第116回 ハングリード株式会社 吉武修平

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第116回
ハングリード株式会社 代表取締役
吉武修平 Shuhei Yoshitake

1975年、香川県生まれ。勉強はまったくしないが、ものづくりが大好きな子どもだった。中学生からハンドボール部に所属し、才能を発揮。高校はスポーツ推薦で、県立高松工芸高校へ進学。6年間、ハンドボールを続けたが、肩を故障したこともあり、全国大会への切符は一度も得られなかった。高校2年時、父が経営していた会社が倒産。高校卒業後、東京でアルバイト生活をしながら、将来の道を模索する。一念発起して中国への留学を決意し、北京にある首都師範大学へ入学。卒業後、システム開発会社である株式会社ユニティーベルに入社。中国留学時代に決めた30歳で独立するという目標のため、6年間勤務した会社を退職し、2006年10月にハングリード株式会社を設立した。4期目となる現在、中小企業が運営するECショップ支援を目的とした「zaiko robot」「item Robot」「Cost Cut Avenue(コストカットアベニュー)」などの自社プロダクトを中心に事業展開を行っている。

ライフスタイル

好きな食べ物

焼き肉です。
ニンジンだけはダメ(笑)。それ以外は何でも食べます。ひとつ挙げろと言われたら、焼き肉でしょうか。肉は肉屋でという考えなので、焼き肉屋に行くのではなく、いい肉を買ってきて自宅で焼いて食べるのが好きなんです。お酒も大好きですが、そんなに強くありません。ビールやワインをよく飲んでいます。

趣味

読書と散歩と自転車です。
読書と散歩と自転車です。健康管理を兼ねて、土日の休みの日はお気に入りの川沿いの道とか、自転車で20㎞ほど走るようにしています。自転車で走っていると無心になれるんですね。そうすると、思わぬ良いアイデアが浮かぶことがある。会社までの通勤手段も自転車です。

行ってみたい場所

ハワイです。
天の邪鬼なんですかね。海外旅行は好きなのですが、ハワイにだけは絶対に行くまいと決めていました。理由はみんなが行くから。でも、よくよく考えてみると、ハワイっていいですよね(笑)。社員旅行とか家族旅行とかで、行きたいですね、ハワイ。

最近感動したこと

愛娘の誕生です。
最近、子どもが生まれました。今、7か月になる女の子ですが、生まれてきてくれたことに感動し、感謝しています。何にも教えないのに、笑って、泣いて、怒って、つかまり立ちして……。そんな姿を見ているだけで、不思議な気持ちになります。朝起きるとき、会社から自宅へ帰ったとき、娘に会えると思うとワクワクします。


年間流通総額130億円、稼働商品点数100万点突破!
ECショップ運営者が待ち望んだ多店舗化支援システム

 中国留学中に、中国人たちのハングリーさに驚愕。「このままの日本では、近い将来追い抜かれてしまう……」。そんな危機感から、起業への挑戦を決意したのが吉武修平氏である。まずは自給自足できる自分をつくるのが先決。そんな氏が設立した「ハングリード」という社名には、どこまでもハングリーに、そして常に社会をリードしていく企業を目指すという思いが込められている。4期目を迎えた現在、自社開発したECショップ向けASPサービスが多くの中小企業から受け入れられ、大ブレイク目前の注目ベンチャー企業となっている。「世の中から必要とされるサービスを常に提供できていれば、会社は存続していくはず。企業は継続してなんぼ、ですからね。夢は、いつか世界的なASPを育てた日本生まれの会社と呼ばれること。どこまでもハングリーに、戦っていきます」。今回はそんな吉武氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<吉武修平をつ くったルーツ1>
意義を見いだせない勉強はまったくせず、
ものづくりが大好きだった少年時代

