第135回 特定非営利活動法人フローレンス 代表理事 駒崎弘樹

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第135回
特定非営利活動法人フローレンス/
代表理事

駒崎弘樹 Hiroki Komazaki

1979年、東京都江東区生まれ。高校時代、奨学生制度を活用し、アメリカに留学。1999年、慶応義塾大学総合政策学部入学。在学中に学生ITベンチャー経営者として、さまざまな技術を事業化。同大卒業後「地域の力によって病児保育問題を解決し、育児と仕事を両立するのが当然の社会をつくれまいか」と考え、ITベンチャーを共同経営者に譲渡し、フローレンスをスタート。日本初の「共済型・非施設型」の病児保育サービスとして展開。現在、東京23区および浦安市、川崎市、横浜市の働く家庭をサポートしている。また10年から待機児童問題の解決のため、空き住戸を使った「おうち保育園」を展開。政府の待機児童対策政策に採用される。2010年1月より6月まで内閣府非常勤国家公務員(政策調査員)、5月より明治学院大学非常勤講師、6月より厚生労働省「イクメンプロジェクト」推進委員、10月よりNHK中央審議会委員に任命。12月より内閣府「新しい公共」専門調査会推進委員に任命。2010年9月、一児の父に。著書に『「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方』(英治出版)、『働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法』(ちくま新書)、『「社会を変える」お金の使い方-投票としての寄付 投資としての寄付』(英治出版)。

ライフスタイル

趣味

子育てです。
2010年9月に、1児の父となりました。以来、お風呂に入れたり、ごはんを食べさせたり、寝かしつけたり。子育てが一番の趣味となりました。

行ってみたい場所

東日本の被災地です。
3.11以降、何度もボランティアに出かけているのですが、もっともっと東北地方の被災地に出かけて、困っている方々のために何かをしたいと思っています。

好きな食べ物

ハヤシライスです。
好きな食べ物はハヤシライスです。お酒は人並に飲みます。

お勧めの本

『「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方』(英治出版)
著者 駒崎弘樹
アンカー
その小さなアクションが、世界を変える! 元ITベンチャー経営者が、東京の下町で始めた「病児保育サービス」が全国に拡大。「自分たちの街を変える」それが「世の中を変える」ことにつながった。汗と涙と笑いにあふれた、感動の社会変革リアル・ストーリー。

補助金なし、施設なし、日本初――。
病児保育サービス事業が社会を変える

26歳、独身、子どもなし――。2005年4月、ひとりの青年が、ある社会問題を解決するために立ち上がった。その社会起業家の名は駒崎弘樹。特定非営利活動法人フローレンスの代表理事として、東京・江東区でスタートさせた日本初の共済型・非施設型の病児保育サービスが、保育業界の“闇”に切り込んだ。そして今、同サービスの提供エリアは、東京23区、横浜、川崎、浦安に広がり、約1700人世帯の共働き家庭の不安を取り除いている。また、病児保育以外にも、待機児童、ワーク・ライフ・バランスなどの問題解決にも進出した。「組織の規模が大きくなったこと、早期黒字化を実現できたことよりもずっと、子育てママからの『ありがとう』の声が一番大事。この声をいただくことが、僕たちにとって最高の誇りだと思っています。」。今回はそんな駒崎氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<駒崎弘樹をつくったルーツ1>
東京の下町に生まれ過ごした少年時代。
丸刈り校則の公立中を嫌い私立へ進学

 父も経営者だったか? いえいえ、まったく。普通のサラリーマンですよ。僕が生まれたのは東京・江東区で、周辺に小さな工場が多く集まる、ドがつく下町の大きな団地に住んでいました。母はちょっとした自営業を営んでいて、きょうだいは、年の離れた姉がふたり。なので、まるで3人の母に育てられているような感じでした。たくさんかまってもらった記憶がありますけど、けっこううっとうしかったかも(笑)。一方、寡黙な父は、うるさいことを何も言わない、僕にとっては放置プレイヤー的な存在でした。そんな共働きの家庭環境でしたから、小さな頃、母に急な仕事が入った時や、僕が急に熱を出してしまった時など、同じ団地に住んでいた「マツナガさん」というおばさんが、よく預かってくれていたんです。当たり前ですが、この経験が今の仕事のアイデアにつながるなんて、当時は思いもしませんでしたけど。

