第136回 株式会社カヤック 代表取締役 CREATOR  柳澤大輔

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

- 目次 -

第136回
株式会社カヤック/
代表取締役CREATOR

柳澤大輔 Daisuke Yanasawa

1974年、香港生まれ。小学校3年で日本に帰国。慶應義塾大学環境情報学部を卒業後、ソニー・ミュージックエンタテインメントに入社。1998年、合資会社カヤックを学生時代の友人、貝畑政徳(CTO)、久場智喜(COO)と3人で設立し、24歳で代表取締役に就任。枕詞は「面白法人」。Web関連の受託、自社サービス開発事業をスタートさせる。2005年、株式会社に組織変更。「ART-Meter」「HOUSECO」「こえ部」など、ユーザー数千から数万人規模のインターネットサービスを幅広く展開する。ユニークな人事制度(サイコロ給、スマイル給)や、ワークスタイル(旅する支社)など、普通の会社では考えられない制度面も現在実験中。Webディレクターとしてカンヌ国際広告賞、東京インタラクティブ・アド・アワードなど、国内外のあらゆるWeb広告賞を獲得。2007年、飲食事業をスタート。2009年、明和電機との「貧乏ゆすり」プロダクトのコラボを手がける。著書に『この「社則」、効果あり。』(祥伝社)、『面白法人カヤック会社案内』(プレジデント社)、『アイデアは考えるな。』(日経BP社)、『空飛ぶ思考法』(サンマーク出版)。

ライフスタイル

趣味

仕事です。
仕事が趣味なんですけど、強いて挙げるとすればサーフィンでしょうか。でも、サーフィンも仕事に向かうための体調を整えるためにやっているという側面が強いかな。そういった意味で、海は僕にとって、お風呂のような存在でもあります。すごくいい仕事と、素晴らしい波の日にどっちを選択するか? 当然仕事ですよね(笑)。

好きな食べ物

カレーです。
カレーは何杯でもいけます。何ででしょうね(笑)。ばっかり食べ、って言うんですか? いろんなものを少しずつじゃなくて、美味しいものを一緒に混ぜて食べるのが日本人って好きじゃないですか。カレーはスプーン1すくいに、それが全部詰まってる。たぶん、それがカーレ好きな理由なんじゃないかと。

お勧めの本

『アイデアは考えるな。』(日経BP社)
著者 柳澤大輔
アンカー
韓国でも2011年6月に翻訳版をリリース予定。ウェブ制作で高い評価を得、年間100以上の新サービスを世に送り出す面白法人カヤック。そのクリエイティブな組織づくりの秘訣は、トコトン楽しく働くことにこだわること。「アイデアをたくさん出すノウハウ」は「楽しく働くノウハウ」そのものだ。すごい企画を1個出すよりすごくない企画を100個出せ! エジソンだってノート3500冊にボツ案を書いていた! 視点がたくさんあるほうがどんどん志向はポジティブになる。

何をするかより、誰とするかが大切と言い切る!
3人の男がつくった普通じゃないWebカンパニー

IT会社だけど鎌倉本社、サイコロで給料のプラスアルファ分を決める「サイコロ給」、給与明細にかかれた他スタッフからの評価メッセージである「スマイル給」、社員から行きたい場所を募って臨時の国内外支社を一定期間設置する「旅する支社」――。どれも普通の会社じゃありえない、ユニークな制度を取り入れながら、急成長しているWebカンパニー。 それが、柳澤大輔氏が学生時代の友人と3人で立ち上げた面白法人カヤックだ。「鎌倉市に本社移し、それから数年で一気に社員数が増えていきました。社員が増えたからといって、社内の雰囲気ややり方は、あまり変わっていません。逆に同じことしていても人数が多いと価値が上がるということがわかりました。これも、何をするかより、誰とするかを、常に考えながら、一緒にものづくりをする仲間を増やしてきたからだと思います」。今回はそんな柳澤氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<柳澤大輔をつくったルーツ1>
香港で生まれ、小学校3年で日本に帰国する。
意外とスムーズに周囲に溶け込んだ少年時代

