第143回 241 CO.(有限会社ニイヨンイチ) 代表取締役 藤井英一

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執筆者: ドリームゲート事務局

第143回 241 CO.(有限会社ニイヨンイチ) 代表取締役
藤井英一 Eiichi Fujii

1964年、岡山県生まれ。“デニムの聖地”と呼ばれる、倉敷市・児島で生まれ育つ。中学2年から現状の自分への不満を爆発させ、急速に不良少年化するが、地元一の進学校に進学。桃山学院大学経営学部卒業後、洋服の卸問屋へ就職するが、組織の水が合わず、1年で退職。その後、個人商店の経営などを経て、学生服メーカーに再就職。メンズカジュアルの新規事業部を立ち上げ、年商3億円のビジネスに育てる。1994年、その会社を退職し、独立。3年間の苦難の時期を乗り越え、大阪のセレクトショップのオリジナルブランド立ち上げのチャンスを得る。このビジネスが大成功し、セレクトショップのインディーズブームを巻き起こした。1997年に、有限会社ニイヨンイチを設立し、法人化。デニム製造技術の集積地・児島のインフラをフル活用し、またたく間に、日本でもトップクラスのデニム・OEMメーカーとなる。2006年、新会社、Win&Sonsを設立し、オリジナルブランドの展開をスタート。同社の「DELAY by Win&Sons」がつくるこだわりのジーンズは、数々のメディアに取り上げられ、多くの著名人からも愛されるブランドに成長した。OEMメーカーとしては、国内外約200社、250ブランドの取引先を抱えている。

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ライフスタイル

趣味

ゴルフです。
いろいろありますが、今はゴルフです。週1くらいでラウンドしています。大切にメンテナンスしているクルマで、一人出かけるドライブも大事な時間です。日常で起こったいろんな出来事を、心の中で整理することができるんですよ。あとは、波乗り。昔はけっこうやってたんですが、先週、徳島でロングボードに乗ったら、沖になかなか出られず、ヒーヒー……。とうぶん、やめとこ(笑)。

好きな食べ物

うどんです。
岡山県は、そばよりも、うどんの食文化なんですよ。香川県も近いですしね。だから、好きな食べ物をひとつ挙げろと言われたら、讃岐うどん。お酒はけっこう行ける口です。焼酎が好きですね。好みは、芋です。

行ってみたい場所

南の島です。
南の島で、のんびりしたいですね。ハワイとか。年を取ったら、ハワイにも家を持って、日本と行き来しながら、ビジネスを続けたいと思っています。まあ、その夢は当分お預けですけど。来週は、香港に商談、行ってきます。

お勧めの本

『ユダヤ人大富豪の教え』(大和書房)
著者 本田 健

困難にぶつかった時に創造的なアイデアを出せるかどうか、自分らしい人生を生きることに集中して、お金のことや成功することを忘れられるかどうか、自由人と不自由人で異なる人生のルールを受け止められるかどうか……。そんな心構えのほかにも、セールスの秘訣やスピーチの極意、人脈づくり、お金に関する知識など、成功に必要なノウハウを解説しています。起業家を目指すなら、ぜひ読んでおいてほしい良書です。

いつだって、「日本一になる」ことをあきらめなかった。
衝撃的ともいえるこだわりのジーンズで、世界一を目指す

誰だって聞いたことがある、世界のビッグブランドのデニムを、実はニイヨンイチがつくっている。一本3万円もするデニムブランド「DELAY by Win&Sons」の売れ行きが右肩上がり――。“241 CO.”は、日本国内のブランドはもとより、世界のビッグブランドからも、“こだわりの・ものづくり魂”を認められた、岡山県倉敷市児島に本拠地を構えるベンチャー企業だ。そして、この会社をけん引し、さらなる高みを目指しているアントレプレナーが、藤井英一氏である。「いつだって“絶対に日本一になる”と言い続けてきました。もちろん、国内だけの事業展開に留まるわけではない。日本で世界最高水準の商品をつくって、それをどんどん海外に広げていきます。そして、世界の主要都市すべてに、支社をつくるのが今の夢です」。今回はそんな藤井氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<藤井英一をつくったルーツ1>
中学2年からグレ始め、有名な不良少年に。
それでも、進学したのは地元一の進学高校