 小学校時代の記憶って、薄いんですよね。普通の公立校に通っていました。ああ、そういえば、団地の管理人に、敷地内での缶けりを禁止されたんですよ。それがどうしても納得いかなくて、団地内の友だちを集めて作戦を練った。で、何をしたかというと、階段の上から、水を入れた風船を管理人に投げつけるという。その作戦を決行したことよって、何の改善効果もなかったんですけど(笑)。高学年になってから、中学受験のため塾に通い始めました。当時、下町の小学校で塾に行っているやつって少ないですから、学校の成績は良かったですよ。なぜ受験することにしたか。それは、進学予定先だった公立中学が、全国で2校しかない、男子生徒に丸刈りを強要する校則だったから。そんなどうでもいいことを学校側に決められるのが許せなくて、私立に行くことを自分で決めたというわけです。

 いくつかの中学を受験したのですが、希望の学校からはフラれ、滑り止めで受けた千葉にある中高一貫の男子校に進学することに。周辺の住民から生徒が「ゴキブリ」なんてありがたくない名前で呼ばれる学校でした。黒いガクランのボタンが金ではなく、黒だったこと。あとはマナーが悪かったから。夏は暑いからパンツ一丁で授業受けてたり(笑)。第一の教育は家庭、第二の教育は学校のはずなのに、自ら学ぶ第三教育を教育の柱とする学校だったんです。だから、自分のことは自分で決めればいいと。先生たちもある程度のことならまったく注意しない、とても自由な校風でしたね。部活動はバスケット部に入部していましたが、ひざを悪くして途中でやめてしまいました。

<駒崎弘樹をつくったルーツ2>
高校を休学し、アメリカの田舎町へ留学。
自由の国と思ったら、そうじゃなかった

 学校の部活以外では、個人的に、空手の道場やボクシングジムに通っていましたが、高校に上がってからは、バンド活動にはまりました。ビジュアルバンドブームだったから、女の子にもてると思って。文化祭でライブを演ったら近所の女子学生がたくさん観に来るだろうと。でも、いつも観客は男ばっかり(笑)。あとは、合コンですね。多い時は週に10回くらいやってたんじゃないでしょうか。モテようとカッコつける男は実に恥ずかしい。だから、どこまで女の子の前でアホができるか、その場をぶち壊すくらいの笑いが取れるかが、男としての本当の価値。結局、常にドン引きされるわけですが、合コン終了後に男だけで集まる反省会が最高に面白かった。今でもあまり羞恥心、ないです。でも、人生をうまく渡っていくうえで必要なことの多くを、合コンから学んだと思っています。

 中学では意外と成績が良かったので、高校は進学クラス。でも、大学受験予備校に通うような奴らばかりで、つまらない。僕は昭和54年生まれです。物心ついた時には、バブルが崩壊し、友人の父親がリストラされている。いい大学に行って、いい会社に入れば、人生最高。そんなことはうそっぱちだと思っていました。だんだん学校に行くモチベーションが下がって、愚痴ってばかり言っている僕に、姉がアドバイスしてくれたんです。「自分から枠を飛び出せばいいじゃない。留学してみれば」と。すぐに文部科学省に電話して、留学制度について教えを請いました。そうすると奨学金制度のある某団体を紹介され、またすぐに連絡。電話したその日が、ちょうど応募締め切り日だったのですが、「今から事務所に来れば間に合う」と。その足で事務所に伺い、応募書類を提出したら、幸運にも合格したんですよ。