 僕が生まれたのは、貿易関連会社の社員だった父が仕事で赴任していた香港です。1974年生まれですから、当時の香港はまだイギリス領。父から聞いた話だと、日本人は3000人くらいしかいなかったらしいです。その後、父はアジア各国を渡り歩き、現地の社長になって、、最後はタイで仕事をしていました。ちなみに、きょうだいは2つ下の妹が一人。僕たちの住居は海に囲まれた香港島にあって、休日になると自分の家族や知り合い家族たちと船に乗って、島を渡りながら遊んだ記憶が残っています。あと、リトルリーグに入って、野球に親しんでいました。当時は、英語と広東語が話せて、現地の友だちもたくさんいたそうですが、今はもう、ほとんどしゃべれません(笑)。で、自分たちの学校教育の関係だったのか、父はそのまま香港に残り、母と妹と日本に帰国したのが小学3年生の時。東京・町田市の公立小学校に編入し、日本の校風に意外とスムーズに溶け込むことができました。

 たぶん、ジャッキー・チェンの映画が人気を博している頃だったんですね。帰国子女も当時ではまだ珍しかったのでしょう。同級生から、「香港にいたなら、やっぱり、カンフーが得意なの?」と。それまで全くやったこともなかったのに、ヌンチャクを振り回す練習を必死でしたことを覚えています(笑)。あとは、ファミコンの周辺機器「ファミリーベーシック」の使い方を覚えて簡単なゲームをつくったり、はやっていたマンガにはまったり。だったら内向きなのかといえばそうではなく、香港でやっていた野球からサッカーに転向してチームに所属したり、普通に友だちと外で遊ぶことも好きでした。勉強ですか? どうだったんでしょう。テストの点数とかあまり記憶がないんですけど、ある程度はできるほうだったんじゃないでしょうか。

 中学も公立に進学しています。部活動は、1年ごとに変わっていました。最初は、確か卓球部で、その後は文科系の部を掛け持ち。ほか、社会人のバレーボールチームに入れてもらって、練習に参加していました。友だちと一緒に塾に通い始めたんですよ。楽しそうだったから。で、模試を受けると、自分の順位がわかるじゃないですか。次はもっと上にとやっているうちに、だんだん面白くなってきて。そうすると、自分の成績ならどこの私立に受かりそうだとわかるようになって。何となくですが、大学の付属校に行きたいと思うように。それでいくつかの私立高校を受験して、合格したいくつかの高校の中から選んだのが、慶應義塾高等学校だった。ここに決めた一番の理由は、自宅からの通学時間が30分と、一番近かったからなんですけどね(笑)。

<柳澤大輔をつくったルーツ2>
7年間1度もバイトを休まなかった責任感。
与えられた課題に自然と応えてしまう“体質”

 高校では、体育会自動車部に入部しています。友だちに誘われて見学に行ったら、ハイチューをくれた(笑)。で、そのままほかの部を見学することなく、入部を決めました。日本でひとつしかない、「高校の自動車部」というポイントが決め手です。重いステアリングのマニュアル車で、フィギュアという競技の練習に励みました。高校生ですから公道を走ることはできませんが、広い慶應のキャンパスには部専用の道路スペースがあったので。フィギュア競技とは、指定された駐車スペースに車を運転して入れながら、そのタイムを競うというもの。重ステ、反クラッチで、意外と体力がいるので、腕立てとか筋トレは必須です。大磯ロングビーチで行われた大学生大会に、高校生特別枠で出場し、フィギュア競技に選手として参加したこともあります。大学生は別競技もありますが、僕たちはフィギュア専門だったので、意外と好成績を残していました。

