい仕事である。
一人でも多くの若者が、起業することに意味がある

 私はね、当然ですが、自分がつくって育てた日広を、辞めたくありませんでした。会社の経営はものすごく楽しかったですし、仕事はもちろん、社員旅行や飲み会も、配偶者や子どもだけでなくご両親も会社に招待したファミリーデイも、社員たちとのいい思い出もいっぱいあります。そして、日広のOBは延べで350人ほどいますが、そのほとんどが今も同じ広告・マーケティング業界で仕事に従事しているそうです。そんな彼・彼女たちの話を聞くにつけ、日広時代に仕事の楽しさを存分に共有してくれたんだなあと。起業して会社を経営して本当によかったと心から思っています。前置きが少し長くなりましたが、皆さんに伝えたいことは、起業すること、会社を経営すること、それは本当に素晴らしい経験であるということ。まずはそのことを、若い世代の人たちにメッセージしたいですね。

 思えば、25歳で日広を立ち上げてからずっと、私は他国のプレーヤーなどまったく関係なく、日本という狭い市場の中だけで、経営を続けてきました。しかし、バブルの遺産も底をつき、日本の成長も止まっています。これからは、中間所得者数が急増するアジアをターゲットに起業すべき、若き日本の起業家は、追い風が吹く、アジアに出ていくべきなんですよ。アジアでしっかり事業を成功させて、日本に凱旋し、それから日本に貢献すればいいのです。私が思い描く“ウミガメ”のロールモデルとなる起業家が1人生まれてくれれば、必ず後に続く起業家が現れます。渋谷のビットバレーで活動していた時もそう思いました。サイバーエージェントの藤田晋さん、GMOインターネットの熊谷正寿さん、そして堀江貴文さん。2000年にビットバレーは幕を閉じましたが、若き起業家候補が彼らのようなぴかぴかのロールモデルを目指した結果、その後6年間をかけて1000社を超える上場企業が生まれたわけですから。

 ただし、統計的に、新しく生まれた会社の10社のうち9社は10年後に生き残っていません。だから「やめとけ」と言うのか、「ええやん」と言うのか、私なら間違いなく後者でしょう。どんな世界でも、100%が成功できるなんてあり得ません。それでもやるしかないんですよ。なぜなら全員に可能性はあるわけですから。ちなみに、ウミガメが大人になれる可能性は、5000分の1といわれています。それ以外の4999匹は、大人になる前に命を落としてしまう。でも大人になれた1匹がいるからこそ、ウミガメは絶滅しないで繁殖できるわけです。同じように起業の世界も挑戦者を増やしていくべきなんです。今の日本の状況は腐っていますが、失敗しても笑ってもう一度挑戦できる、そんな社会に私たちがしていかなきゃいけない。そして、どうせやるなら、追い風の吹くアジアを見据えて起業に挑戦してほしい。繰り返しますが、成功のロールモデルになれる可能性は全員にあります。最後にひとつだけ。成功するための条件は、成功するまで絶対にあきらめないこと。これしかない!

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:大平晋也

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