第150回 株式会社ペルソン 代表取締役社長 渡邊 陽一

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執筆者: ドリームゲート事務局

第150回
株式会社ペルソン
代表取締役社長
渡邊 陽一 Yoichi Watanabe

1967年、東京都生まれ。都立九段高等学校から、明治学院大学経済学部商学科に進学。大学2年で、自らイベントサークルを立ち上げ、1000人規模のイベント、大型スキーツアーなどを成功させる。1992年に大学を卒業し、報知新聞社へ入社。広告部にて勤務する。2年間の勤務後、衝動的に退職届を提出。数カ月のニート生活に突入。1994年、知り合いの紹介でベンチャー企業の取締役となるが、社長の放漫経営により、1年後にあえなく倒産。その倒産処理に尽力した。1995年、広告代理業、モデルプロダクション、スポーツマネジメントを扱う、ぺルソン・アンド・ぺルソン・エンターティンメント有限会社を起業。1997年に株式会社ペルソンに組織変更。2000年6月、講演講師依頼受付サイト「講演依頼.com」(kouenirai.com)の運営開始。「価値観の伝達」を企業理念とする。2012年7月現在、登録講師数5000名強、年間講演成約数3000本。同業界のパイオニアとして、ナンバーワンのポジションを堅持し続けている。

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ライフスタイル

好きな食べ物
餃子です。

餃子が大好きなんですよ(笑)。毎日食べても飽きませんね。お酒はけっこう飲むほうだと思います。何でも好きですが、最近はウィスキー「白州12年」に凝っています。

趣味
読書です。

小説、歴史物、人物などノンフィクション、自己啓発本など、ジャンルを問わず読みあさっています。夜の就寝前の時間を使って読むことが多いですね。

行ってみたい場所
台湾原住民エリアです。

先日、台湾に行って、原住民の方々が暮らすエリアがあることを知りました。彼らとコミュニケーションをしたい。私たちが忘れてしまった大事な物事を、教えてくれると思うのです。

登録講師数5000人強、年間講演成約数3000本!
インターネットNo.1の講演講師派遣サイト

人気の新聞社を2年で退職して、ニート生活へ……。その後に転職したベンチャー企業で取締役となるが、社長の放漫経営により入社1年後に倒産……。その後に立ち上げた会社も5年間は低迷飛行を続けた……。そんな遠回りの果てに、株式会社ペルソンの代表、渡邊陽一は、自分の使命ともいえる仕事と出合うことになる。それが、講師派遣ナンバーワンサイト「講演依頼.com」の運営だ。「人は人との出会いによって、変わることができる。“価値観の伝達”が当社の理念です。そして、当社の理念を世の中に広く知らしめていくことが、私に与えられた使命であると思っています」。今回はそんな渡邊氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<渡邊陽一をつくったルーツ1>
引っ込み思案の肥満児だった小学生時代。
中学で変身し、人生がどんどん楽しくなる

実家は、東京の九段下と飯田橋に隣接する、千代田区富士見町です。この街で、父は曽祖父が立ち上げた、精肉店を営んでいました。のれん分けを4店と、最盛期には新橋で洋食レストランも。忙しい商売を母も手伝っていたので、両親ともに子どもの世話までなかなか手が回りません。ほぼ、放任主義だったと思います。そんな商売人の家庭で育った私は、男ばかり4人兄弟の長男坊。本当は女の子がほしかったそうですが、残念ながら(笑)。ちなみに、母はおおらかな家庭に育ったお嬢さんでした。そんな女性が商売人の家に嫁いだわけで、周囲にたくさん気を使うわけです。どちらかというと、母親っ子だった私は、母の影響か、物心ついた時には、気が小さくて、引っ込み思案の少年になっていました。