 あとは高校の仲間と、たまに麻雀で遊んでいました。この頃、カヤックの共同経営者である、貝畑政徳に出会います。ゲームおたくの彼でしたが、なぜか意気投合し、「大人になったら何か一緒にやろうよ」と話していました。あと、1年の頃から大学を出るまでの7年間、ずっと塾の講師のバイトを続けています。生徒と雑談しながら講義することが面白かったですね。ちなみに、このバイトを僕は一度も休んだことがないんです。社会人になってからわかったのですが、世の中には休める仕事と、休めない仕事があるんですよね。今、たとえば飲食店など複数人スタッフがいるような場合、バイトさんが「今日は体調悪いので……」と連絡してくることもある。でも、塾の講師って、簡単には休めない。当時はバイトでしたが、生徒が待ってくれているのに、休めないですよ。そもそも僕は、責任感が強いというか、与えられた環境で自然と頑張る。これは持って生まれた体つきというか、“体質”なんだと思います。体調を崩したくらいで休ませてくれる会社は、幸せな職場なのかもしれないですね。

 その“体質”なのか、学生の本分である勉強もそこそこやっていました。1年生の時の担任が数学の先生だったのですが、毎回テストで100点を取っていたそうです。たまには98点とかあってもよさそうなのに、何度も連続で。父母面談を受けた母からその話を後になって聞いて、先生にほめられていたことを思い出しました(笑)。確かに、微分・積分とかも取っていたし、数学は好きでしたね。でも、ほかの教科も意外と頑張っていて、10段階評価で平均8点以上。クラスの上位、10人くらいにはいつも入っていようです。成績がいい人が大学の学部を選ぶ時、慶應の場合、文系なら経済、理系なら医学部、理工学部とかを選ぶのですが、僕が選んだのはまだ開学して3期目だった湘南藤沢キャンパス(SFC)の環境情報学部です。新しいし、ここも家から近かったですしね。ちなみに、父からも母からも、進路選択について、「こうしたほうがいい」と言われたことは、生まれてこの方ありません。

<SFCへ>
大学卒業後は仲間3人別々の道を行くことに。
共同経営することは沖縄旅行で決めていた

 大学の勉強もけっこう楽しかったですよ。1年の成績は、記憶では1つの教科を除いてオールAでした。カヤックのもうひとりの共同経営者、久場智喜との出会いも、大学1年の時。同じクラスで、遅刻して教室に入ってきた彼を一目見て、興味を持ちました。言葉にしがたいオーラを放っていたんです。特に髪型が奇妙で、「そのヘアスタイルは?」と尋ねると、「料理で使うボウルを頭にかぶって、そこからはみ出た部分を自分でカットしている」と言います。その話を聞いて、こいつは絶対に面白いとますます興味がわき、すぐに仲良しになりました。久場は沖縄県出身、秋田県育ち。スノーボードを彼から教えてもらい、ふたりだけのスノーボードサークルを結成(笑)。1、2年の頃は、雪山にはまってました。始めた当初はまだ人気が下火だったスノボですが、僕たちが4年になる頃には、ブームになってました。

 そんな久場と高校時代からの親友、貝畑と、1年の時に沖縄旅行に出かけました。将来、会社をやるにせよ、二人よりも三人のほうがいいと考えていたのです。この旅行では、いつか三人で一緒に会社をやろう、かっこいい大人になろう、一発当てようなど、いろんな将来のビジョンなどたわいもない話をした気がします。僕は大学3年からニューラルコンピューティングのゼミでインターネットの研究を始めています。この頃に初めてブラウザを使ってみて、これは面白いと。まだまだネットの利用環境は脆弱でしたが、技術革新は日進月歩のスピードです。そのうちにレポートはメールで提出するようになり、プログラミングを覚え、ホームページや簡単なゲームをつくったり。インターネットが世の中に広がっていくという予感は、そのうちにだんだんと確信となっていきました。