 高2でいったん休学して、渡った先は、アメリカ・ワシントン州の田舎町。日本人は僕一人。ホストファミリーは、農家を営む大家族。しかも、キリスト教の中でも禁則生活を強いられることで有名なモルモン教徒。婚前交渉は当然禁止、コーヒーなどの刺激物はダメ、おまけにテレビもない。自由の国に来たはずなのに、全く自由じゃない(笑)。それでも、現地の高校に通った1年間は、最高に刺激的でした。街を歩いていたら珍しがって、いろんな人たちが声をかけてくれる。歴史の授業では、第二次世界大戦の考え方の違いでクラスメートとやり合ったこともいい思い出です。中でも感心したのは、社会貢献活動に取り組む同年代の若者たちの姿。日本だとみんな恥ずかしがっちゃうようなことを、照れなく自然にやる。アメリカ人は資本主義経済の権化という側面も確かにありますが、ここに来なければわからなかったことを、身を持ってたくさん体験できた留学生活でした。

<SFCへ>
大学卒業後は就職という選択肢だけではなく、
起業するという線もありだと思い始める

 帰国後、どこの大学へ行こうかと調べる中で、慶應義塾大学総合政策学部(以下SFC)が面白そうだと。しかも、試験は留学時代に培った英語と、小論文のふたつのみ。読書が好きでしたから、小論文も自信ありでした。そして無事に合格し、通い始めた湘南キャンパスでの大学生生活は、予想以上に楽しかった。授業もとても刺激的なものが多かったですし、周りにいる仲間のモチベーションも高い。自ら何かをしたいと考える生徒が多く、そんな環境にいると、「おまえは何をしたいのか」と常に問われるわけです。前向きな言動を嫌い、いきいきしている人の足を引っ張っていた高校時代と違い、SFCは前向きな人間に拍手を贈ってくれる。アメリカでも同じような感覚を覚えましたが、これはとてもいい! そんな大学で、僕の新しい生活が始まりました。

 1年目は、映画制作サークルを立ち上げて、みんなで自主制作作品をつくりました。ぴあが主催している、ぴあフィルムフェスティバルなどにも出品しました。そして2年目。小さなコンサルティング会社でインターン活動を開始。ちょうど、カフェブームが盛り上がっていた頃で、東京中のカフェを調査目的で訪問し続けました。僕より少し年上のカフェオーナーたちが、自己責任で素敵な空間をつくり、目をキラキラさせてお店を経営している。大企業に入社したとしても、同じ年で彼らのような仕事へのモチベーションと、大きな決裁権が持てるのだろうか? インターン活動をとおして、そんな疑問が頭をよぎった。この時ですね、大学卒業後は就職という選択肢だけではなく、自分で起業するという線もありだと思い始めたのは。

 3年目、ひょんなきっかけで、後輩が起業したITベンチャー企業の社長に就任しました。僕に声がかかった理由は、技術系の人間ばかりで、マネジメントが弱かったということ。それからの2年間は、経営に没頭しました。大学生なのに、生活が仕事、仕事が生活という毎日です。みんなで頑張って、数千万円の年商を挙げるまでの規模になったのですが、経営にのめり込むほどに、自分は何のためにこの仕事をやっているのかが見えなくなり、違和感がふくらんでいった。その違和感の正体を突き詰めていくうちに、自分はお金儲けではなく、社会に役立てる活動をしたいことに気づいた。で、アメリカのNPOのサイトを調べる中で、事業によって社会問題を解決する、社会起業家が活躍している現状を知ることになるんです。

<さらばITベンチャー>
社会に役立つ何かのために自分を使いたい。
その気持ちを信じ、「保育業界の闇」に挑む

 社会起業家――。これだ! とは思いました。ただし、どんな社会問題に取り組みたいのか。そこはまだ漠然としたまま。そんな気持ちでベンチャー企業の経営を続けていたある日、ベビーシッターをしていた母から聞かされた話を思い出しました。それは、熱を出した子どもの看病のために、何度も仕事を休まざるを得なかった女性が、会社を解雇されてしまったという話。そもそも子どもは熱を出すことで免疫力を付けていくもの。一般の保育園は園児が熱を出すと預かってくれない。だから母親が仕事を休んで看病する。それで会社をクビになるのなら、子育てをするなと言っているに等しいわけです。さらに調べていくうちに、この「病児保育問題」は、昔から「保育業界の闇」と言われてきたことがわかった。だったら、自分が事業の手法で、この“闇”を消し去ってやろうと