友だちもたくさんいましたし、子どもらしいいろんな夢も持っていました。でも、チャレンジしても、たぶんダメだろうな……と、いつもネガティブに考えてしまう。そんな自分が、あまり好きではありませんでした。おまけに、私はかなりの肥満児だったのです。小学校6年生の時の身長が160センチで、体重がなんと82キロ! 今の自分からは、考えられない体型です(笑)。太っていることも、ネガティブな心に輪をかけた大きなコンプレックスとなって、ますますチャレンジできなくなる、前向きになれなくなる……。だから私は、何らかのコンプレックスを持った人が、やりたいことを制限してしまう気持ちがよくわかるのです。もったいないですよね。

成績も中の下、足も速くない、女の子にもモテない……。もちろん、幾度か減量にも取り組みましたが、なかなかうまくいきません。そんな私でしたが、中学2年の時に、大きな転機が訪れるのです。ひどい風邪をひいて、3日3晩、何も食べられない状態に。風邪が治り、体重計に乗ってみると、なんと5キロも体重が減っていた――。これぞチャンスとばかりに、本気モードで減量に取り組みました。胃も小さくなっていたのでしょう。それから面白いほど体重が減り続け、おまけに背も伸びまして(笑)。気づいた時には、身長170センチ、体重は60キロに! 大きなコンプレックスが消え去ったわけです。自分でも理由はわかりませんが、私の人生、何度かこのようなラッキーな“導き”が訪れるのです。

<渡邊陽一をつくったルーツ2>
自由な校風の名門都立高校で青春を謳歌。
2浪を経て、考えることの楽しさに開眼

大きなつっかえ棒がなくなった感覚です。自分に自信がつきましたし、着たかった洋服も買えるようになった。初めて女の子から告白されたのもこの頃です。本気で、驚きましたよ(笑)。見かけって、やっぱり大切なんだということ。自信がつけば、自分の行動がポジティブに変わっていくということ。減量は自分との戦いでしたが、それに打ち勝ったことが、心を一回り大きくしてくれたのだと思います。するとおかしなもので、勉強することも楽しくなって、成績がどんどん上がっていったのです。僕にとっては、人生のすべてが好転し始めたタイミングが中2でした。結果、当時の学区の中で第一志望だった、都立九段高校に合格。楽しい高校生活が始まりました。

高校では、硬式テニス部に入部しました。あとは、ファストフード店でバイトして、当時、流行っていたデザイナーズブランドの洋服を買ったり、仲良しの友だちと繁華街で遊んだり。勉強も、暗記科目が得意だったので、途中まではそこそこついていけて。ただただ、好きなことをしながら漠然と生きている、そんな毎日でした。当時の九段高校は、私服可、校則なし、だけど自由はある。そんな雰囲気の高校で、本当に楽しかったですよ。ですが、そこを履き違えてしまって、落ちこぼれていく生徒も多かった。自由には責任が伴うわけです。私の場合は、何とかギリギリの線で、そこまでは落ちず、高校3年の大学受験シーズンがやってきました。

絶対に行きたい大学、学部があるでもなく、周りが受験するから自分も。そんな感じです。とりあえず、早稲田大や明治大の赤本を買って、眺めはしましたが、「1浪まではありだよな」とまあ、そんなお気楽さでしたから。で、結局、現役のタイミングで受けた大学は、当然ですが、すべて不合格。そして、なんと、翌年の受験も、全滅でした……。この時、私は不覚にも大泣きしてしまうのです。でも、悲しくて泣いていない自分がいた。では、なぜ泣いているのか、自分に問うてみると、親に同情してもらうために泣いていたんです。行動と本心が分離している……。自らの行動を自ら考えた結果、本当の自分を見つけた。これも不思議なのですが、そこから、考えることが楽しくなってきたのです(笑)。