 3年生の就職活動を始めるタイミングで、「一度社会に出てから、それぞれの経験を持ち寄って、また集まろう」と話し合いました。その結果、僕は就職し、貝畑は大学院へ、久場はアメリカ放浪の旅へ出かけることに。僕の場合、そのうち起業するつもりだったので、早くに仕事を任せてもらえる会社であること、スーツとネクタイに苦手意識があったので、固くない業界であることを前提にしていました。ネクタイ締めて就職試験受けていたら、暑くてノボセタこともあり、答案用紙を鼻血で血だらけにしてしまったこともありますから。あとは、将来性や打算ではなく、自分が本当に面白いと思えるかどうか。その直観を信じました。たとえば、内定をいただいた会社の本社ビル前に張り込んで、どの会社の先輩社員が一番楽しそうにしているか眺めるわけです。その中からお世話になろうと決めたのが、ソニー・ミュージックエンタテインメントだったのです。

<面白法人、誕生>
3人で面白いことをして、喜びを分かち合いたい。
それがカヤック、スタートの原点であり本質

 ソニー・ミュージックエンタテインメントでの仕事はとても面白く、思ったことにチャレンジできる予想どおりの職場でした。配属先はソニー・ファミリークラブ。いわゆる通信販売事業です。2年後をめどに起業したいと考えていましたから、そのために役立つことはどんなことでも吸収しようと、与えられた仕事に全力で取り組み続けました。本当にいろんな仕事を経験させてくれる会社で、企画から、商品の買い付け、カタログ制作、顧客対応まで、通信販売事業の上流から下流までを、一気通貫で。自分のアイデアでオリジナル商品を開発しました。そんな会社のことは好きでしたけど、毎日行きたくてたまらないということはなかったです。でも、カヤックを立ち上げてからはずっと、毎朝会社に行きたくて仕方ないです。

 久場は、アメリカを放浪していましたが、会社員になった僕と、大学院で研究を続けていた貝畑は、卒業後一緒に住んでいました。お互い忙しく、土日くらいしか顔を合わせられなかったのですが。ただ、大学時代に僕たちが話し合ってアイデアを出していたITビジネスが、どんどん世の中でかたちになっていく。その様を見て、「早くやらなきゃ」という思いも募り始めました。で、貝畑が大学院を修了するタイミングで、いよいよ始めようと。アメリカにいる久場に、「そろそろやるよ」と手紙を書いて。彼ももうやることがなかったみたいで、すぐに帰ってきて(笑)。普通は何を事業内容にするかを先に決めますが、僕たちの場合、何をするかよりも、誰とするかが重要でした。とにかくこの3人で面白いことをして、喜びを分かち合いたい。それがカヤック、スタートの原点であり本質です。

 ちなみに、カヤックの社名は柳澤の「や」、貝畑の「か」、久場の「く」、創業メンバー3人の頭文字を並べ変えて付けました。ロゴデザインは、イヌイットが狩猟に用いる皮張りの小舟で、オールが3本。3人でしっかり、この船を漕いでいこう。そんな思いを込めました。創業前に先輩から「共同経営はお金でもめるからやめておけ」と言われたことがあります。この忠告を忘れないようにと、決めたのが給料の一定部分をサイコロで決める「サイコロ給」のルール。そもそも人が人を評価するのは難しい。給料が上がった下がったくらいで、一喜一憂するのも馬鹿らしいでしょう。だから、給料なんてサイコロで決まるくらいがちょうどいいんです。そうやって3人で、どうやったら会社そのものが面白くなるか、会社の存在そのものがコンテンツになれるかばかりを考えていました。だから、カヤックのキャッチコピーは面白法人なのです。