 僕の生まれ故郷は、岡山県の倉敷市です。瀬戸内海に面した児島という町で、ここは国産ジーンズ誕生の地であり、今も「ジャパンデニム」の聖地と呼ばれているエリアです。学生服やユニフォームなどの繊維産業も盛んで、父は学生服メーカーの裁断工、母は自宅でそのパーツをミシンで仕上げる内職仕事をしていました。深夜までずっとカタカタというミシンの音が鳴っている家で、僕と妹はその音を聞きながら眠りについたものです。家計は下の上くらいだったのかな。まあ、どっちかというと貧乏でしたよ。でも、家族みんな明るく元気。両親ともにバカ正直な人で、いろんなことに騙されていたんじゃないですかね。でも、バカと呼ばれようが、正直に生きたほうが人生は豊かになる。家訓ではないけれど、そんな思いを大切にしながら暮らしていた家族だったと思います。

 小学生の頃は、奥ゆかしい子どもだったんですよ。たぶん(笑)。お茶目な感じで、いつも友だちにいじられるような存在でした。で、中学に上がってから、バレーボール部に入部したんです。とても厳しい練習を強いられる部で、朝の6時から朝連、放課後も夜の8時まで練習。さらに土日も練習。たまの休みには、両親から勉強しさないと言われる。ある時、そんな自分の生き方に疑問を感じたんですよ。毎日、毎日、同じことの繰り返し。もしも明日死んでしまったら、いったい何のためにこれまで生きてきたのかわからない。そんな閉塞感に苛立ちを覚え、心が爆発してしまったんですね。バレー部は続けながらも、かなり急速に不良少年化。無免許でバイクを乗り回す、やくざ相手にケンカする……。家庭裁判所にも3回くらい行きましたか。もう、そうとうな変わりようで、地元ではかなり有名なやんちゃ坊主になってしまいました。

 ただ、自分には変わったところがあって、高校は地元で一番の進学校に行くことを決めました。本気になれば、俺は何でも児島で一番になれるという、妙な自信があったんですよ。中学の1学年の460人中、80番以内に入れば、その高校に行ける。昨日までは、勉強なんて知りません、そり込みに長ラン姿で暴れ回っていた僕が、またまた周囲が驚くような変わりようで(笑)。8カ月間、まさに死ぬ気になって勉強し続けました。その結果、希望の進学校に合格するんですよ。人間、一人ひとりの性能は違うかもしれないけど、そこは視点を変えればいい。そして、誰よりも時間をかけて、集中して、やることをやれば、絶対に一番になれる。その後の人生も紆余曲折ありましたが、同じように考え、流す時は流す、集中する時は死ぬ気でのめり込む。その繰り返しで、今日まで生きてきました。

<藤井英一をつくったルーツ2>
祖母に話した夢、憧れの伯父、父の事業失敗。
いろんな感情が、起業へと背中を後押しした

 やんちゃから卒業したのは、高2の時です。ある日、僕のある悪事を知った父が激怒して、つかみかかってきた。そこにひじ打ちをくらわしたんです。そうしたら、血みどろになった父が、包丁を持ち出してきて、「英一、おまえを刺してから、俺も死ぬ」と……。そんな父の死ぬ気の本気に、心を打たれてしまったんですよ。それからは、とたんに悪さに身が入らなくなった(笑)。しかし、中2から高2までの期間は、本当に気が狂ったように暴れていました。高校の受験勉強に没頭した、8カ月間以外は(笑)。そういえば、小学校2年の時、祖母から「英一、大きくなったら何になりたい?」と聞かれた私は、「事業で成功して、児島にお城のような家を建てて住む」と答えたそうです。今から11年前、児島に会社の新社屋を建てたんですが、祖母がお祝いに来てくれて、そんな話をしてくれました。自分ではそんな話、まったく覚えていなかったけど、小さな頃から、事業家になりたいと考えていたみたいです。

