第141回 株式会社レプハウス 代表取締役  堀口康弘

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第141回 株式会社レプハウス/ 代表取締役
堀口康弘 Yasuhiro Horiguchi

1955年、佐賀県生まれ。小学5年生の時に、将来の夢を「画家」と定める。県立佐賀東高等学校卒業後、国立東京芸術大学・油絵学科を二度受験するが不合格。約1年半のヒッピー生活、野宿生活を経て、単身アメリカ・ロサンジェルスへ。危険なスラム街に立地するリカーショップの仕事にありつき、倉庫整理から店長にのし上がった。3年間勤務し、とあるきっかけから永住権申請のため、日本食店で修業。リカーショップのオーナーをスポンサーに日本食ファストフード店を立ち上げる。永住権獲得のためいったん帰国した日本で、某食器メーカーA社の経営者と出合い、意気投合。1982年、27歳でレプハウスを創業し、雑貨の卸売事業をスタート。創業と同時にアメリカの飲食業からは撤退。1998年、卸売事業から小売り事業への転換を決断し、千葉・松戸に生活雑貨店「off&on」1号店をオープン。大人気ショップとなり、直営での出店を加速。製造から販売までを手がけるSPA(製造小売り業)への進化を遂げ、「off&on(オフノオン)」を全国で55店舗、ほか姉妹ブランドの「cafecafe table」5店舗、和テイスト雑貨店「ETOWA」2店舗を展開するまでに。2009年には、東京・青山でカフェ&ショップの新業態「cafe table TERRACE」をオープンした。

- 目次 -

ライフスタイル

趣味

絵を描くことです。
絵画が昔から好きで、今でも時間があれば、自宅のアトリエで絵を描きます。水彩、パステル、油とさまざまな技巧を使って。ほとんどの作品はどこに飾るわけでもなく、自宅の倉庫に貯まっていくだけ。妻からはよく、「何とかしてよ……」と言われます(苦笑)。あとは、テニスとゴルフです。

好きな食べ物

日本食です。
仕事柄、世界中を飛び回って商品をつくったり、仕入れたりしていますので、年間約3分の1は海外で生活しています。ですから、いつも日本食が恋しくなる。個人的に好きなのは、うどんとか、日本のラーメンとか。お酒は普通に飲みます。特に好きなのは、ウィスキーですね。

行ってみたい場所

南の島です。
妻と長男・次男と一緒に、毎年1週間くらい、南の島に行って仕事のことを何も考えずに過ごしています。それが次へのエネルギーや、新しいアイデアの源となる。ちなみに長男は23歳、次男は20歳。酒も飲めるし、大人の会話もできる。一緒に洋服など買い物に出かけることもありますよ(笑)。

お勧めの本
『成長し続けるための77の言葉』(PHP研究所)
著者 田坂広志

仕事と人生の本質を見つめ続ける著名コンサルタントの田坂広志さんが、「職業人としての成長」「人間としての成長」「人間集団としての成長」について、77の言葉を通じて語ります。 そして、この77の言葉は、単なる「言葉の列挙」ではなく、「言葉の階梯」として語られます。すなわち、一つの問いに対して、一つの言葉が答える。その答えに対して、次の問いが生まれ、また一つの言葉が答える。それは、あたかも言葉の階段を登っていくように、 我々を成長の高みへと導く連続メッセージでもあり、この書の一頁、一頁を読み進むことによって、生涯、 成長し続けていくために大切な心得を深く理解することができるでしょう。

元・画家志望の社長が、27歳で立ち上げた生活雑貨事業。
すべてをゼロから創り上げ、現在直営60店舗を展開中!