●次週、「古都・鎌倉から“面白い仕事”を世界に向けて発信中!」の後編へ続く→

多くのWebクリエイターが入社を希望する、
サイコロを振った出た目で給料が決まる会社

<合資会社からスタート>
受託仕事と自社サービスの両方をやる。
なぜなら両方やりたいことだったから

  面白法人カヤックは、1998年8月に“合資会社カヤック”として設立され、7期目の2005年1月に、“株式会社カヤック”として事業を引き継ぎ再スタートしています。創業当初は、江戸川橋のマンションの1室が僕たちの仕事場兼自宅でした。パソコン3台のスタートで、まさに3人が川の字に寝るという生活です。当初から受託仕事も、自社サービスも、両方やろうと決めていましたが、まずは自社のホームページを充実させることに。Webサイトの制作を請け負いますというポイントをしっかり押さえながら、とてもていねいにつくり込みました。そんなカヤックの自社サイト自体が、さまざまなクライアントから「ここならしっかり仕事をしてくれそうだ」と信頼され、口コミや紹介で受託仕事の依頼が来るようになりました。また、翌年の7月には「第1回777カヤック☆フェスティバル」と銘打って、7つの自社サービスをリリース。その後、3年くらいはその状態を繰り返しながら経営を続けています。

 自社サービス立ち上げの体力をつけるために受託仕事をしていると、疲弊するという忠告を受けたこともあります。しかし、カヤックの場合、受託自体もやりたい仕事のひとつです。ただし、何でも受けるというスタンスではなく、技術領域や、あの会社とならというように、当社なりに仕事を選んでいるのです。いずれにせよ、仲間みんなが楽しい、面白いと思える仕事をするということがポイントです。また、自分たちでやりたいと思ったサービスでも、別の会社と組んだほうが成功までの道のりはが早いものもあります。そんな時は、こちらからご提案にうかがい、提携することもあります。そして、2001年、受託、自社サービスの事業に集中するため、カヤックは自社サービスをメイン事業とし、受託サービスを請け負う、クーピーという別会社を設立。そしてその後2008年9月に、両社は合併することになります。

  これまでカヤックは、数えきれないくらいの自社サービスをリリースしてきました。もちろん、残っているものもあれば、消えていったものもある。時代的に登場が早すぎて残念な結果に終わったものもある。今も稼働している自社サービスを少しご紹介すると、たとえば、絵を描く人なら誰でも参加でき、1cm2=5円で絵を測り売りするオンラインショップ「ART-Meter」。これまでの販売総面積は、畳900枚分を突破しています。そして、建築家と施主とをつなぐ家づくりマッチングサイト「HOUSECO」は、2005年からカヤックで運営しているサービスですが、国内最大級の家づくりコミュニティに成長しました。「HOUSECO」で建った家は120軒強、家を建てたい人の登録は9000人以上、建築家も3000人を超えました。日本初の音声専門コミュニティサイト「こえ部」は、ユーザー数が34万人となり、熱狂的に利用してくれている人がいるサービスです。ほかにも、当社で立ち上げて軌道に乗せ、他社に売却したサービスも多数ありますよ。

<つくる人を増やす>
社員が増えても雰囲気ややり方は変わらない。
人数が多いと仕事の価値が上がることがわかった

  カヤックは、「量が質を生む」という考え方を大切にしています。僕たちは残念ながら天才ではなくて、凡人なので、できるだけ多く数を打ち、継続する。そして、その仕事を誰よりも楽しそうに行う。だから、当社の経営理念は「つくる人を増やす」なのです。会社を大きくすると決め、そのための舵を切り始めたのが2005年頃。1998年、24歳でカヤックを始めて、3人でやりたいことを話し合いながらやってきたわけですが、やりたいこととその結果はさほどぶれていないと思います。3人の世界観が安定してきたということなのかもしれません。鎌倉市に本社を移し、それから数年で一気に社員数が増えていきました。社員が増えたからといって、社内の雰囲気ややり方は、全く変わっていません。逆に同じことをしていても人数が多いと価値が上がるということがわかりました。これも、何をするかより、誰とするかを、常に考えながら仲間を増やしてきたからだと思います。