 そんな思いに至り、進むべき道が見えたおかげで、気持ちに整理ができました。そして、代表を務めていたベンチャー企業の経営を同僚に譲り、僕は大学を卒業。フリーターとして、知人の会社を手伝いながら、「病児保育問題」解決のための仕組みを調査・検討し始めました。そこそこうまく回っている会社の社長という肩書を捨ててしまう自分。でも、まったく怖くありませんでしたね。この日本で飢え死にする心配はたぶんないですし、無理だったら自衛隊に入隊して、平和維持のための活動をするんだ、くらいに開き直っていました。なぜなら、お金儲けして買いたいものも特になかったですし、そもそも自分が納得して取り組めない仕事は、苦業でしかないと感じていましたから。

 ネット検索で、「病児保育問題」が、子育てしながら仕事をしている母親にとって、一番の不安だということはわかっていました。が、生の声を聞くために、子育て中の女性たちから意見を聞きまくりました。人妻専門のテレアポみたいで、かなり怪しかったのではないでしょうか(笑)。また、病児保育を扱う施設があるにはあることもわかりました。しかし、そうした施設は行政からの補助金を受ける代わりに、利用料金を低く抑制されて、ほとんどが赤字経営を強いられている。経営視点で普通に考えればおかしいわけです。門外漢だからわかる、できることがある。そして活動を開始した1年後の2004年、特定非営利活動法人フローレンスを設立し、代表理事に就任。あるアイデアを気に入ってくれた、東京都内のある自治体と、「病児保育」施設の開業が間近に迫っていました。

●次週、「闇と言われた病児保育問題を解決し、補助金なしで黒字化!」の後編へ続く→

自分たち一人ひとりが「変化」となることが大事。
「社会を変える」仕事がさまざまな社会問題を解決

<ヒントはマツナガさん?>
脱・施設、脱・行政&補助金で、
日本初の病児保育サービスを立ち上げる

  事業として成り立つ仕組みをさまざまな方向から検討する中で、空き商店街を活用した病児保育施設のアイデアが浮かび、一度はある自治体との話が進んでいたんですよ。しかし、それが寸前でおじゃんに。本来であれば、課長決裁で進められる案件だったのですが……。理由は、その昔、市民運動団体といざこざがあったことを思い出した区長が突然NOを出したから、と。そもそも、NPOは市民運動ではない。もうそこからして勘違いなわけです。その時はかなり落胆しましたが、すぐに次のアイデアが頭に浮かびました。それは、脱・施設、脱・行政&補助金。僕が子どもの頃、お世話になった団地の「マツナガさん」を大量生産するというもの。近所の医療機関との提携を取り付けたうえで、育児や保育経験のある女性にお願いして、ベビーシッターのように1対1で病児保育をしてもらったら――。

 資金的なリスクと引き換えに、自由を得たといった感じです。補助金をもらわないので、自由な料金設定ができる。さらに預かる施設もつくらない。その仕組みはこうです。急に病気になった子どもを「こどもレスキュー隊」と名付けた、マツナガさんのような地域の子育てベテランママが迎えに行き、自分の家か子どもの自宅で預かります。料金に関しては、再び人妻テレアポで、適正価格をヒアリング。でも、子どもが病気にかかりやすい冬場に利用が集中するなど、季節ごとの利用変動が大きく、キャッシュフローが安定しなくなる恐れがありました。そのため、料金は利用のたびに払うのではなく、毎月定額を支払ってもらう。利用してもしなくても定額料金はかかりますが、必要な時は何度でも預けることができるというわけです。こうして、フローレンス独自の「非施設型」「共済型」の病児保育サービスが誕生しました。