上質で豊かなライフスタイルを提案する生活雑貨店「off&on(オフノオン)」を全国に展開しているレプハウス。同社を創業し、ここまで成長させてきた男、それが堀口康弘氏である。19歳で夢破れ、徒手空拳で渡ったアメリカでは倉庫整理から店長にのし上がり、一時帰国していた日本で出合った経営者の一言で、今のビジネスにつながった。「そもそも、雑貨ビジネスに制限などないと思っています。振り返ってみると、食器の卸売りからスタートし、自分の手がけたいことを拡大し続けた結果、実に幅広い業界の方々と知己が生まれ、それによって、キッチンウエア、ステーショナリー、インテリアファブリック、アロマグッズ、化粧品などの商材を扱うようになったわけですからね。これからも、事業を拡大させていく過程で、いろんな新しいニーズが見えてくると思っています。」。今回はそんな堀口氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<堀口康弘をつくったルーツ1>
男ばかり5人兄弟の四男坊として、佐賀県で誕生。
小学5年生の時に決めた将来の夢は「画家」だった

 僕が生まれたのは昭和30年の5月31日。父は佐賀県で鉄工所を経営していて、高度経済成長の波に乗り、最盛期には30人ほどの従業員を抱えていました。兄弟は男ばかりの5人で、僕はその四男坊。今でも兄弟みんな仲が良く、集まるといつも大宴会で大いに盛り上がります(笑)。子ども時代は、父も母も忙しく、5人の子ども一人ひとりにかまっていられなかったのでしょう。あまりうるさいことも言われず、自由奔放に育った気がしています。兄弟は3歳ずつ年が離れていて、学校も同じでしたから、進学するたびに、先生からは「ああ、君はあの堀口の弟だね」と。そんなでしたから、周りの同級生たちよりも早く、学校の環境に馴染んでいくことができました。小学生時代は仲間と一緒に遊ぶことに夢中で、とても楽しかった。一方、順調だった父の会社の経営が年を追って落ち込むようになり、秀才と言われていた長兄が大学進学をあきらめて働きに出るなど、家計が少しずつ苦しくなっていく様も感じていました。

 僕にとって、最初の転機は小学3年生の秋に訪れました。夏休みの課題で描いて提出した絵が、県の特選に選ばれたのです。もともと絵を描くことが好きではありましたが、そこまで評価されたのは初めての経験。その後も、いろんなコンテストで自作の絵が入選するようになって、周りからも「君は絵の才能がある」などと言われ。小学5年の時には、「将来は画家になる」と決めていました。そんな夢を抱きつつ、中学に上がってからは、上二人の兄たちがテニス部に所属していたこともあって、自分もテニス部に入部。兄も僕もキャプテンを任されています。テニス部とは別に美術部にも籍を置いて、週に何回かは絵を描き続けていました。中学の美術の教室に、10代前半のピカソが描いた絵が飾られていて、その作品に大きな感銘を受けました。それからは、図書館でピカソの画集を眺めたり、彼に関することが書かれた本を乱読し、本気でピカソのような画家になりたいと考えるようになりました。井の中の蛙なんですけどね(笑)。

 その頃から、どうすれば画家になれるのか、真剣に検討するようになります。父からは、「大学は申し訳ないが国立しかやれない」と兄たちが父から言われていることを知っていました。ということは、日本の芸術系大学の最高峰である国立東京芸術大学しかない。自分の進むべきルートを確認しました。そして、県立佐賀東高校に進学してからは、万難を排し、東京芸術大学への合格をひたすら目指すようになるわけです。もちろん、高校の美術部に入部しましたが、当時はまだライトでサークル的な環境でした。「こんな部で大丈夫かよ?」です……。美術部の同期に、佐賀ではけっこう有名な画家の息子がいましてね。彼を巻き込んで、「一緒に、東京芸術大学を目指そうよ」と。彼と二人で美術部をスパルタな体制にするために、自分たちも休み時間は必ず美術教室でデッサン。そうやって率先垂範で改革への行動を続けていくうち、先輩や後輩たちも「自分も芸術系の大学へ進みたい」と考え始め、何と、新規の部員が増えるというおまけまでついてきたんです。

