第158回 株式会社コマースゲート 代表取締役社長 井上 裕基 2

10年後のグループ年商2000億円を本気で目指す!
世界で一番頼られる“ワクワク創出”企業へ

モバイル、PC、紙媒体、そしてテレビ――メディアミックスの垂直統合を完成させ、最適な広告を投下。そこに、仮想検証サイクルのスピードと高い精度のCRMで、ニーズを持つ顧客との堅固な関係性を構築。これら同業他社にはまねできないオリジナルの戦略立案および実行が奏功し、コマースゲートが自社製造した看板商品(サプリメント)は約3年で累計200万個も売れた。前期の年商17.4億円、今期の目標はなんと50億円。そんな急成長を続ける株式会社コマースゲートの指揮官が、井上裕基氏である。「世界で一番ワクワクしている社員たちと一緒に、世界で一番ワクワクする商品・サービスを世の中に提供していく。その思いは当社の規模がどんなに大きくなったとしても、ずっと揺るがないと思います」。今回はそんな井上氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<井上裕基をつくったルーツ1>
運動神経がよくケンカも強いガキ大将。
昔から、やりたいことしかやらないタイプ

 祖父は京都の呉服問屋の丁稚奉公から大番頭に出世した後、自分で呉服店を開いた起業家です。父はもともと大手制御機器メーカーでシステムに携っていました。会社員を退職した父は家業の呉服店を継ぎ、今も二条城近くで経営を続けています。ただ、呉服業界は年々市場規模が縮小しており、父は昔取った杵柄で、商売にITでの事業リノベーションを提案するビジネスも展開。売り上げは、呉服店よりもこちらのほうが断然高いそうです。私は、兄と妹に挟まれた、三人きょうだいの次男。幼稚園の頃からガキ大将で、運動神経がよくケンカも強かった。正直、今から考えますと調子に乗っていたと思います。昔は、やりたいことしかやらないタイプでした。意に反することをしていると、ストレスが溜まる性質だったんです。通知表は、5段階評価で体育だけが5、あとはほとんど3だった記憶があります。でも、先生は「やればできる」と言ってくれていました。教育上そのように言ってくれたのだと思いますが、精神的には意外と救われていました(笑)。

 小学1年の頃、「こいつはすごい」と感じた同級生の親友がいました。体の大きな5年や6年の上級生たちからケンカを売られても、まったくひるまずかかっていく。誰もがびびってできないことを、平気でやってのけてしまう。まさに、「千万人といえども我ゆかん」。生まれながらのカリスマっているんですよね。その親友に憧れたわけではないですが、「こいつには絶対に負けられない」という強い刺激をもらいました。小学校3年から、硬式野球を始めました。最初は楽しくやっていましたが、野球って先輩後輩の関係がきついじゃないですか。私はたった1年早く生まれたというだけで先輩風を吹かす上級生に対してあまり納得をしていませんでした。自分としてはあまり上下関係なく普通に接していたつもりだったんですが、先輩たちには生意気に見えたんでしょうね。ある日突然、大人数の先輩たちに囲まれてぼこぼこにされました(笑)。その時、年功序列ではなく、実力主義のほうが自分には合っていると心に刻まれた気がします。

 野球をやっていた時に、練習メニューのなかで、走っている時が一番楽しいことに気づいたんですよ。だから、中学では陸上部に入部して、800mの中距離を選択。日々楽しくすごしていましたが、あまりにも普通の自分に、だんだん危機感を覚えるように……。それで、自分を追い込まないといけないと思い立ち、偏差値の高い進学校へ行くための受験勉強を始めました。結果、授業料半額の特待生待遇で、私立花園高校に合格。陸上部の門を叩きましたが、中距離種目はやってないことがわかり、そのまま帰宅部に。仲間と3on3のバスケをやったり、女の子と遊んだり。あと時間を見つけては、好きな本を読みあさる日々。すると、あっという間に高校3年になり、大学受験の時期が訪れた。父から「このままでは、どこも受からないぞ」と言われ、夏頃からやっと本気モードになりました。それからは、自分で立てたスケジュールにまったく負けることなく、一心不乱に受験勉強を続けました。

<井上裕基をつくったルーツ2>
「そもそも自分が生きている意味とは何なのか」。
就活前の徹底的な自己分析でその答えに出会う

 できるだけ、親に金銭的な負担をかけないよう、第一志望は国立大学でした。世の森羅万象は、数式と言葉で定義づけられるじゃないですか。なぜそれが起きるのか? そういう本質的なことを考える癖が昔からありました。なので、物理と国語が得意科目だったんです。ただし、苦手な英語が足を引っ張って、センター試験は残念な結果に……。浪人は親に負担をかけるし、時間ももったいないと思っていましたから、現役で行ける大学に入ろうと考え、結果、合格した立命館大学の理工学部に進学しました。また、就職は自分の一生を左右するくらい大事だと考えていたので、就活が始まる3年生になるまでは好きなことに時間を使おうと。バーテンダーのバイトをする傍ら、夏はサーフィン、冬はスノーボードを楽しんでいました。そのバーのバイトに1歳年上の先輩がいたんですが、彼は、めちゃくちゃ頑張る熱い男だった。大学が同じということもあったのか、私は彼に気に入られ、大事な仕事を任せてもらうようになりました。

 彼は、本気で世界的な建築家になることを夢見ていて、バイトが深夜に及んでも大学の授業にはしっかり出る。おまけに、いろんなコンペに作品を出品して、入賞を果たす。私から見れば、いったいいつ寝ているのかと驚くくらい。そんな彼が、まるで赤ペン先生のように、手取り足取り、私のバイト仕事の指導をしてくれた。明確な夢があれば、人間どこまでも頑張れる。そんな人生の成功哲学を実地で教えてくれた彼のことを尊敬していましたし、ある意味、私を覚醒させてくれた人だったと思っています。そして、大学3年生になり、就活を始める際、「そもそも自分が生きている意味とは何なのか」を、徹底的に自己分析することからスタートしました。時間をかけて突き詰めていった結果、ワクワクできるような大きなことを成し遂げたい、それも世界史の教科書に名前が残るような――。そんな“志”がかたちになっていったのです。

 もうひとつ、徹底的な自己分析をするなかで思い出したシーンがあります。幼少の頃、父が運転する車に乗っていて、信号待ちをしていた時のことです。「この信号のシステムは、お父さんがつくったんだよ」と父が私に言ったんです。その時、私は、父が仕事で成し遂げたことに感銘し、衝撃を受けました。そして、子ども心に思ったんです。「いつか自分も父親になったら、子どもに自慢できるような、社会に貢献できるインフラを残すような価値の高い仕事をしたい」。私が就活をした1996、1997年当時は、まだITビジネスの萌芽が出始めの頃です。まだまだ先達が少ないITマーケットなら、若者の自分にとっても大きなチャンスが残されている。また、自分なりに未来の社会を予想した時に、ITが世界を変えるということを確信しました。そうやって必死に自分の進むべき道を模索していった結果、「まずは世界ナンバーワンのIT企業に就職する」という選択肢が見えてきました。

お気に召したらシェアおねがいします