 伯父が、地元の児島で従業員を100名くらい抱えた会社を経営していて、すごくかっこよかったんですよ。うちはとても小さな家なのに、そんな伯父の家はすごく立派。物心がついた頃には、「ああ、いつかこんな人になりたいなあ」と。そんな憧れを持って、伯父のことを見ていました。すごくこわい人なんですけどね。その伯父から少し前に言われました。「おまえは、もう俺を超えた。もっと大きな目標を持て」と。いや、ものすごくうれしい言葉でしたね。あと、実は僕の父は一度、学生服メーカーの起業に挑戦して失敗しているんですよ。かっこいい伯父のような事業家になりたいと思ったこと、また、父のリベンジのために事業を成功させたいと思ったこと……。それら、小さな頃から僕を取り巻く環境や、憧れ、妬み、悔しさなど、いろんな感情が絡み合って、自然と起業の道を目指すようになったんだと思います。

 大学受験は、高校受験と同じようにはいきませんでした(笑)。とりあえずは、合格したところでいいかと。大阪の桃山学院大学に進学しました。少しだけ仕送りをしてもらって、始まった一人暮らし。誰も知り合いのいない街ですし、何もかもが未経験のことばかりでした。大学の4年間は、居酒屋、引越屋、牛丼の吉野家などなど、バイト三昧でしたね。そうそう、吉野家はバイトのまま夜の部の店長にまで上りつめました(笑)。稼いだお金はいっさい残らなかった。お姉ちゃんをナンパして、遊んでばかりいましたから。それでも、いつか事業家になるという思いは忘れてないんですよ。児島で生まれ育ちましたから、やはりアパレル業界で起業したかったんです。大学の卒論で書いたのが、「問屋無用論」。で、卒業後に就職したのが、洋服の卸問屋だったと(笑)。まあ、とりあえず流通の現場で学ぼうと、岡山の営業支店に配属され、働き始めました。

<スマッシュヒット!>
学生服会社でカジュアル服の新規事業を立ち上る。
ゼロからのスタートで、年商3億円のビジネスへ

 百貨店、スーパー、専門店などに、メンズの洋服を販売するわけです。社内で一番のクライアントを担当させてもらって、売りまくりました。買ってもらえればいいんだろ、くらいの生意気なノリで。ただ、生来のやんちゃ気質がじゃまするんですよ。上司から「どこそこへ行って来い」と言われても、「なんでや! 命令すんな!」と返す(苦笑)。結局、上から命令される組織がまったく性に合わず、約1年で務まらなくなって退社。その後は、個人商店みたいな感じですよ。前職の時にできたコネを使って、Tシャツなどカジュアル服のアウトレット商品を仕入れさせてもらって、売り歩きました。免許の更新を忘れて、車も運転できず、移動は電車とバス。大きなバッグに売り物を詰めて、岡山と広島を中心に営業しましたね。最初は少し売れましたが、どんどんコネと卸商材のネタが尽きてきて……。まあ、これも自主廃業です。その後は、今で言うニート。ひきこもり状態になってしましました。

 朝起きたら、「いいちこ」の一升瓶を飲み始める。昼休みには、父と母が自宅で昼ご飯を食べに帰ってくるので一緒に食べて、夜は頭でっかちになるような、経営本や指南書を読みあさる。そんな生活を半年くらい続けるうちに、このままじゃやばいと。もう一度卸問屋から始めようと、ある会社に勤め始めたのですが、何と、その会社が入社3カ月後に倒産……。ある朝出社したら、債権者会議が開かれていて、びっくりしました(笑)。結局、自分は何がしたいのかと考えたら、事業家になりたいわけで、だったら土建屋でもつくろうか、「藤井組」とか。で、職安に行って、肉体労働系の仕事を探してもらったんですよ。そうしたら、職安のおばちゃんが、「あなたには、絶対にものを売る仕事が向いている」というわけです。「どんな仕事があるの?」と聞いたら、「学生服の会社か、観光系の仕事がある」と。「だったら学生服の会社を紹介してください」。父のリベンジができそうな気がしたんですよ。