<堀口康弘をつくったルーツ2>
自分の人生を振り返ってみても、一番大きな挫折経験。
絶対に、このままサラリーマンにはならないと心に誓う

 そうやって高校の美術部で活動を続ければ続けるほど、このままではうまくいかないと感じるようになりました。「佐賀にいてはダメ。東京に行かなければ」と。何とか父を説き伏せ、夏休みの1カ月間、芸大・美大受験予備校の「すいどーばた美術学院」の夏季講習に通わせてもらえることになりました。高校の3年間、夏休みは毎年、東京の親戚の家で寝泊まりさせてもらいながら、毎日、毎日、東京芸術大学の受験準備に明け暮れていました。僕が目指していた油絵学科は、倍率50倍以上の超難関です。現役で合格するのは奇跡、一浪でも難しい。受験方式も変わっています。1次がデッサン、2次が油絵、3次が学科という3段階で、1次、2次ともに当時は3日の期間を与えられ、段階ごとに合否のふるいにかけられて落とされていく。最後の学科まで残って結果が出るまでに1月くらいの期間が必要なのです。

 正直、自分でも現役での一発合格はかなりハードルが高いと感じていて、最初の受験は腕試しでいいくらいに思って臨みました。そして、現役でのチャレンジは、1次のデッサンであっさり落とされてしまいます……。が、父は「一浪まではバックアップする」と約束してくれていたので、再び「すいどーばた美術学院」に通いながら、来年の合格を目指すことになりました。この予備校は、東京芸術大学卒業生や、大学院生の講師が多いことで知られています。予備校の中で、毎月行われる油絵コンクルールがあるのですが、ここで高い評価を獲得し続けることが、油絵学科の合否確率の判断材料となります。僕は一所懸命、油絵を描き続け、コンクールの上位を何度も獲得。そして2回目の受験に臨みました。

 けっこう、自信はあったんです。なので、滑り止めの私立の美大は一切受けず、東京芸術大学一本。まあ、お金がなかったこともありますが、背水の陣で受験に臨みたいという思いもありました。そして、昨年落とされた、1次のデッサンは無事クリア。でも、2次の油絵で不合格に……。今考えれば、試験は水ものですからね。自信があっただけに、ショックがものすごく大きかった。自分の人生を振り返ってみても、19歳の時に東京芸術大学にふられたことが、一番大きな挫折となりました。そこからは放心状態で、どうやって過ごしていたのか記憶があいまいです。ただ、その頃、同年代の多くが大学に進学するようになっていて、「高卒でサラリーマンになっても、大卒の奴らには勝てない」と考えていました。父から授かった経営者としてのDNAがあったのかもしれません。絶対にサラリーマンだけにはなるまいと、心の中で決めていました。

<ホームレスを経験>
半年間、肉体労働を続けながら公園で野宿生活。
人生修業の旅に出るための自分流の準備だった

 以後の約1年間、何の目的もなく、家電店でメーカーから派遣される販売員のバイトをしながら生活していました。僕には才能があったのか、販売成績がものすごくよかった。扇風機の販売から始め、エアコン、当時の人気商品だったカラーテレビと、金額の大きな商品を扱うようになって、歩合給でかなり稼がせてもらっていたんです。一番稼いだ月は、100万円ほどの現金を手にしていましたよ。仕事が終わると、そのお金を持って、新宿あたりでふらふらとヒッピーのように遊び回る日々。そんな日々の中で、僕は10歳ほど年上の会社経営者から可愛がられるようになりました。一緒に飲むことも多くなり、自分のこれまでの人生、もやもやとした胸の内、それらを彼に打ち明けた。今では某大学の学長を務めている人ですが、ある時、彼は僕に向かって言いました。「若い時にしかできないことがある。そんな日銭稼ぎの仕事なんて辞めて、人生修業の旅に出ろ」。その言葉が、なぜだか当時の僕の心に刺さったんです。