<華やかな大学時代>
自ら立ち上げたイベントサークルが急拡大。
バブル期の東京の遊びの世界を堪能する

3回目の受験準備に入る前に、同級生たちを分析してみました。現役で六大学クラスの大学に合格した奴、1浪で合格した奴。それらの多くは、いわゆる“考えている奴”だった。人から言われたからする、与えられた事象を暗記する、ではなく、自ら考えて動き方を決めるタイプの人間ばかりだったんですよ。一方の私は、典型的な暗記型人間。その分析結果を踏まえて、どんな勉強にも「なぜそうなのか?」を取り入れてみました。そしたら、それまでとは打って変わって、受験勉強が楽しくなったんです。自分でも不思議なくらい(笑)。それに伴って、偏差値がぐんぐん上がり、その年の前半に、早稲田大の合格ラインを突破。でも、これはいける!と踏んだ瞬間に、手を抜き始めるんですよ(笑)。

もう大丈夫と、先に大学に行った友だちと飲み歩いたり、上手くならないことを理由に高2でやめたテニスを始めたり。考えながらテニスをするでしょう、そうしたらこれもぐんぐん上達して楽しくなっちゃって(笑)。結果、最後の詰めが甘かった。でも、いくつか合格した大学の中から、明治学院大学を選び、待ちに待った2年越しの大学生生活がやっと幕を開けてくれました。受験勉強から解放されたこともあり、もう楽しくて仕方なかったですね。1年目は、入部したテニスサークルにパーティイベントを仕切っている先輩がいて、その手伝いをしていました。そして、そのノウハウを学んで、大学2年、「クラブスミス」というサークルを自分で立ち上げます。

バブルの時流にもうまく乗ったのでしょう。インターカレッジで展開する「クラブスミス」は、すぐに1000人規模の大学生が参加する一大イベントサークルになりました。複数のディスコを借り切って、ダンスパーティを主催したり、冬は大規模スキーツアーを組んで旅行したり。多い時は、月300万円ほどの売り上げが挙がっていたと思います。でも、取りっぱぐれもあったし、経理も適当でしたから、我々主催者はそれほど儲からないんですけどね(笑)。ただただ、バブル景気にわく東京の遊びのうねりの中で、たくさんの友だちと一緒に毎日を楽しくすごせたこと、それはいい思い出です。で、そんな活動をしていると、先に就職した友人から、「おまえがやってることって、広告代理店と一緒だな」と言われたんですよ。はい、就職すべき業界もそこに決めていました。

<紆余曲折の日々>
せっかく入社した新聞社を辞め、ニート生活へ。
転職するも、社長の放漫経営で倒産処理に奔走

大学3年の終わりに、「クラブスミス」の代表を後輩に引き継ぎました。でも、うまくいかなくなった。事業承継と同じですね。後継者をしっかり育てて、あとは最高のタイミングで譲らないと。今になれば、よくわかります。さて、就職活動に話を戻しますが、広告代理店の大手、電通、博報堂から順番に面接をこなしましたが、ことごとく落とされてしまうんです。で、また、不思議な話になるんですが、「就職浪人もアリか」と考えていたある日、自宅で新聞を手にした弟が「お兄ちゃん、広告部員募集って広告が出てるよ」と。その瞬間、私には、その会社に行くことがわかってしまったんですよ。その予想どおり、試験も面接もスムーズにクリアし、私は報知新聞社の広告部に就職することが決まりました。もしも、実家が報知新聞を取っていなかったら、どうなっていたんでしょうね(笑)。

報知新聞社では、当時スタートしたばかりのJリーグ・スポンサー企業の担当となって、どんどん仕事を獲得することができました。それで、自分は仕事ができると勘違いしてしまった。大学生の頃、イベントサークルを回していたでしょう。そんな活動をしていると、羽振りのいい若手起業家たちと知り合いになるんです。高級車を乗り回す、彼らへの憧れもありました。で、自分の心に聞いてみると「早く金持ちになりたい」と言う。焦っていたんだと思います。勤務2年目で、私は衝動的に会社を退職してしまうんです。でも、何をしたいのかまったくわかりません。それからの数カ月は、貯金を食いつぶしながら、俳優になろうと考えてみたり、新宿の占いバーに通ってみたり(笑)。もう、ニート以外の何者でもなかった。で、貯金が底をついて、結局、小さな広告代理店に再就職……。