 ちなみに、カヤックでは過去に支社を静岡につくったことがあります。これは、長くうちでプログラマーとして頑張ってきた社員のためにつくったものです。彼の実家が静岡で、実家の都合で静岡に戻らなければならなくなりました。新幹線通勤してもらうことも検討しましたが、最初はよくても、そのうち通勤時間の長さに疲弊してしまい、長くは続かないのではないかと。SOHOというスタイルも確かにありますが、僕たちは個人が成長するためには、仲間との対面コミュニケーションがある環境が必要だと考えているので、それもなし。その社員も「カヤックのみんなと一緒に頑張りたい」と言ってくれた。そこで、この解決方法として浮かんだのが、「静岡に支社をつくる」ということでした。そして、社内で支社勤務の希望者を募ったところ、彼を慕って静岡に行きたいという社員も登場。彼には技術者集団を組織してカヤックの仕事を静岡でやってもらいながら、これから技術者として成長を目指す新人の研修センター的な役割も担ってもらいました。この支社は2年ほどたったところで、その目標が達成できなかったことを理由に閉鎖しています。しかしながら彼の個人的な事情も変わり、現在鎌倉で働いています。

 ほか、海外に一定期間設ける「旅する支社」は、今年は京都支社も開設しています。これは、計画停電対応のようなものなのですが。ただ京都に支社を置くことによって関西方面からの採用強化も図れます。そもそも鎌倉に本社を置いたのも、「ここはいい場所だなあ」と感じた僕の直観なので。どうやったら自分たちが楽しく働けるかを突き詰めていって、「本質からずれない何でもアリ」を見せていけば、それに勇気づけられる人がいた結果、今があります。できないと思っている人って実は多いけど、本質からずれてなければそれはできてしまうし、意外と続いていくものなのではないかと思うのです。

<未来へ~カヤックが目指すもの>
とりあえず、規模の拡大を今後も目指します。
どこまで自分たちの力でいけるかやってみたい

  2007年に、カヤック初の飲食事業「DONBURI CAFE DINING bowls」、そして今年、ホットドッグカフェ「スマイルドッグ」をオープンしています。僕自身が飲食店に興味があった、また、社員が「飲食事業をやりたい」と手を挙げたため始めました。面白法人としての価値を確固たるものにするために「鎌倉本社」と「飲食」はセットだと思っていますが、外から「何でカヤックが?」と聞かれると、ちょっと説明が難しいかもしれません。今のところ、両店とも順調ですが、進退を見極めるタイミングは必ずやってきます。ただ、どんな事業であっても、スクラップ&ビルドが宿命です。そこは意外とあっさりドライにいきます。そういった意味で、ひとつのプロジェクトに固執しすぎる人はうちには向かないかもしれませんね。手がけていたプロジェクトがなくなったら、また別のやりたいことを見つけてほしい。カヤックはすごく楽しい職場だとは思いますが、合う人、合わない人はいますよね。どんな人でも楽しいっていう組織は焦点がぶれると思います。やはり会社には、他社と競いながら、売り上げや利益を追求する目的がありますから、そこはスポーツに近い。強いチームにしたいなら、どこかを絞る必要があるのと同じだと思います。

 先ほども言いましたが、規模の拡大を今後も目指します。どうせやるなら、どこまで自分たちの力でいけるかやってみたい。それは社員数だったり、売り上げだったり、一つ一つどこまで成長できるか、スピード感を持って挑戦していきます。その過程で、世界への進出という目標も重要なポイントなので、社内の外国人比率も上げています。「つくる人を増やす」の理念に則って、優秀なWebクリエイターを増やし、世界マーケットから注目される企業にしていきたい。もちろん、カヤックらしさを失わないことが大前提です。Webで何か面白いことをしたいと考える人が、入りたいと最初に思い浮かべてもらえる会社になりたいですね。そうやって大きくなればなるほど、やれることも増えてきますが、世の中に対する責任も増えてくる。それは紛れもなく会社の成長ですし、個人としてもそのプロセスで確実に成長できるので。と、バックリとした話で申し訳ないのですが、今のところ「大きくしていきますよ」としか言いようがないんです(笑)。