 すぐに決断しました。「よし、旅に出よう」と。お金はけっこうあったのですが、彼からは「そんな金は置いていけ」と。確かに、あぶく銭だと思っていたので、最新の家電を買って使いきり、その商品はお世話になった父母にプレゼントするため実家に送りました。それからアパートの契約を解除し、僕は野宿生活をスタート。代々木公園に寝泊まりしながら、毎日、肉体労働で稼ぐという生活が始まります。一番の底辺から生活と仕事を始めて、アメリカへの渡航費、60万円を貯めることが目標でした。なぜ、アメリカだったのか? 特段の理由があるわけではなく、世界で一番経済発展している国だからという単純な思いつきですよ(笑)。そして約半年で、その目標を達成し、僕はホームレス生活の拠点だった代々木公園から羽田空港へ向かいます。20歳、英語はからきし、パスポートとリュック一つ。まさに徒手空拳で、アメリカのロサンジェルス(LA)を目指したのです。

 実は、LAが北アメリカのどこにあるのかも知りませんでした。そんなLAの空港に降り立ったのは深夜すぎ。それから行くあてもなく、とりあえず街を目指して、深夜バスに乗り込みました。行き着いた終点のバスターミナルは、確かに街でしたが、浮浪者だらけのめちゃくちゃ危ない雰囲気。寝袋も持っていたので、野宿すればいいくらいに思っていましたが、ここでそんなことをしたら確実に身ぐるみはがされる。そこで、街に向かって歩き始め、最初に見つけた宿の名前が、なぜか「HOTEL NEWYORK」(笑)。片言英語でフロントに交渉し、何とか寝場所を確保することができました。翌日、近くにあった紀伊国屋書店で、辞書と、ロサンジェルスタイムズを購入し、求人コーナーを見ながら仕事を探し始めます。

<何度も九死に一生>
リカーショップの雑務から、店長職にのし上がる。
スラム街では夜道で拳銃を突きつけられた経験も

 当時は1ドルが280円で、僕の手持ちは2000ドル程度。毎日毎日、所持金は減っていくのに、なかなか仕事が決まりません。つたない英語で電話をかけたら、「意味がわからない」と切られ続け。その後はやり方を変え、飛び込みで面接を直談判。そうして1月後に、やっと決まった仕事は、リカーショップの在庫整理スタッフで、かなり危険なスラム街にあるコンビニのような店でした。最初は在庫整理から始めて、少し経つと店頭に立つ店員の仕事にシフト。都合、この店で僕は3年ほど働くことになるのですが、英会話を覚えられたのはこの仕事のおかげだと思っています。オーナーはリカーショップを5件ほど経営している人で、1年後には店長のような立場を任せてもらえるようになりました。ただ、常に危険が隣り合わせの仕事でしたね。周囲のスラム街の住人が、この店のお客なのですが、半分がどろぼうで、半分がアル中といった感じなんですよ(笑)。

 万引き、強盗、ケンカや暴力事件は日常茶飯事、銃声が聞こえる夜が続くこともありました。私自身も、夜道で「ホールドアップ!」と、拳銃を突きつけられ、財布を取られたことがあります。店で万引きした少年を走って追いかけた時は、振り向きざまにナイフで切りつけられ、ベルトのバックルで刃が止まって九死に一生を得た経験も。そんな中でも働き続けていたのは、アメリカに永住したいと思うようになっていたからでしょうね。3年目のある日、店に恨みを持つチンピラが、復讐のために襲撃してくるという情報がもたらされました。そこで、警察に非常ベルで通報したら、ヘリとパトカー10台くらいがすぐに集まって、店周辺にいる人間を警官が次々に逮捕・拘留し始めた。

 スラム街では、その場にいる全員が容疑者。詳細は署で聞こうというわけです。もちろん僕も一緒に拘留されました(笑)。警察署でパスポートの提示を求められ、それで何とVISAの有効期間が過ぎていることが発覚……。通常であれば、そのまま強制送還になるところですが、リカーショップのオーナーが助け舟を出してくれた。弁護士を介して、「スペシャリストになるのなら、この場で永住権の申請ができる」。それは渡りに船と、条件を聞くと、「日本食のコックになること」。オーナーは危険なリカーショップ経営から、飲食店経営への転換を計画していたのです。そして私はその条件を飲み、釈放後すぐに日本食レストランと寿司店での修業を開始。その半年後、そのオーナー出資のもと、日本食のファストフード店を開店することとなり、その店の経営を任されることになりました。

