第152回 株式会社ピーカチ 代表取締役 CEO 船橋 憲敏2

広島発! 店舗向けケータイ販促のパイオニア。
全国1億3000人をターゲットに頂点を目指す!

独自で開発したケータイ販促サービスP+KACHIシステムを進化させながら、クライアントとユーザーの笑顔を想像し続ける――。株式会社ピーカチの代表を務める船橋憲敏氏は、最強の相棒であり副社長の西林厳史氏とともに、ピーカチを歴史に名を残す商品として育てたいと本気で考えている。2002年、二人は出会い、2006年、株式会社ピーカチの歴史は本格的に幕を開けた。あれから10年経った2012年現在、ピーカチはどのような進化を遂げたのか――。「今、導入社数は750社、導入店舗数が1500店、利用ユーザー数は250万人を超えました。僕たちにやれること、求められていること、お客さまの声にしっかりと応えながら、これからも、ピーカチの名前を歴史に残すため、事業の進化を継続させるだけです」。今回はそんな船橋氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<船橋憲敏をつくったルーツ1>
広島に生まれ、両親の愛あふれる家庭で育つ。
中学からは不良の道と、バンド活動に突入

 僕は、ひとりっこなんです。「そんなふうには見えない!」とよく言われますが(笑)。建設会社に勤める厳格な父と、自宅でお好み焼屋を開いてしまうような明るい母、そんなふたりの両親を持ち、広島県で育ちました。小さな頃からずっと、やんちゃなガキ大将ですね。中学に上がってタバコは当然、バイクも乗り回すようになり、高校では金髪のアフロヘア。そんな私でしたが、両親は買い物でも、食事でも、外出する時はいつも一緒に出かけてくれました。今思っても、家族に愛されていたんだなあと。ちなみに、憲敏という名前は、おじいちゃんが付けてくれたもの。僕が1歳になる前に亡くなってしまったのですが、おじいちゃんから両親への遺言は、「憲敏は周りを幸せにする人間になる。だから、おまえたちはこの子を大事に育ててくれ」だったそうです。

 小学校4年まで成績は、体育の「良い」以外はだいたい「普通」。それががらりと変わるのは、5年の担任の先生のおかげです。「あなたは知能指数が高いのだから」など、上手にほめてくれた。それから勉強が楽しくなって、すぐに全教科が「良い」に変った――。知能指数云々は置いておいて、自分で言うのも何ですが、要領もよかったし、テストの一夜漬けもかなり得意でしたから。何にせよ、あの担任の先生は僕に素敵な魔法をかけてくれた、素晴らしい先生でした。そのまま学区内の公立中学に行くつもりだった6年の時、クラスの一人が私立を受験すると聞いて、僕もなぜだか行きたくなった。夏休みから勉強を始めて、広島のトップ2校を受けたのですが、これはさすがに不合格。で、中学からは不良の道へ(笑)。

 進んだ公立中学は、けっこう風紀が乱れた学校で、自分自身、当時は「ワルいのがかっこいい」と思い込んでましたから、すぐに馴染みました(笑)。自由な時間がほしかったので、部活には入らず、放課後はだいたい学校近くのハンバーガーショップで、友だちとタバコふかしながら、つるんでた。他校とのケンカもよくやりましたね。ただ、生活指導の先生が鬼のように恐ろしい人で、一度捕まったら「そこまでやるか」というくらいボコボコにされる。だから、ワルもそこそこ、見つからない程度のすれすれで(笑)。そして、中3からはまったのが、ギターです。BOØWYが大好きで、ギターの布袋寅泰さんのプレイに引き込まれました。当時は仲間と集まって、遊び程度の練習でしたが、高校に入ってからバンド活動は本格化し始めます。

<船橋憲敏をつくったルーツ2>
バンドリーダーとして、本気でプロを目指す。
夢破れた後に差しだされたカードは、コンビニ店長

 高校は、当時「市内六校」と言われていた、県立広島観音高校へ進学。実は、遊びながらも中学時代、塾にだけは通ってたんです。ただ、先ほども話しましたが、高校生活は、金髪のアフロヘアです(笑)。毎朝、中学からの連れと、喫茶店でモーニングか、スロットで運だめしして、学校へはほとんど足を向けませんでしたね。あとは、月、水、金曜のバンドの練習に明け暮れました。担任の先生がすごくいい人だったんです。「おまえは、やればできる奴だ。周りに迷惑をかけなければ、大目に見てやる」と。そこまで目立っていたのは、校内で自分一人だけでしたから。僕がリーダーを務めていたバンドは、自分で言うのも何ですが、オリジナルの曲、プレイスタイルもけっこうイケていて、200人ほどのファンもついていました。この頃は、本気でプロを目指していたんですよ。

 定期的に月に一度は、地元でワンマンライブもやってました。ライブハウスでスポットライトを浴びて演奏すると、ファンの子たちが、僕らの歌を口ずさんでくれる。それがすごく、気持ちよかった。フィードバックというバンドを組んでからは、コンテストにも出始めて、何度か全国大会にも駒を進めました。全国に行くと、やはりすごいやつがいます。県内の高校レベルなら、一番になれる。しかし、これからプロも含め、全国レベルのバンドと競って、一番になれるのか? ある程度はいける、が、突き抜けるパンチに欠ける……。バンド活動はすごく楽しかったし、リーダーとして仲間を仕切り、ビジョンを示す役割にもやりがいを感じていました。でも、僕が出した結論は、「負けレースは続けられない。ここで解散」でした。その後は、みんな別々の道に進みましたが、松ヶ下宏之(Bluem of Youth)という天才が、今も音楽の第一線で活躍しています。

 中学時代の同級生の父親が、広島で手広くビジネスをやっていましてね。辻さんという人生の恩師となる方なのですが、「新しくコンビニをやることになったので、経営の勉強をしてみないか」と声をかけてくれたんです。僕が学校にも行かず、ふらふらしていることを伝え聞いたらしい(笑)。「経営の勉強」という言葉に、感銘を受けた僕は、その申し出を快諾。それから高校3年生の僕は、24時間営業のコンビニで店長を任され、働き始めました。夕方6時から0時頃まで店に立ち、深夜に発注業務をこなし、その後、学校へ行くのですが、1時間目から6時間目までずっと睡眠を確保する時間(笑)。ただ、頑張れば頑張るほど、売り上げが上がる。昨日の努力の結果が今日わかる。僕が経営の面白さに開眼したのは18歳でした。

お気に召したらシェアおねがいします