 その会社への入社が決まり、社長に伝えました。「僕は学生服は売りません。カジュアルを売る新しい事業部を立ち上げましょう」と。「おまえ、ものつくったことあるんか?」「そりゃ、ありますよ」「だったら、やってみい」。もちろん、洋服をつくった経験はまったくありません(笑)。でも、会社から予算を取り付けてしまったので、やるしかない。慌てて友人のところに走って、企画書や仕様書など洋服づくりに必要なことを教えてもらいました。当時ではまだ珍しかった、5ポケットジーンズやレーヨン生地を使ったジーンズなどをつくって、売りまくりました。僕はものを売ること、お客さんと折衝することが大好きなんですよ。「あんた、面白いな」って、買ってもらって仲良くなると、いろんな業界動向を教えてくれる。3年くらいやりましたか。そのカジュアル事業部の年間売上を、3億円ほどの規模にまで持っていくことに成功しました。

<迷走時代>
個人事業主として起業を果たすが、失敗の連続。
畑からキャベツを拝借して飢えをしのぐ困窮生活

 最初に、社長と約束してたんです。売り上げ3億円、粗利で1億円を達成したら、BMWの535シリーズを買ってもらうことを。やっぱ、外車に乗ってもてたかったですから(笑)。で、社長に約束を守ってくださいと伝えたら、「おまえには、まだ早い」と……。結局、その件で頭にきて、この会社も辞めることになるんです。じゃあまた、自分で始めるしかないと、家賃1万5000円、築50年くらいのボロボロの事務所を借りて、銀行の通帳を見たら、残金は42万円。税務署へ行って、滞納していた税金を払ったら、手元に残ったのは約20万円。でも、「絶対に事業を成功させる」と話していたら、税務課長がなぜだか僕のことを気にいってくれましてね。「俺が後押ししてやるから、お金を借りろ」と。そのまま5階の融資課に連れていかれて、仮契約で1000万円の融資が受けられることに。渡りに船とはこのことです。そんな経緯で、今の会社につながる個人事業を始めることになりました。

 前勤務先で立ち上げた、カジュアル事業と同じようなやり方で、すぐに売り上げが上がるようになりました。でも、経費と売り上げのバランス、粗利の設定の仕方など、めちゃくちゃだったんですね。初年度の年商は4300万円で、赤字が2350万円でしたから。さらに、大きな問屋2社がメインクライアントだったのですが、その両社がいきなり倒産し、売り先がなくなった。それからは、会ってくれる売り先ならどこでも行こうと、専門店など1軒1軒売り歩きました。ただ、それでは月商30万円くらいにしかならないわけです。そうやって2年目には、真綿で首をしめられるように経営が苦しくなってきた。顧問税理士には、こう諭されました。「藤井さん、タクシーか長距離トラックの運転手はどうですか? 今だったらまだ間に合います」と。「は? 商売やめる? あなたには人を見る目がない」と、その場で税理士をクビにしました。

 とにかく、絶対に逃げない、倒れる時は前に倒れよう。そう心に誓いました。ではどうすればいいか。過労死するまで働きまくればいい。従業員にも辞めてもらって、朝から晩までひとりで働きました。現金がないので、当時は生命保険に入るという条件で、生地を仕入れていました。そんなこんなで、精神的におかしくなっていたんでしょう。見かねた両親が心配し、母が事業を手伝ってくれることに。クーラーもなく、夏は40度を超える過酷な職場で、母はよく泣いていました。「人の3倍も4倍も働いて、何でうまくいかないの。商売っていうものは……」と。僕は「大丈夫。絶対に何とかする」と言い続けました。そうはいっても、お金がない。でも、道を歩いていると、畑にキャベツとか転がっているわけです(笑)。食べるものはある。生きていくことはできる。白いご飯が食べられる幸せ……。そんな、どん底の中にいながらも、いつかの成功を信じて、前に進み続けるしかなかった。そんなある日のこと、その後、僕たちの恩人となる青年が店長を務める大阪のセレクトショップとの出会いから、事業は息を吹き返すことになるのです。