●次週、「生活雑貨ビジネスに出合い、独自の手法で多店舗化を成功させる!」の後編へ続く→

レプハウスの雑貨ビジネスに制限などない。
商材、国境を超えて、どこまでも成長を続ける

<天の配剤的・起業>
一時帰国中の日本で、ある食器メーカーに出合う。
起業のきっかけは、その社長からもたらされた

 永住権を取得するためには、いったん帰国して、日本のアメリカ大使館で面接を受ける必要がありました。日本食店の経営をスタッフに託し、10日くらいの予定で帰国したのですが、インタビューの面談日がなかなか決まりません。当時は、カーターからレーガンに政権移行したタイミングで、移民法が変更されたばかり。気づけば1カ月、2カ月が過ぎた頃に、このまま待つだけではもったいないと考え、飲食店ビジネスの企画書を書き始めました。そしてショールームを見て感銘を受けた某食器メーカーA社の社長に飛び込み営業をかけ、事業計画をプレゼンさせてもらいました。するとプレゼン後、その社長は、「飲食ビジネスには全く興味がない。ただ、君自体に興味がある」と。聞けば、彼自身はデザイナーで、ものづくりに自信があるが、販売体制が弱い。そこで、僕に販路開拓をやってみないかと言うわけです。興味はありましたが、雇われる気はまったくないので一度お断りしたのですが、「自分で会社をつくって、うちの商品を売ってくれればいい」と――。

 1982年、永住権取得のため、一時帰国していた27歳の僕は、そのような経緯で、食器の卸商社ビジネスを手がけることになったのです。僕が感銘を受けたA社の商品は、大手百貨店やスーパーなどのバイヤーたちに受け入れられ、営業開始後、徐々に取引口座が増えていきました。一方、会社を創業して数カ月後、やっと大使館の面談が決まり、念願の永住権を取得しました。それからは、日本とアメリカを行き来する生活が続きます。アメリカの飲食ビジネスも比較的堅調に推移していましたが、食器を皮切りにスタートし、キッチンウエア、ステーショナリー、インテリアファブリック、アロマグッズ、化粧品など、雑貨全般を手掛け始めるようになり、俄然このビジネスが楽しくなってきたんですね。そこで、創業5年目には本業の軸を定めるために、アメリカの飲食業からは身を引き、また、永住権も返却し、レプハウスの事業拡大・発展に向けて、全力で走り続けることになりました。

  80年代のバブル景気の後押しもあり、販路はどんどん広がっていきました。すぐにA社の商品だけでは商材が足りなくなり、自ら国内のメーカーに掛け合っては仕入れ、また、海外の雑貨ショーに出かけて商品を買い付けるなどして、レプハウスの雑貨卸売事業は順調に成長を遂げていきます。しかし、バブルが弾け、景気が悪化、クライアントであった流通企業のバイヤーたちが、自信をもってラインナップした商品を、以前ほど積極的に仕入れてくれなくなってきました。私たちは、最終的に消費者の方々に素晴らしい雑貨商品を届けたいと思っているのに、店頭に商品を並べてもらわないと意味がない。これでは、バイヤーのために商品を仕入れているようなもの……そんなジレンマが生じてきました。だったら自分たちでショップをつくって、自分たちで販売も手がければいい。業績がまだよかったこともあって、1998年に決断。そして、最初の直営生活雑貨ショップ「off&on(オフノオン)」が千葉県の松戸に誕生したのです。