 生まれは香川県の高松市です。今は建物がけっこう増えましたが、僕が子どもの頃に住んでいた実家の周りは一面田んぼに囲まれていて、自然がすぐ近くにありました。父は高校受験用の教材を販売する会社を経営していまして、最盛期には従業員700人以上、全国に営業拠点があって、年商も100億円を超えていたそうです。そんな人でしたから、出張で日本中を飛び回っていて、家に帰ってくるのは月に数日程度。お金には厳しく、父が毎月家に入れるお金が決まっており、専業主婦の母がそれをやりくりしていました。5歳下の妹も僕も、決まったお小遣いは与えられず、犬の散歩をしたら30円、肩もみをしたら50円もらえる。そんな家庭環境で育ちました。父のしつけはスパルタ方式で、嫌いなニンジンを食べないと口に押し込められ、悪さをすると竹刀でぼこぼこにされて……、正直、小さな頃は父が帰ってこなければいいのにと思っていましたね(笑)。今では大変感謝していますが(笑)。

 小学生のころからひょうきんな性格で、勉強は大嫌いでした。そもそも学校で5教科を学ぶことにまったく意義を見いだせなかった。今もそうなのですが、意義がないことには打ち込めない性質なんです。通知表も「下」のオンパレード。教育関連事業を経営している父からは、「示しがつかない」と塾に通わされたり、家庭教師をつけられたり。それでも、勉強に前向きになることはありませんでした。頑固なんですね(笑)。ただ、ものづくりは好きでしたから、図工の成績だけはよかった。近所のガラクタを集めて何かつくることが楽しかったし、プラモデルやラジコン、モデルガンづくりにもはまっていきました。いろんな機械が動く仕組みを調べて、機能をアップさせる。自ら考えて、改善に成功した時の感動が、何よりもうれしかったですね。

 友だちはたくさんいました。誰とでも仲良くなれるタイプなのですが、基本的には決まった数人の仲間と遊ぶのが好きでしたね。スポーツは、小学生の頃は剣道を習いに道場に通っていました。けっこう一所懸命練習に励んでいまして、小学生では最高位の2級まで取得しました。中学でも剣道を続けるつもりでいたのですが、せっかくだからいろんな部活を見てみようと見学していたら……ハンドボール部の監督に「おまえはハンド部に入れ」と強引にスカウトされた。僕が進んだ公立中学は、全国大会に出場経験もあるハンドボールの強豪校で、その監督がものすごく怖い(笑)。それで、その場で「入部します」と返事をしてしまった。それから僕のハンドボール漬け生活が始まっていくことになるのです。

<吉武修平をつくったルーツ2>
厳しい練習に耐え抜いた6年間のハンド部生活。
肩の故障もあり、残念ながら全国へは届かず。

 正月休み以外は土曜も日曜もなく、毎日、毎日、グランドで、体育館で、ハンドボールの練習に明け暮れました。放課後から部活が始まり、家に帰るのはだいたい夜の10時をまわっていた記憶があります。フォーメーションよりも、走ってなんぼの速攻がチームの戦術でした。上下関係が厳しく、監督や先輩の言うことは絶対。僕の代は15人が入部しましたが、ほとんど辞めるやつはいませんでした。とにかく監督や先輩が怖くて、辞めたらもう学校に来られないくらいに思っていましたから、辞めるに辞められない(笑)。市内に強いハンド部がほかに2校あって、だいたい三つ巴で優勝を競う状態。僕のポジションはポストか45度で、2年生からレギュラーを獲得し、東四国国体の強化指定選手にも選ばれています。ただ、2年生の時は県大会で2位、3年生最後の県大会は2位……。残念ながら全国総体に出ることはできませんでした。

 勉強は相変わらず、です。でも、ハンドボールを頑張ったおかげで、いくつかの高校からスポーツ推薦枠のお誘いがきました。普通科の勉強は嫌でしたから、高松工芸高校の電子機械科(現在は機械科と統合)に進学することを決めました。そして当然、ハンドボール部に入部しましたが、監督は中学時代の監督の後輩で、さらに厳しく、怖い人でしたね(笑)。やっぱり正月休み以外は部活漬けの日々で、必死で練習を続けました。でも、入部して数カ月目に、利き腕の右肩を脱臼。そしたらそれが癖になり、その後何度も脱臼を繰り返すようになって。練習中に救急車で運ばれたことも何度かあります。すると恐怖でシュートを打てなくなってしまうんですよ。それから左手でシュートを打てるようにしようと思って鍛えたら、今度は左ひじがいかれてしまって……。ディフェンスメインの選手としてレギュラーメンバーには入っていましたが、部のために貢献できない自分が不甲斐なく、精神的にかなり落ち込んでいました。