ちょうどその頃、予備校時代からの友人、N君が、建設系のベンチャー企業で働いていましてね。そこの社長から、「広告展示会部門の責任者になってほしい」とヘッドハントされたんです。「取締役への登用も考えている」と言われ、悩みましたがその話に乗ることに。でも、入社してみたら、これがずさんな経営をしている会社でして。私が入社して1年くらいで、あえなく倒産してしまうんです。火中の栗を拾うとはこのことです。当事者の社長は茫然自失で使い物にならなくなり、結局、取締役になっていた私が、弁護士と一緒にさまざまな残務処理、債権処理に奔走しました。逃げ出したい恐怖に駆られる日々でしたが、何とか最後の最後まで会社の整理を取り仕切ることができた。この時の踏ん張りは、その後の自分の大きな自信になりましたし、あるビジネス界のルールを教えてくれた、得難い経験でもあったのです。

●次週、「IT化による講演依頼システムを立ち上げ、“価値観の伝達”で社会貢献!」の後編へ続く→→

変わりたい人を変えられる「価値観の伝達」事業。
天から与えられた使命と信じ、この道を拓き続ける

<地獄のような日々>
社長にはなったが、休日には資金繰りのバイトも。
著名経営者の講演がきっかけで金脈にたどり着く

債権処理がすべて終わって、最後に残ったお金の何割かは、まず社員に分配されます。弁護士の先生曰く、「君にも少しだが」と、分配金を渡してくれました。制度的なくぎりは確かに就けましたが、私にはどうしても、返したいお金があった。それは、いろいろと無理を聞いてお手伝いいただいていたある業者さんへの未払い代金です。忘れもしない、19万1200円を持って、その会社を訪ねました。するとそこの社長は、すごく喜んでくれまして、「おまえは信頼できる。おまえが商売を始める時は、俺が資金を出す」と言ってくれたのです。結局、すっからかんにはなりましたが、信頼、信用がお金を生むことを教えてくれた、この倒産処理の苦行は、その後の私にとって貴重な勉強の機会でもあったのです。

もう雇われの身には戻りたくありませんでした。それで1995年、前出の友人のN君と一緒に、会社を立ち上げて、広告代理業、モデルプロダクションなどを始めたんですよ。食うだけなら何をやっても、生き延びていく自信はありました。でも、資金繰りに困ると、休日、知り合いの塗装屋でバイトしたり(笑)。カラ元気で笑顔を絶やさぬようしていましたが、心はいつだって泣いていました。「俺はいったい何をやってるんだ? 金を稼ぐだけなら、携帯電話売ってるそこらへんの兄ちゃんとかわらないじゃないか……」と。商売の本質って何だ? そう悩んでいた頃、ある著名経営者の講演を聞きに行ったんですよ。彼の人としてのオーラに圧倒され、話の内容に感銘を受けた私は、以来、何度もその方の会社に押しかけ、いろんな教えをいただきました。中でも当時の私にズシンときたのは、「起業家の本質は理屈抜きで毎年毎年、売り上げを伸ばし続けること。志よりも先に、時流に乗ることを考えなければならない」という言葉でした。

確かに、大学時代の私は、バブル景気の時流に乗って、たくさんのお金を集めていた(起業でいう売り上げ)。これからの時流は何だ? 当時は1999年、インターネットが人々の暮らしの中に浸透し始めていました。すぐに、インターネットの事業へのシフトを決め、ホームページ制作の請負事業をスタート。また、売り上げを伸ばしている起業家を分析してみると、多くが自社商品を持っています。オリジナルの商品がほしい――そう考えていた時、あることに閃いたのです。その頃、プロトライアスリートの山本光宏選手のマネジメントも手がけていました。主には、彼のスポンサーマネジメントが業務だったのですが、「大けがを克服して復活し、再度優勝を遂げた山本さんの体験談を話してほしい」といった講演依頼が、さまざまなルートを介して、うちに届いていたんですよ。インターネットと講演、これだ! 自分の中では、まさに大きな金脈を掘り当てた瞬間でした。

