第159回 アート・クラフト・サイエンス株式会社 代表取締役会長 鎌田 和彦 2

「リノベーション」の独自ロジックを確立。
成熟している不動産業界の改革を目指す!

成熟産業である不動産業――中古マンションを仕入れてリノベーションを施し、再販するビジネスに成長性を見出し、投資判断やリノベーション手法の独自ロジックを編み出して好調な業績を上げているアート・クラフト・サイエンス株式会社。2009年に同社の会長に就任した鎌田和彦氏は、総合人材サービス会社の株式会社インテリジェンスの創業メンバーであり、二代目の社長として同社を上場させたキーマンとして知られる。そして、2003年4月には、自身初の本格的エンターテインメント小説『奥さまはCEO』(牧野出版)を上梓し、作家デビューも果たした。銀座のフレンチレストラン「ラール・エ・ラ・マニエール」や、丸ビルに出店したブーランジェリー「ポワン・エ・リーニュ」のオーナーでもある。今回は、そんな鎌田氏に子ども時代からこれまでに至る経緯、多分野で活躍する思いや大切にしている考え方などについて、大いに語っていただいた。

<鎌田和彦をつくったルーツ1>
母一人子一人の家庭環境と、
小田原から港区への環境変化

 生まれ育ったのは神奈川県小田原市です。物心ついた頃から、母一人子一人の生活でした。母は、女手一つで私を育てるため相当に努力してくれていました。親戚は飲食店経営や水道工事業などの自営ばかりで、サラリーマンは一人もいませんでした。小田原は小さな街。母子家庭で育った私は周囲から「鎌田君は勉強ができない子」と思われていたと思います。友達の家に遊びに行っても、私だけ成績のことを聞かれなかったり、学校の先生の態度も、ほかの子どもに対するものとは明らかに違うことがありました。今だったら大問題になるような体罰も受けましたね。もっとも、お調子者だった私の悪戯がすぎたという理由があるんですけれども。ほかのクラスのかわいい女の子が教室内を歩いている時、足を引っかけて思いっきり転ばせてしまうといった悪ふざけをした時は、何度も往復ビンタされましたよ(笑)。そんな私ですが、学校ではそれなりに人気者だったんじゃないかと思います。

 中学2年の時、東京の港区三田に引っ越しました。母は、片田舎の小田原にいつまでも閉じこもっていたら、私が埋没すると考えたようです。「教育上の考えがあった」なんて言っていましたけれど、真意のほどはよくわかりません。もっとも、母にとっては仕事先が近くなるというメリットもあったからだと思いますが。私にとっては、郊外からいきなり東京のど真ん中ですから、そのギャップたるや激しいものがありました。その中学校には、普通に外国人が通っていましたし、やけに勉強ができる生徒がいたり、やけに皆シラケていたり。小田原では、授業中は何でも手を挙げて発言することが奨励されていましたが、こちらではそんなことすると「カッコ悪い」と思われます。何もかもが正反対な世界に来たと思っていました。

 また、藤沢生まれのスマップの中居正広くんがテレビでよく「○○だべ?」と言っているように、藤沢あたりから小田原にかけての湘南地域にはそういう方言があるんです。私が東京の中学でそんな方言を使うと変な目で見られた覚えがあります。そのせいか、普通に話すことも恥ずかしい感じがしていたんですよ。日々のコミュニケーションにも、ストレスを感じていたと思いますね。高校は「もう都会は嫌だ」と思って、同じ学区内でも幾分マイナーな品川区にある小山台高校に進学しました。もっとも、入学してみて、港区と大して変わらないことがわかりましたけど(笑)。

<鎌田和彦をつくったルーツ2>
危機感をバネに慶應義塾大学へ。
学生ベンチャーに没頭しビジネスの基本を体得

 高校時代はそんなにきらびやかなものではありませんでしたが、普通に友達もいて、それなりに楽しく過ごしました。ほぼ全員が大学を目指す学校でしたが、私も3年になって受験勉強に没頭しました。いい大学に入らないとヤバいという危機意識のようなものがあったと思います。子ども時代の母子家庭のコンプレックスや、周囲の“期待のない”目線に対して「なにくそ!」と思う反発心がありました。そして、慶應義塾大学文学部に現役合格。文学部を選んだのは、当時は社会学者になって大学教授の道を目指そうと思っていたからです。親戚に会社員が一人もいなかったし、人から何か命令されることが嫌いでしたから、普通の会社員が務まるとは思っていませんでした。また、港区三田にあった家から近い慶應に入学したのは、後で考えれば大正解。毎日、学生ベンチャーの仕事に精を出していても、何とか落第せず卒業できたのは、家から近かったことも大きかったと思うからです。

 大学時代の3年半、イベント企画を手がける学生ベンチャー企業で働きました。その会社は常に若い血を求めていて、後で共にインテリジェンスを創業することになる宇野康秀さんが一足先に加わっていて、彼が自分の携わるプロジェクトのメンバーを探していたのです。宇野さんと私の共通の友人から誘われたことがきっかけで、私も参加することにしました。怪しい世界という感じもしましたが、友人から「これが今カッコいいんだよ」と言われ、「女の子にモテるなら」ぐらいの軽い気持ちだったと思います。時代はバブルでしたから、消費材メーカーを中心に学生向けのイベントが盛んでした。そこに目を付けた先輩たちが電通などの広告代理店からイベント企画の仕事を請け負っていたんです。

 私も食品会社の新製品キャンペーンや、鈴鹿サーキットで開催されたF1レースでのブース設営など、いろいろなイベント企画を手がけました。当時の最先端通信ツールであるポケベルを持たされて、授業中もよくピーピー鳴って「お前はヤクザか」と友人に言われたりしました(笑)。その学生ベンチャーは体育会系的な上下関係があり、理不尽な不条理がまかりとおっていましたが、何が起きても驚かなくなったという貴重な経験はできたと思います(笑)。また、売り上げから原価や経費を引いていくら儲かるか、といった商売の基本や、「入り銭は早く、出銭は遅く」といったキャッシュフロー経営の要諦を学ぶことができました。そういう意味では、本物のインターン体験ができたと思います。また、「自分には才能がある。独立してもやっていける」という“よき誤解”も生まれ、その後の独立につながったと思います。ビジネスの基本を身につけるとともに、将来を切り拓くうえでも貴重な時間だったと思いますね。

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