●次週、「メイド・イン・ジャパンのジーンズが、世界から注目を集める!」の後編へ続く→

児島発のこだわりヴィンテージ・デニムが、
世界のビッグブランドから求められる理由

<常に日本一を目指すから、241>
セレクトショップのインディーズブームを巻き起こす。
デニム製造のノウハウが集積された児島をフル活用

 必死に営業して、24本のオリジナル・レザージーンズを買ってくれた大阪のセレクトショップの店長から、一本の電話が入ったんです。1997年当時は、まだインディーズブームが来る前でしたが、そのセレクトショップは、店のオリジナルの商品をつくりたいと。で、トップス、ボトムスなど16型のオーダーをくれたんですよ。そのオリジナルのラインが予想を超える大ヒット。正直、この店の売り上げだけで食べられるようになったのですが、その店長は「ここでいっきに仕かけましょう」と。僕が昔から、日本一になりたいと考えていたことを知っていたんですね。それから、イケてそうなセレクトショップをしらみつぶしに営業して、独自のOEMマーケットを広げていきました。もう、入れ食い状態でしたね。僕にしか、このマーケットは見えていないわけですから。大阪のアメリカ村、東京の原宿など、有名なアパレルストリートの主要店は、ほぼ顧客とすることができました。そしてこの年に、事業を法人化。社名のニイヨンイチは、数字の241。藤井商店のフジイ、ニホンイチとも読めますし、自分と1にしか割り切れない素数でもあるのです。

 いずれにせよ、個人事業を創業してから、生きていくべき場所にたどり着くまで、3年の月日が流れていました。彼との出会いを成功に導けたもうひとつの要因は、「児島」という地域を拠点に商売をしていたことが挙げられます。児島には、織り、パターン、染め、裁断、縫い、洗いの加工技術など、世界一と言っても過言ではないデニム製造のノウハウが集積されています。それらを最大限に利用し、「他社にはサジを投げられた」というオーダーにも、「できない」ではなく「どうすればできるか」を常に考え続け、大胆な発想と、こだわりのクリエイティビティで応えてきました。その数年後、例の店長が児島の本社まで車で遊びに来てくれたんですよ。従業員総出で大歓待して、その夜に車で帰っていった彼は、高速道路でオカマを掘られる大事故に遭い、他界してしまった。悪いことは続くものです。今度は、生地の裁断を委託していた取引先の社長が心臓まひで他界。自分の事業にはお金が集まり、成功しているけれど、いったい何人が犠牲になるんだ……。

 お金の渦には、人の喜びだけではなく、妬みや、ひがみも混ざっている。久しぶりに通帳を見たら、見たことのないような金額の数字が刻印されています。お金は夢を実現するための手段なのに、いつの間にかお金が目的になっていないか……。それじゃあ、いけない……。それから遊ぼうと決めて、会社にも行かず、狂ったようにお金を使いまくりました。しかし、その半年後、急激な経営悪化を心配してくれた、メインバンクの支店長に呼び出されます。「おまえの会社は99%終わってる」「おまえじゃない、俺は社長じゃ!」と、怒鳴り合いからその打ち合わせは始まりましたが、10時間にも及ぶ話し合いの中、さまざまな経営指南を受け、さらに延命措置として、500万円の追加融資をしてくれたんです。そんな頃、取引先の縫製工場が、倒産の危機を迎えていました。自分の会社が窮地に立たされているにもかかわらず、その縫製工場を引き取り、救うことを決めました。自分にとって、生まれて初めての人助けだったかもしれません。

<DELAY by Win&Sons>
OEMメーカーが、独自のブランドをスタート。
一本一本手づくりの“作品”が世界に認められる

 みんな、僕のことを気が狂ったと思ったようです。自分としては、彼らを救うことも大事でしたが、自社の再建を真剣に目指し、工場を持って、ものづくりの信頼を高めることも同じくらい大事でした。ただ、この時、僕の判断に呆れて、3分の1の従業員が去っていきました。もちろん、そこから2年くらい、経営はぐちゃぐちゃでしたよ。資金繰りも毎月ピンチで、ある月には、あと700万円ないと倒産という危機も。そしたら、事務の女の子が、「学資保険を取り崩せば100万円になります」。営業の男の子が、「実はコツコツ貯めた貯蓄が1000万円あります。使ってください」。大激怒しましたよ。「おまえら、親に金を貸すつもりか? なめんとんのか!」と。もちろん、本当は彼らの気持ちがめちゃくちゃうれしくて、激怒の後、大号泣しましたよ。もうひとつ、窮地の縫製工場を引き取った話が地元の酒場で噂になって、いろんな人から、「藤井さん、困ったことがあったら何でも言ってくれ」と声をかけてもらえるように。それから地元の経営者仲間からの信用が、ものすごく強くなっていきました。