 結果、ハンドボール部の戦績は2年生の時が確か県大会で2位、3年生の時は3位だったと記憶しています。中学から6年間、必死でハンドボールに打ち込んだのですが、全国の切符を手にする夢は叶わず、それは本当に残念で、心残りでしたね。
電子機械科の勉強は想像以上に面白かったですよ。社会人として即戦力を育てるというのが校風で、卒業生の就職率はほぼ100%。コンピュータを使ったロボット制御、CAD設計、プログラミングの基礎など、ものづくりが好きな僕にはぴったりでした。でも、僕はスポーツ推薦を使って大学に進学するつもりだったんです。ただ、先ほど話したとおり、肩を壊してからはその計画もとん挫。受験して大学に行けるような勉強もしていません。また、僕が高校2年の時、家族にとってつらい出来事が起こってしまったんです。

<あてもないまま東京へ>
図書館通いをしながら将来の道を模索。父の助言もあり、今しか行けない中国留学へ

 突然、父の会社が倒産しました。自宅と父が保有していた不動産はすべて差し押さえられ、売却されました。当然、僕たち家族も住み慣れた自宅に別れを告げ、借家暮らしをすることに。父は再起をかけて東京で新しい商売の種を探すことを決め、母と私と妹の3人が高松に残るという生活です。それでも父には子どもをカギっ子にしたくないというプライドがあったのでしょう、母にパート勤めすることを禁じていました。なので、父から送られてくる少しの生活費を、母がなんとか頑張ってやりくりするという……。生活は一変しました。肩を故障した僕は大学への推薦入学の道は閉ざされ、おまけに家の経済状況は最悪の状態です。この先、どうしていけばいいのか悩みました。このまま地元にいても何も変わらないから、ひとまず東京へ行ってみよう。そう考えて、父が住むアパートに転がり込むことにしたのです。

 それから、アルバイトをしながら図書館に通って、今後自分が進んでいく道を模索してみました。自分の得意分野を考え、さまざまな情報収集を続ける中で出した方向はふたつ。ひとつは、コンピュータの専門学校への進学。もうひとつは、中国への留学です。当時から中国の経済発展は目覚ましく、日本の30年前ぐらいの高度経済成長期のような勢いがありました。半年くらい悩んだでしょうか、結果的に「今しか行けない」という父のアドバイスを受けて、中国へ留学する道を選択。その後、中国語の専門学校へ通い猛勉強しました。その甲斐あって、まずは「HSK」という中国語テストをクリアすることに成功し、1995年に漢語進修生として、北京にある首都師範大学に入学できました。この学校はいわゆる教師を輩出する大学で、日本人の受け入れ実績も過去にあり、まじめな校風だったことから選びました。

 2年間、漢語進修生を続けながら、専門の単位をいくつか取得し、3年目から文学部中国語学科の本科に編入しています。もちろん、教師になりたいわけではなく、あくまでも中国がどんなものなのか見てやろうというのが目的です。留学中は上海、深セン、広州、香港など、経済特区を旅したりしました。1999年の卒業まで約4年間、中国で暮らしましたが、本当にカルチャーショックの連続でした。買い物に行っても店員が笑顔じゃない、お釣りは投げて返される(笑)。地下鉄もバスもパンパンの満員で、譲り合いなんてどこ吹く風の戦争状態。学生寮ではシャワーのお湯が出たり出なかったり。ネット回線も超ナローバンドで、Yahoo!のトップページが表示されるまで半日もかかる。アクセスして、ご飯を食べて、帰ってきたらやっと検索結果が表示されている……(笑)。そんな中で、少しずつ中国の生活に馴染んでいく自分が、少しだけ頼もしく思えました。