  ちなみに、「こどもレスキュー隊」の隊員第1号は、無理矢理お願いしたうちの母です(笑)。そのほかの「こどもレスキュー隊」の募集は、ポスティングで。母や姉と手分けして、数万枚は配り歩いたと思います。チラシ1万枚につき、1名くらいの反響数でしたね(笑)。そして、東京の江東区と中央区をサービス提供エリアに定め、5名の「こどもレスキュー隊」、十数世帯の利用会員を対象に、2005年4月にサービスを開始。半年くらいを実質テストマーケティング期間と置きましたが、予想を超える反響がありました。開始数カ月で40世帯の家庭が入会しキャパオーバーとなり、いったん入会をストップ。その間にも利用希望のメールがどんどん入り続け、一時は250世帯が順番待ちをしている事態に。僕たちは“世の中を変える新しい仕事”の手応えを、ひしひしと感じ始めていました。

<笑顔と元気を創出する>
子育てママからの「ありがとう」が一番大事。
この声こそが、僕たちにとって最高の栄養

  フローレンスの病児保育サービスを展開する中で、あるお母さんから言われたことがあります。「私たちが待ち望んでいた仕組みだと思います。でも、私のようなシングルマザーで、非正規で働いている立場の者では、この会費すら払えません」と。愕然としました。共働き世帯の収入を想定した利用料金でしたから。その後すぐに、限定商品「ひとり親パック」を設置。これは1050円の月会費で、通常の正会員と同じサービスが受けられるというもの。当該サービスのみの使途限定で、子育てママを支援したい方々からの寄付を募っています。フローレンスを過去に利用した親御さん、病児保育に理解があるお医者さんなど、本当に多くの方々から寄付をいただいているんです。また、企業スポンサーからの寄付も。日本も捨てたもんじゃないってことを、実感させてもらいました。

 実はサービスを始める前、「フローレンスの話を聞きたい」と、厚生労働省の人から連絡がありました。後日、その人が訪ねて来たので、フローレンスの仕組みや、活動内容をていねいにお話ししたんです。しかも、研修マニュアルまで渡して。それから少したったある日、日経新聞の夕刊を読んでいたら、「子育てOBママが出動」という記事が。端的に言うと、何の了承も得ず、フローレンスの仕組みがパクられて、政策になってしまったと……。もちろん頭にきました。でも、冷静になって考えてみると、僕一人が病児保育問題に立ち向かうより、国が支援してくれたほうが、問題の解決は早まることに気づいた。ある協力者の方からも、「国にパクられてやっと一人前と思いなさい」。そう励まされました。そして、己のケツの穴の小ささを反省したのです(笑)。

 感染症を含む病児保育対応が可能、Webシステムを駆使することで、利用当日8時までの予約で100%対応。ほかさまざまな日本初、独自のサービス内容を拡充しながら、その後、フローレンスの活動は、どんどん広がっていきました。一事業者としては、断トツで日本最大となる1700世帯の利用会員を抱え、今では東京23区、千葉県浦安市、神奈川県の横浜市、川崎市までがサービス対応エリアです。「フローレンスができたことで、仕事を休まなくて済むようになり、アルバイトから正社員に登用されました」。そんな嬉しい報告が、たくさん届いています。組織の規模が大きくなったこと、早期黒字化を実現できたことよりもずっと、子育てママからの「ありがとう」の声が一番大事。この声をいただくことが、僕たちにとって最高の誇りだと思っています。

<未来へ~フローレンスが目指すもの>
世の中を良き方向に変えるために、
やれることは、まだまだいくらでもある

  フローレンス独自で展開する病児保育サービスは、首都圏までと決めました。全国へは、のれん分けのかたちで広げていく計画です。開業希望者には、うちで数年間丁稚奉公してもらい、その後、業務内容をしっかり学んだタイミングで、希望エリアでサービスを開始していただく。昨年4月、その第1号として大阪で「NPO法人ノーベル」が誕生し、事業をスタートしています。サービス的にも経営的にも、順調に推移しているようです。病児保育問題以外にも、フローレンスがお役に立てるフィールドがたくさんあることに気づいたんですよね。たとえば、待機児童の問題。その8割は都市部に集中しています。10年くらい前からさまざまな取り組みがなされてきましたが、ここにもさまざまな規制があって、なかなかブレイクスルーできずにいたのです。

