第161回 事業家 加藤順彦2

日本を外から揺さぶり刺激を与える存在を目指す。
ニッポンの若者よ、アジアのウミガメとなれ!

シンガポール、アジア各国と、日本を反復横とびする大阪人――事業家・加藤順彦氏を一言で表現するとこうなる。大学生時代から様々な事業に参画し、自身でネット広告代理店を起業。その後の2008年、日本を飛び出し、シンガポールにいきなり移住した。以来、アジアで事業を成功させ、日本に凱旋する若き“ウミガメ”起業家の支援・育成に奔走中だ。そして加藤氏は、「日本を外から揺さぶり、刺激を与える存在」を本気で目指している。「これからもシンガポールを拠点とし、アジア各国を飛び回りながら、若き日本の起業家を応援する挑戦を続けていきます。まずは一人でもいい、できるだけ早く、日本を代表する“ウミガメ”をつくりたいですね」。今回はそんな加藤氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<加藤順彦をつくったルーツ1>
鉄鋼問屋の長男として生を受ける。
商売を学ぶため、関西学院大学商学部へ

 祖父は、大阪で鋼材問屋を起こした起業家で、私は祖父の長男の長男として誕生。二代目となる父は家業に入り、私が生まれた1967年当時、東京支店を任されていました。そんなわけで、小さな頃は神奈川県の金沢八景で暮らしていたんです。で、祖父が体調を崩したことがきっかけとなって、小学2年の終わりに家族で大阪に戻りました。ちなみに私のきょうだいは4人ですが、いとこがめちゃくちゃ多かったんですよ。父は7人きょうだいの長男で、ほか6人は全員が女性。盆暮れには、大阪の豊中にある祖父の自宅に一族全員が集合するのがしきたりです。そして毎年、元日の朝は、大人も子供も、もちろん叔母たちの旦那さん方も全員が正座して、祖父から新年のあいさつを聴くという――子ども心ながら、「うちは何だか普通とはちょっと違うとんでもない家」と、思っていました。。

 祖父からはたまに「将来は商売を継ぐんやで」と言われていました。ちなみに、祖父は私が小学5年の時に他界しましたが、葬儀がこれまたかなり立派な葬儀で。松下幸之助さんと同じ葬儀会場だったそうで、社葬には1000人を超える弔問客がいらしてくれたと聞いています。葬儀会場で、私たちの家族は祭壇に一番近い席に座り、二代目の父の横で、半ズボンをはいて座っている三代目と目されていた私は、何人もの弔問客の方々から「お爺さんはとても立派な人だった」「君もお爺さんのような偉い経営者になりなさい」など、口ぐちに声をかけていただき――祖父はやはり尋常ならざるすごい経営者だったということを改めて知りました。この葬儀の後で、私のなかに小さいけれど自我のようなものが芽生えたたように思います。自分もいつかきっと、商売に携わる大人になろう、と。

 中学、高校は地元の公立に通い、ずっと水泳部に所属していました。うちは家族みんな仲良くて、きょうだいげんかもまったくなし。私自身も、反抗期の記憶がないですし、「これをやりたい!」と決めたことはほとんどやらせてもらっていました。ただ、私は昔から皇室の熱狂的なファンで、高2の時、「大学はぜひ学習院大学に行きたい」と父に相談したら「それはダメだ。大阪で商売をするのだから、意味がないだろう」と即答。初めて親から反対されて驚きました。しかしまあ、自分でも商売をしたい気持ちはありましたから、すぐに方向転換です(笑)。いろいろ考えた結果、時間がもったいないので、浪人はせず、合格したところに行くと決め、商売が学べそうな商学部と経営学部のある大学を選んで受験。そして、関西学院大学の商学部に合格し、私の大学生活が始まりました。

<加藤順彦をつくったルーツ2>
憧れの先輩と出会い、カバン持ちと遊びの日々。
大学の授業は受けず、学生起業でビジネスを実践

 商売を学ぼうと思って進学した大学でしたが、儲ける術はここでは学べないということがすぐにわかりました。サークルにもアルバイトにも興味が持てず、ぶらぶらしていた時、大学の掲示板に張ってある「関学甲南ウエルカムダンスパーティ」というイベント告知ポスターを見つけたんです。何となくモテそうだし、学内活動だろうと思い、実行委員会に参加することに。そしたらいきなり、「チケットを売ってこい」と指示され、知り合いのつてを使って、1枚1000円のチケットを200枚ほどさばきました。6月に開催されたイベントには800人ほどの参加者が集まり大成功。その4分の1の集客に貢献したということで、マージンを渡されました。そう、このイベントは学内活動などではなく、個人の金儲けのために企画されたダンスパーティだったんですよ(笑)。

 その首謀者が、後にKLab株式会社を創業し、上場に導いた真田哲弥さんでした。彼は当時、大阪ミナミの夜の遊び場では、どこでも顔パスの超がつく遊び人で、一緒に遊ぶとめちゃくちゃかっこいいわけです。人脈も幅広くて、ディスコやバーなど、いろんな店にいいお客をどんどん紹介している。ギブをしっかりするから、店側からも気に入られて上客扱いされる。「加藤、俺と一緒にいろいろやらないか」と誘われて、毎晩、毎晩、真田さんと遊び歩くようになりました。そして1986年11月、真田さんの中高の同級生で、当時神戸大学の学生だった西山裕之さん、今はGMOインターネットの専務ですが、真田さんとその西山さんが事業を始めることになり、そこに私も参画。その母体が株式会社リョーマで、事業内容は運転免許合宿の斡旋でした。

 当時はバブル花盛りし頃。男子大学生のほとんどが、車の免許を取っていました。リョーマでは、従来の合宿免許をただ斡旋するのではなく、スキーやテニスという遊びの付加価値を盛り込んだうえで広報。「俺たちは大学生なんだから、大学で告知すればいい」という真田さんの号令で、勝手に学内にポスターを張りまくって(笑)。この戦略が当たり、毎月20名ほどの集客に成功します。1人当たりの代金は20数万円で、リョーマの利益は2万円くらい。今考えれば小さな商いですが、売り上げはすぐに億に届きました。その後、私が関西の有名大学の学生をスカウトしながら、リョーマのネットワークは30人ほどに膨れ上がります。そしてさらなるバブルの波に乗り、様々な企業から大学生マーケティングの仕事がどんどん舞い込むように。そして1988年の10月、私はリョーマの取締役に就任。商売が面白くてしかたなく、大学の授業にはまったく出ていませんでした(笑)。

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