 そこから同じ轍を踏まないと決め、一生懸命社業に集中し、盛り返していったんです。ジーンズを中心としたOEM生産だけで、年商13億円くらいまで持っていきました。ただ、最初は一人勝ちだったこの商売も、競合が出始めて、価格勝負を強いられる。従業員を増やすと経費も増え、利益が上がりづらくなる。マイペースでやってはきましたが、打つ手が見えなくなってきた……。転機は2006年の2月6日に訪れました。この日、ずっと会社経営を手伝ってくれていた最愛の母が亡くなったのです。そして、悲しみにくれる中、新会社の設立を決断。その会社の名前は、「Win&Sons」。母の名前である、「勝子」からもらった社名です。事業内容は、自社オリジナルのジーンズやトップスの製造・販売。もちろん小売りは初めての経験ですが、何としても母が亡くなった2006年中に、ショップを出すことを決めた。で、その年の12月6日、表参道に初の直営店「Win&Sons TOKYO」をオープンしました。しかし、まさに徒手空拳での勝負だったのです。

 当然、スタート当初は苦しい経営状態が続きました。しかし、これまでの経験則から、商売を続けていれば、2年半から3年の間に、軌道に乗っかるチャンスが来ることがわかっていました。そのチャンスを見つけるのが難しいのですが、必ず来る。そして、そこでいっきに勝負をかける。「1・3・5・10」の法則と言っていますが、チャンスを見つけるために3年継続、5年目までに成長の仕組みを構築、そうすれば、10年続く商売になる。これは売り上げ規模で考えても同じだと思っています。そして、「Win&Sons」のチャンスは、またもや人がもたらしてくれました。履き皺、独自の縫製など、培ってきたものづくりの技術の粋を施した、一本一本こだわって手づくりで提供するうちの製品を、あるお客さんが認めてくれた。その方は、ファッション業界で一目置かれる存在で、「DELAY by Win&Sonsは、いつか必ずものすごいブランドになる」と。そこからですね、口コミでファッション誌に取り上げられるようになり、芸能人など多くの著名な方々にも履いてもらえるようになったんです。

<未来へ~ニイヨンイチが目指すもの>
オリジナルのメイド・イン・ジャパンにこだわり、
世界を「あっ!」と言わせるものづくりを続けていく

  常に、僕らのジーンズが世界一かっこいいと信じ、ひとつの作品をつくるつもりで、商品をとらえ続けてきました。その思いが伝わったことは、すごくうれしかった。そこから、「DELAY by Win&Sonsを扱いたい」という、セレクトショップ、ネットショップなどからの問い合わせが殺到し始めました。ブランドにとっての成長の仕組みは、僕らの商品の価値を理解してくれる販売拠点という仲間をどれだけ増やせるかにかかっています。慌てず急がず、現在までに約60店の卸先が生まれています。もちろん、OEMが僕たちのオリジンです。よそがいくらでやるといった価格の話をされても、僕らは少し高めの金額を提示します。そこには自信と、それを裏付ける理由があるんです。世界一であると自負している独自の技術力、企画や感覚といった情報力。それらを融合させた最新、最上の提案ができ、ブランドのケアにどこまでもこだわる。今、国内外の超有名ブランドを含め、約200社、250ブランドが、OEMメーカー・ニイヨンイチとしてのお客さんです。

 今のところ直営店は、表参道の「Win&Sons TOKYO」、大阪の「DELAY OSAKA」の2店舗ですが、近々、福岡と東京にもう1店舗ずつオープンさせる計画です。また、現在、ものづくりの原点を、会社として再確認するため、多額の投資をして、地元・児島に新工場を建設しています。日本でつくって、日本で消費する、メイド・イン・ジャパンにどこまでこだわれるか挑戦してみたいんですよ。それに応えるための、もっとつっこんで縫製や加工の技術を深める研究をしたいし、新しい力を身につけたい。もともと人がやってることには興味がないですし、人がやっていることで成功できる確率が低いこと、よくわかっていますからね。基本は、逆張りですよ。「円高の今、なぜ国内工場?」と言われますが、為替は動くものでしょう。動くものを相手に商売してはダメ。日本人の感性と、技術力を信じて、ものづくりをし続けたい。3階建て総床面積300坪の新工場は、デザインにもこだわったカフェのようなスタイル。今、当社には中国人スタッフが18名いますが、日本の高校生たちが「ぜひ、ここで働きたい」と言ってくれるような工場をつくりたいですね。