 海外の保育環境を調べてみると、2人で6人の子どもを預かる、小規模保育サービスがかなり発達しているんですよ。そこで僕たちが2010年の4月から始めたのが、「おうち保育園」。これは、マンションなどの空き部屋や、廃院となったクリニックを利用して、自治体の認可を受けた3人の保育ママが9人の乳幼児を預かるというもの。最初は江東区で始めて、今では横浜など5カ所に広がっています。スタート当初は、フローレンスの病児保育の仕組みをパクられて頭にきましたが、今では逆。うまく国を動かして、一緒に問題解決に取り組んでいくというやり方です。そういった意味では、僕も大人になったなあと(笑)。

 ほか、大手ディベロッパーと提携し、子育て支援マンションの企画にも協力しています。お母さんがひとりで育児をする中で悶々となり、虐待に走ってしまうという「孤育て問題」。その問題解決のため、昨年、保育園、病児保育サービスが敷設されたマンションが、東京中央区に生まれました。育児サービスだけではなく、近隣住民とたまれる場所も用意し、古き良き日本のコミュニティを取り戻そうと。100戸の子育て世帯枠は、竣工前にすでに埋まっていたそうです。さらに、働き方そのものを見直す取り組みとして、「働き方革命事業」も。仕事の効率化により長時間労働を見直すことで、子どもが病気になっても休めない会社、残業が当たり前の働き方を変えていこうというもので、主に法人向けのコンサルティングを行っています。世の中を良き方向に変えるために、僕たちにやれることは、まだまだいくらでもあるんです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
NPOが頑張ることで、国を大きくさせないことが大事。
強い当事者意識を持って、この世界に参加してほしい

 東日本大震災で大きなダメージを負った方々のために何かできないかと、NPOの仲間と相談し、ゼロ歳の子が20歳になるまで支えていく「ハタチ基金」を立ち上げました。日本財団さんからの協力を得て、東北地方復興に資するいろんな事業を展開していく計画です。今行っている事業は継続しつつ、これからも時代の変化によって生じる、さまざまな問題を解決していきたいと思っています。現在、フローレンスのスタッフは約100名、年間予算は2億3000万円。これは国内NPOの上位1%になります。僕はウィキリークスを理想のNPOだと思っていて、年間予算が3000万円で、僕たちより全然小さいんです。なのに、世界中にものすごい影響力を発揮している。いい意味にせよ、悪い意味にせよ。

 規模は小さくても、テコの原理で大きな影響力を出す、ウィキリークスはNPOの教科書。NPOは規模を目指すのではなく、インパクトを目指すものですからね。アメリカで、文系就職ランキング1位になったティーチ・フォー・アメリカというNPOがあります。優秀な大学卒業生を、教育を受けるのが困難な地域に派遣するプログラムを実施していて、そこの予算が160億円くらい。日本でいえば大手都市銀行の上に、NPOがいるような感じですね。規模も種類もさまざまなNPOが存在しているわけですが、日本でも、NPOに参加する人をどんどん増やしたいと思っています。日本には今、1000兆円の借金があります。で、国家予算は90兆円で、税収が45兆円。いつか本当に財政破綻するような状態です。ギリシャの例でもそうですが、まずダメージを受けるのは、学校、医療機関、福祉施設……。多くの子どもや老人などの社会的弱者が困ることになる。

 だからこそ、我々NPOが頑張ることで、国を大きくさせないことが大事。もう君たちやらなくていいから。僕らが代わりにやるからさ、と。政府はどんどん小さくさせて、NPOのインパクトを大きくしていく。ただ、そのためのプレイヤーが圧倒的に不足しています。だから、本当に、来てほしいです。ただ、自分が感じる問題意識に近い分野でないと、事業としての継続は難しい。もちろん、自分が感じる不便や不安だけでなく、大切な誰を助けたい思うことでもいい。当事者意識を常に持っていることが大切です。でも、大きく儲けられるわけでもないですし、社会的な栄誉を受けられるわけでもない。だけれども、この人の笑顔が見られて嬉しい、この人が問題から解放されて嬉しい。そういうものしかより所にならないんです。ぜひ、そういうモチベーションでこの世界へ来てほしいと思います。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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