<選択と集中>
小売業への専念と同時に、多店舗化への挑戦も決断。
将来を見据え、全扱い商品の100%単品管理にも着手

  直営のショップをスタートしたものの、1年半くらいはふるいませんでしたね。原因を探ってみてわかったことがあります。他店にも卸売りをしている商品を、ただ自店に並べているだけだった……。松戸という地域性をまったく考えていなかったということです。会社側の都合でやる商売はうまくいかないのです。その反省をもって、店頭で販売する商品のコンセプトを定め、商材をしっかり見直したところ、2年目には初年度の倍の売り上げを簡単にはじき出すようになった。わずか15坪の店でしたが、ピーク時には約1000万円の月商を挙げるまでに。一番びっくりしたのは、ほかでもない、私自身ですよ(笑)。このものすごい売れ行きに、最初はマスコミが興味を示し、たくさんのパブリシティが生まれ、今度はそれを見たディベロッパーから、どんどん出店依頼が舞い込むように。そして2号店出店のタイミングで、卸売業からは撤退し、小売業に専念する経営判断を下します。

 小売業に専念すると同時に、多店舗化への挑戦も決断しました。やはりビジネスには数の論理が付きもですから。私たちは創業してからずっと雑貨を仕入れる過程で、自分たちのアイデアを加えるOEM的な商品づくりを手がけてきました。ならば、つくる現場を知っている強みを、売る現場にも落としこんでいくべきでしょう。この経営判断を下してから、仕入れて売る生活雑貨のセレクトショップから、つくって売るメーカーショップへ徐々にシフトし始めたということです。と同時に、全扱い商品の100%単品管理にも着手。商品が増え、店舗が増えるということは、在庫のリアルタイム管理が勝負の分かれ目になることがわかっていましたからね。3店舗目を出店したタイミングで、システム投資を始めています。その投資額とネットワーク環境の充実度でいえば、おそらく並みの上場企業にも引けを取らないのではないでしょうか。

 現在、年間約6000種類もの商材をお客さまに向けてお届けしていますが、その90%が自社オリジナルの商品です。ファブリック、ステーショナリー、テーブルウエアなどなど、中国を中心とした300強の協力工場と提携し、商社をいっさいとおさず、すべて直発注の自社デザイン&コントロールで製造を行っています。そうそう、社内のデザイナーの中に、東京芸術大学出身者が3人いるんですよ。今、僕が彼らに雑貨のデザイン指導をしているのですが、何だか面白い皮肉ですよね(笑)。ただし、商品がいくらよくても、小売りである以上、接客は大切です。雑貨店といえども、百貨店を超えたレベルの接客を実現するため、ホテルマンを中心に構成したチームが一流の接客教育を行っています。私自身も、暇を見つけては店に顔を出して、現場のスタッフとのコミュニケーションを心がけていますよ。これまで全部自分でつくってきたビジネスですから、注文をつけることも多々。きっと、現場のスタッフは「うるさいなあ、もう」って思っているんでしょうね(笑)。

<未来へ~レプハウスが目指すもの>
そもそも、雑貨ビジネスに制限などない。
商材、販路をどこまでも広げていきたい

  そうやって、創業時の卸売業、転換期の小売業、SPA(製造小売り業者)へとステップアップを図り、現在、「off&on」を全国で55店舗、ほか姉妹ブランドの「cafe table」5店舗、和テイスト雑貨店「ETOWA」2店舗を展開するまでになりました。先ほどもお話ししましたが、ビジネスの世界では数の論理も大きい。というわけで、2013年をめどに、100店舗体制を目指しています。また、一昨年には、飲食事業と生活雑貨事業にお互いのビジネスのシナジー、親和性があると考え、カフェ・レストラン事業部を創設。東京・青山で、弊社のショップブランド「cafe table」のテイストを取り入れた本格カフェ&ショップ「cafe table TERRACE」の運営も行っています。これは今後、「off&on」「ETOWA」でも、同じようなかたちで展開していく計画です。