<使命との出合い>
インターネットによる講師情報の提供を開始。
今では同分野ナンバーワンの一大メディアに

山本光宏さんへ講師の依頼をいただいた、研修コンサルタントの方がいます。その方に初めて会い、講師派遣の仕事をされていると聞いた時に、「へ~、こんな仕事が世の中にあるのか」と、驚いたことを覚えています。また、私自身、「時流にのることだ」という貴重な教えをいただいた著名経営者とも、講演での出会いがきっかけでした。いろんなルートで著名人に講演の依頼が届くことも調べる中で知りましたが、インターネットを活用して、そのルートを一本化すれば、講師も、講師を探している人も、機会ロスが減りますし、手間が省けることは明白です。もうひとつ、私はインターネット事業にシフトする中で、あるスポンサー支援サイトの構築を計画していました。そのサービスの詳細を説明する際に、顧客から「説明が長い!」と苦情を言われていたんですね(笑)。だから、サービス名を聞いただけで、その内容がわかる商品にしなければと。

数あるネーミング候補から悩みぬいた結果、「講演依頼.com」というサービス名に決定。子どもでもわかる、シンプルな名称ですよね。このビジネスモデルは、登録講師にも、講師を探している人にも、一瞬に理解してもらうことが大事。そういった意味では、我ながら、的を得たネーミングだったと思います(笑)。そして2000年6月、先述した講師コンサルタントの協力も得て、登録講師数約40名で、「講演依頼.com」をカットオーバーさせました。が、半年間くらいは、まったく依頼がありませんでした。その間は、地道に登録講師の開拓を続けながら、ホームページ制作の請け負仕事でしのいでいたのですが、不思議と不安はまったく感じなかったです。このビジネスを成功させる自信がありましたし、これが自分に与えられた使命だと思っていましたから。

忘れもしない、最初にネット経由で届いたオーダーは、マサカリ投法で有名な伝説のピッチャー、村田兆治さんへの講演依頼でした。あれからもう12年の歳月が流れたわけですが、「講演依頼.com」のビジネスは、3年目に黒字ベースに乗り、これまでずっと堅調な成長を続けています。振り返って考えますと、1995年に徒手空拳の状態で会社を設立し、2000年に「講演依頼.com」を立ち上げるまでの5年間は、自分にとって正直、地獄のような日々でした。2000年までの自分は、「早く金持ちになりたい」と考える、野望の塊のような人間だったと思います。でも、2000年以降の自分を自己分析すると、その欲望のことをいっさい忘れ、まさに無欲で活動してきたんですね。その結果が、私たちに協力してくれている登録講師数5000名強であり、年間約3000本の講演成約数というわけです。

<未来へ~ぺルソンが目指すもの>
人は人との出会いによって変わることができる。
「価値観の伝達」を多様なかたちで提供し続ける

人は人との出会いによって、変わることができる。「価値観の伝達」が当社の理念です。そして、当社の理念を世の中に広く知らしめていくことが、私に与えられた使命であると思っています。今、当社は25人の陣容で、全員が当社の理念をしっかり理解して動いてくれています。「講演依頼.com」は、ITビジネスでもありますが、実際は、人と人のつながりの深さが一番大切なのです。特に登録講師の方々との信頼関係を重要視しています。講師を探している顧客が求めている成果をしっかり聞く、そのためにふさわしい登録講師は誰か提案し、どんな話をしてもらえればいいのか、講師と一緒になって必死で考える。それらの活動が、当社の今後のマーケティングにもつながっています。この仕事は、単なる、紹介業、派遣業ではありません。心と心をかよい合わせる、「価値観の伝達」事業なのです。