<ハングリーな中国人に驚愕>
このままではいつか日本は中国に抜かれる……。自給自足できる自分をつくるため起業を決意

 中国人は、あらゆる面においてハングリーであるというのが、僕の印象です。何事に対しても日本人の若者と比べて一所懸命さが違う、気持が強い。勉強だって、みんな命がけでやっている。さらに、誰よりも上へ上へという上昇志向がものすごい。このままだと、5年後か10年後か、日本経済は確実に追い抜かれると思いました。外国で暮らすと、日本人としてのアイデンティティと愛国心が強くなりますね。日本という素晴らしい国の価値を高めるために、微力ではあるが自分も頑張ろうと、自然と考えるようになりました。そしてこう思いました。ハングリーな中国人に太刀打ちするために、自給自足のポジションで生きていこう、と。少なからず起業家である父の影響もあったのでしょう。帰国して30歳までに、絶対に自分も起業することを心に誓いました。

 先ほどネットの話をしましたが、1996年当時、日本ではインターネットの話題が花盛り。このインフラは世界を変えるものになる、すごいビジネスチャンスであることが直感でわかりました。なので、毎年夏休みはいったん日本に帰国して、ネットの波に乗り遅れないように、IT関連企業でデータ移行や簡単なプログラミングのアルバイトを続けていました。インターネット関連の仕事をするうちに、さまざまなツールやサービスなど、システム開発に大きな可能性を感じました。何もできない自分でも、この世界でなら勝負できそうだ、いつかインターネット関連のサービスを立ち上げて経営者になろう、と。そして首都師範大学を卒業して帰国した私は、アルバイトでお世話になった中小企業家向けのWebシステム開発会社・ユニティーベルに就職しました。起業するまでの間、ここでさまざまな仕事に携わることになります。

 当初は、教育用ソフトの開発や業務用システムの開発からスタートし、その後、ECを行う中小企業を中心とした提案営業やコンサルティングまで幅広い業務を担当しました。自分でサービスを企画し、それを設計し、開発し、販売し、サポートまで、上流から下流まですべて担当しました。インターネット業界で生きていくために必要なあらゆることを、この会社で学ばせてもらいました。また、ECのコンサルで担当した、あるお客さまの月商を50万円から8000万円と、160倍にアップさせた成功経験が大きな自信となりました。その会社はブランド品を扱う会社で、ネットショップのリニューアルから多店舗化まで、さまざまな提案をさせていただきました。ユニティーベルにお世話になった6年の間、28歳には結婚し、体系的にテクノロジーを学ぶため、27歳で信州大学の大学院に入学。工学系研究科の前期博士課程を修了しました。そして31歳になる2カ月前の2006年10月、中国で心に誓った当初の目標どおり、30歳のうちにハングリードを起業することになるのです。

●次週、「ネットショップの多店舗展開を徹底支援! 導入企業が急増中!」の後編へ続く→

ECショップの多店舗在庫&商品管理に加え、
次世代型仕入れサイトを投入し急成長が目前!

<ハングリード、始動>
スタート時はマンション事務所で妻とふたり。資本金10万円というまさにハングリー状態

 ちなみに、ハングリードという社名には、どこまでもハングリーに、そして常に社会をリードしていく企業を目指すという思いを込めています。起業前から、中小企業にとって役立つインターネットサービスを提供することは決めていました。自社で開発したASPで勝負したかったのですが、まずは企業経営を継続させることが先決です。東京・町田市の自宅から徒歩数分の小さなマンションの一室を事務所として借り、妻に仕事を手伝ってもらいながら、当社の経営が幕を開けましたが、設立時の資本金はわずか10万円。ちょっとでもコケると、飛んじゃうような会社規模です(笑)。なので、まずはホームページや業務システムの受託開発からスタートしました。インターネットでのプロモーションは得意でしたから、インターネット経由で少しずつクライアントを確保し、また幸いにも前職で付き合いのあったお客さまからの紹介で、いくつか仕事をさせてもらえるようになりました。