 そもそも、雑貨ビジネスに制限などない、やっちゃいけないものはないと思っています。振り返ってみると、食器の卸売りからスタートし、自分の手がけたいことを拡大し続けた結果、実に幅広い業界の方々と知己を持つようになり、それによって、キッチンウエア、ステーショナリー、インテリアファブリック、アロマグッズ、化粧品などの商材を扱うようになったわけですからね。これからも、レプハウスの事業を拡大させていく過程で、いろんな新しいニーズが見えてくると思っています。テーブルウエアと食に親和性があるように、生活雑貨とアパレルだって親和性が高いでしょう。自分たちで一からつくるのか、他ブランドとコラボレーションするのかはわかりませんが、遠くない将来にアパレルにも本格的に挑戦したいですね。

 来年には海外への進出を果たす予定です。まずは中国、香港を皮切りに、将来は欧米も視野に入れています。僕はアメリカでの生活経験がありますからわかるのですが、やはり生活レベルの近しいマーケットでないと、進出は難しい。パーティ文化が定着しているアメリカと比べて、日本の雑貨ビジネスにはかなり温度差がある。アメリカの人気雑貨ショップに「CRATE&BARREL」がありますが、ここが日本に進出してこない理由もそこにあると思います。だから、まずはアジア。ここでしっかり、地産池消のビジネスモデルを構築させて、欧米はその先に。そうやって、レプハウスの成長を継続させていきます。絵の世界はもういいのか? はい、画家の夢はとうにあきらめています。趣味で自由に絵を描くことができる今が、一番幸せだと思っていますから(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
頼れるメンターを持っておいたほうがいい。
事業継続への頑張りが、罪悪に変わらぬよう

 起業できるって、長い人生で考えると、かなり希少なチャンスだと思います。個人的な意見になりますが、起業はできるだけ若うちに始めるべきではないでしょうか。今、どんなに成功している起業家であっても、数えきれないくらいの失敗を重ねてきているはず。だからこそ、猪突猛進、気力と体力が充実している若い時代に、小さな失敗をたくさん経験してほしい。先のことをしっかり計画する慎重さももちろん大切ですが、周りから、「浅はかだ」「甘い」と叱咤されたとしても、やりたいことがあるのなら、自分を信じてチャレンジするべきです。自分にサラリーマン経験はほとんどないので、会社に勤めながら起業を狙っている方々の気持ちはわかりません。ですが、経営者として社員を見ていると、「こいつなら任せられる」と思える社員もいます。そういう人はみんな、仕事を自分事としてとらえ、自己責任で進めている人ですね。

 日本のシステムは、起業家にとってとても冷淡です。アメリカでは、会社の借金の個人保証を社長がするなんてあり得ません。それでは、会社の失敗と一緒に、せっかくの個人的な才能と、せっかくの貴重な失敗経験が次に生かされない。だから、日本で起業を失敗すると、二度と立ち上がれないというイメージが強く、それによって挑戦者がどんどん少なくなっている。アメリカでは一度失敗した起業家が、再び起業してものすごい大企業をつくり上げたケースなんていくらでもあります。繰り返しになりますが、20~23歳くらいの若いうちに、起業経験できる仕組みをつくるとか、逆に年齢が高くなっても起業に挑戦できるシステムをつくるとか。起業家を生み出し、育てるための土壌を今のうちに整備しておかないと、日本はどんどん衰退していく気がしています。

 失敗を経験したことがない起業家など、存在していないのです。成功者と言われる経営者であっても、何度も何度も挫折を経験しているはずですし、それに負けずに這い上がってきているだけ。自分の経験からいっても、成功と失敗は紙一重のことが多いのです。結果としての成功は、いつだって、ちょっとした状況で変わっていく。なぜなら、これまでの成功を一瞬でチャラにしてしまう失敗だってあるのですから。最後に、継続は力と言いますが、継続したことが致命傷を生む失敗もあります。私たちのビジネスは、出店と退店を繰り返しているので、そのことが痛いほどよくわかります。起業家は孤独な人が多く、自己責任の世界ゆえ、自分の判断に固執しがちです。誤った判断を下す可能性を減らすために、相談に乗ってくれるメンターを持っておいたほうがいいと思います。事業継続への頑張りが、罪悪に変わらないように。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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