2003年頃、戦場カメラマンの渡部陽一さんと出会いました。当時の彼は、まったくといっていいほど収入がなかったのですが、私は「この人には何かがある」と瞬時に思いました。聞けば、彼も明治学院大学の後輩であり、私と同じ名前なんですね(笑)。そんな縁もあって、無名時代から、講師の仕事をお願いしてきたんですよ。今でもいい関係を続けています。先述した、人と人のつながりを大切にするマーケティングが研ぎ澄まされた結果、当社なら無名の講師でも登壇できる。それも、大きな強みの一つ。そして今、講演講師派遣・企画事業を主軸としながら、研修事業、スポーツ教室事業、スポーツ選手などのエージェント事業などへ、業容は広がっています。今後は今以上に、サイト内の登録講師の読み物、インタビュー動画を充実させながら、出版エージェントを手がけるなどして、価値観の伝達メディアとしてのポジションを構築していく予定です。

基本的な事業の流れは、当社専務のマネジメントの下、スタッフがスムーズに回してくれています。今の私に課せられた役割は、表にまだ出てきていない、大きなパワーを持った方々を発掘することです。例えばですが、人間の姿をした宇宙人であっても、実際に素晴らしい価値観を持っているのであれば、何とか協力を取り付けたい、と(笑)。また、このマーケットは、海外でも十分に通用すると確信しており、4月には中国市場をにらんで香港に事業所を開設、上海にも提携会社を確保するなど、その準備を着々と進めています。もうすぐ私は45歳ですが、50歳で年商30億円、60歳で100億円、これが会社として死守すべき最低目標です。IPOに関しては事業承継を考えた時期に考えるでしょうね。リスクをしっかり背負って踏ん張ってくれる、後継者をしっかり育てながら(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自分の心と対話して、素直に行動すること。
起業は志より先に時流に乗ることを考えて

本当は、お金がほしいのに遠慮する人、好きな女の子がいるのに好きだと言えない人、本気じゃないのにボランティアをしている人……。そんな人を見ていると、私はイライラするんですよ。自分の心に素直にならないと、何にも始まらないと思うのです。私も昔はお金持ちになりたいと本気で思っていました。だから、志よりも、時流に乗ることを最優先しました。結果、かなりの紆余曲折を経てしまいましたが(笑)、自分の使命ともいえる、この事業にめぐり合うことができました。もちろん今でも、常に売り上げを伸ばすことが、起業家の役目と信じています。そのうえで、どんな社会貢献ができるのか、その順番で考えていいのです。

ちなみに、東日本震災後、自分たちにできることを真剣に考えた時、私は経営者として、いつもどおり会社の業務に専念することを社員たちに告げました。何でもそうですが、周りやほかの誰かがやっているからではなく、自分で考えたことを、素直に行動に移すことが大事。そして、そこに情熱をかけて取り組めば、失敗するかもしれませんが、絶対に後悔はしないはずです。会社というものは、体裁でなくて中身で勝負するもの。だから、金もないのにいいビルに入居したり、秘書を雇ってみたり、そんなのは最初から失敗に向かって進むようなもの。私自身、成長できたと実感できたのは、誰かのもの真似や体裁を捨て去ってからでしたしね。

家族も同じなのですが、チームをうまく運営するためには遠慮は禁物です。家長として、妻や子どもと衝突しても、とことん話し合う。そして、解決に導く。会社経営も同じです。考えたこと、思ったことは、遠慮せず、仲間ととことん話し合うこと。そのためには、会社の中で誰よりも、会社のことを考えていないといけません。毎日、財務諸表、資金繰り表を見て、お金のことを考えることは当然。経営者仲間との会食、家族旅行に出かけても、常に事業と結び付けて考え、洋服を買う時であっても、クライアントの意向を気にしながら購入する。そういう意味では、個人的な消費がゼロの生活です(笑)。それがつらくないかと聞かれると、大変は大変ですが、私はものすごくハッピーと答えられます。最後に一言だけ。自分の心に素直になって、やりたいことがあるならやる。例えば、50歳で起業して、70歳の成功を目指してもいいじゃないですか。後悔を残す人生だけは、絶対に送らないでほしいと思います。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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