 あとは、事業領域でいいますと、2010年からゲームに力を入れています。ここは今後も注力していきます。ソーシャルゲームって、みんなで遊ぶゲームなんで、みんなでつくるカヤック向きだと思うんです。そして、経営者として会社を大きくしていく、そしてユニークさは失わず、クリエイターから選ばれる会社にしていきたい。事業部以下に関してはほぼ、任せられる体制が構築できたので、僕は、世界に類を見ないオリジナリティを持った会社としての存在感をつくるための指揮に全力を注ぎます。そうすることで、社内にいるメンバーも価値が上がっていく。それが経営者としての僕の役割だと。一方で、僕個人としては、やはりものづくりに携わり続けていきたい。カヤックのホームページは2年毎にリニュアルしますが、毎回、僕が指揮を執っています。自分のクリエイターとしてはもう成長がない気がしていますが、、「あ、この人すごいな」と思えるクリエイターと、たくさん仕事したいですね。そんな人がカヤックに入社してくれた時が、今、一番ワクワクする瞬間です。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
確実な未来なんて誰にもわかりません。
自分の人生、面白がってやってみるしかない

 2008年にリーマンショックが起き、今年、東日本に未曾有の被害をもたらした大地震が発生し、今、僕たちは何が起きるかわからない時代を体感しながら生きています。でも、人生にしても、起業にしても、何が起きるかわからないのは同じこと。確実なものって実は世の中に一つもないのだけど、やりたいことがあるにも関わらず起業を怖がって躊躇している人や、すでに起業していて順風満帆で今が延々と続いていくと思っている人ともきっといますよね。でも、繰り返しますが、確実な未来なんて誰にもわからないんです。そもそも何が起こるかわからないのが人生なんだから、そこを面白がってやってみるしかない。そういった意味では、予想外のことが起こりすぎた昨今、どんなチャレンジに対しても、覚悟ができやすい時代になった気がしています。だからこそチャレンジしよう。そいうとらえ方ができるかどうかで、いろんなことが変わって見えてくると思います。

 不確実なことに対応していくために必要なのは、変化であり、多様性です。カヤックの社内的なキーワードですが、「変化し続ける」ということを、すごく大切にしています。エピソードとして、社員の彼がこう変わったということがあれば、それはすぐに社内に伝えていくし、評価制度の中にも、「この半期であなたは何が変わったか」が常に問われるんです。みんなから「変わってないじゃん」と言われたら、基本ダメ。「髪型変えました」でもいいんです、何だって(笑)。そんな「変化し続ける」文化が浸透していますから、創業からずっとそれを積み重ねてきた結果として、今のカヤックが存在しているわけで。僕もこの10年で考え方はかなり変わってきたと思います。自分ではなかなか変化に気づかないですが、「変わった」と言われることって、すごく嬉しいですよね。もしも起業して3年間変化なく同じことを繰り返している人は、注意が必要だと思います。

 僕が、「仮に、カヤックという会社をなくしてしまったらもう一度起業するか?」と聞かれたら、「やっぱり、いい仲間ができない限り、起業しない」と答えると思います。僕がカヤックを続けられているのも、いいメンバーが集まって働いてくれるのも、自分たちにとって尊敬できる仲間が集まっているからだし、ここでなら自分が変わり続けられるし、成長できると信じられるからなんですよね。この結果は、起業でも、起業でなくても、僕にとってはあまり関係なかったというのが本音です。そこに共感できるWebクリエイターの方なら、起業だけにこだわらず、カヤックに来てくれてもいいと思うし、どうしても起業したいなら、起業する際に、一緒にやることになる人にはとことんこだわってほしい。そうすれば、きっといい会社ができると思います。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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