 自分のこれまでを振り返ってみると、途中数年、停滞していた時期もありましたが、いつだって「絶対に日本一になる」と言い続けてきました。もちろん、国内だけの事業展開に留まるわけではないですよ。日本で世界最高水準の商品をつくって、それをどんどん海外に広げていきます。そして、世界の主要都市すべてに、支社をつくるのが夢ですね。いずれにせよ、お客さんが喜んでくれることは何か。常にそこを忘れずに、商品に魂を込めて、ものづくりに取り組んでいきます。うちの社是、「私たちの創る服(心)は人を幸せにする」を守り、当社の縫製、加工技術の一つ一つが人の心をウキウキさせること、魂のこもったオーラを感じていただけることを信じています。自分たちだけで、この事業を大きくしてきたわけではありません。やはり、取引先、お客さんという、たくさんの人が集まってくれたから、今があるわけで。「そんな人たちを幸せにすることこそが、かっこいいんだ」と常に従業員に伝えています。あとは、「俺たちは、明日からたこ焼き屋に商売替えしても、日本一になるぞ!」ってね(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
お金儲けしたいとか、いい生活したいとかではなく、
人とのつながりに視点を持っていかなければいけない

 何のために起業するのか? 僕は、結局、自分を愛してくれた親のためだったり、しんどい時によくしてくれた人のためだったり、その人たちが与えてくれた愛情のために頑張っているという気持ちが一番強いと思っています。何でもそうですが、自分だけのためにやっても仕方ないわけで、自分を助けてくれた人のための恩返しであったりとか。それらがないと、夢を持っていてもあきらめてしまいますから。人が絡んでくれていれば、夢は継続できると思うんですよ。単独で、あれやりたい、これやりたいと考えていても、その思いを理解してくれる人がいないと。やっぱり、そんな人たちに喜んでほしいし、「藤井、ようやった!」と言ってもらいたい。そのために、自分はやってきたんだし、頑張り続けることができたんだと思います。

 お金儲けしたいとか、いい生活したいとかではなく、人とのつながりに視点を持っていかなければいけない。だから、まずは誰のために起業するのかを明確にすべきです。僕の場合は、先ほども話しましたが、親からもらった愛情に対して、自分の夢も併せて返したいと思い続けてきました。それは絶対にあきらめることができないわけです。僕にとっては、非常に重たいものですから。自分が喜ばせたい人が喜んでくれること。ここに心持を合わせて、前を向いて進んでいく。ハングリーという状態も大事だけど、お金さえ手に入ればいいという考え方だったら、絶対に続けられないし、確実に失敗しますよ。お金がある時は機嫌がいい、お金がない時は機嫌が悪い。そんな、お金に翻弄されるような起業家には、絶対になってほしくない。ぜひ、あきらめることができない人とのつながりと夢、これを中心に据えて、ビジネスを考えっていってほしいですね。

 アパレルビジネスを見ていくと、やはり移り変わりがあって、誰かがやって成功しているもがその時のトレンドだと思って、追いかけてしまいがちです。でも、そこじゃあない。自分が「これがいい!」と思ったものを、つくり続けていれば、必ずラウンドが自分に回ってくる時がある。それがチャンス。その時が来るまでは、あっち行ったり、こっち行ったり、ミーハーはするな。それは自分探しの旅のようなもんだから。その間にみんな迷って、普通の人は終わってしまう。自分が信じたもの、それから人に対して、全うするしかない。誰もやってないことであれば、その道をつくるしんどさや、苦痛は当たり前。その、苦難や苦痛が多いほどいいんです。その、苦難、苦痛と同時に、すぐその横にチャンスはあります。つらい時ほど、周りのチャンスを探すべきです。そして、トラブルはいつだってあるけど、どんな状態でも逃げないこと。「沈香も焚かず屁もひらず」ではダメ。「転んでもただでは起きない」の決意で、頑張ってください。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:大平晋也

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