 設立初年度は、毎月、毎月、まさにハングリーな状態でした(笑)。ものすごく安い金額で受託案件を引き受けることもありましたし、そもそも来月も会社が存続できているような仕事と売り上げが確保できるかと、びくびくする日々でした。なるべく早くASP事業を立ち上げねばと思いつつも、受託開発がどんどん忙しくなり、ジレンマが続きました。自社システムの開発なんて無理なんじゃないかと思いつめた時期もありました。でも、少しずつ時間もできてきて、やっとECサイト支援のシステム開発に取り組み始めたのが、2期目に入ってからです。そこでリリースしたのが「EC-CUBE」というソフトウェアのデザインテンプレート、そして「上位でーる」という、いわゆるSEO対策を自動に行い、検索サイトの検索結果を2ページ以内に表示させるサービスでした。初期費用ゼロで、2ページ以内に入れば課金というストック型のビジネスモデルを目指しました。

 おかげさまでこのサービスが、ECサイトを運営する多くの中小企業に受け入れられたのですが、成果のとらえ方が違うんですね。「上位でーる」が機能を発揮して、該当するECサイトが検索サイトの上位に表示されても、商品が売れないとお客さまにとっては意味がないわけです。そこをお客さま側から指摘されると、商品やページ自体の改善提案をしなければなりませんし、また、検索結果は時間と共に変動していきますから、その説明も必要です。そんなやり取りをすべてのお客さまと続けていると、このビジネスモデルでのスムーズな拡大は難しいと思いました。そこでサービスを見直して、2008年7月に新たに開発・リリースしたのが、多店舗在庫管理システム「zaiko robot」です。実は前職でECサイトの支援をしていた頃からずっと、この機能・サービスがあれば中小企業でもECサイトの多店舗展開が格段にやりやすくなると確信していました。

<さようなら受託開発>
自社の主軸ASP「zaiko robot」に集中するため、受託開発体質から脱却し、背水の陣を敷く

 ECサイトの在庫調整は非常に複雑で難しいです。たとえば3つの実店舗があったとします。売りたい商品が3つあります。その場合、1店舗に1つずつ商品を並べるか、一番売れそうな店に3つとも並べてしまうか。いろんな考え方ができますね。でも、ネットの場合は商品の写真さえあれば、店舗分の在庫は必要ありません。在庫が1個でもあれば、複数のサイトで販売可能です。その代り、自社サイトだけでなく、楽天、Yahoo!ショッピング、ビッダーズなど複数のショッピングモールに出店すると、当然販売機会が増えますが、いつお客さまが訪れて、いつ購入されるかわからないので、在庫管理に非常に時間と手間がかかります。そこで、当社の「zaiko robot」を導入すれば、24時間、365日、「zaiko robot」が逐一販売状況を確認しながら、すべてのサイトの在庫管理を調整してくれるわけです。

 実は当時、同じような仕組みのシステムが存在していましたが、価格がかなり高額で、中小企業が導入できるような代物ではありませんでした。そこで当社の「zaiko robot」は、初期費用が3万1500円から、月の使用料が1575円からと、大幅なプライスダウンを行いました。初めはお客さまも半信半疑だったようですが、少しずつユーザーが増えてきて、その効果が証明されてからは、一気に問い合わせが増加しました。口コミで「zaiko robot」の存在を知り、ユーザーになられるお客さまも多いです。今ではショッピングモールだけではなく、各種ショッピングカートなど、約20種類のネット上のシステムに対応し、さらに機能を進化させています。

 2010年8月現在、約500店舗のECサイトに「zaiko robot」を導入いただいていて、昨年12月時点での稼働商品点数が約100万点、年間流通総額は130億円を超えました。ユーザーには、サイズなどの違いがあって商品点数が多い、アパレル系のECサイトを運営されている中小企業が多いですね。そうやってようやく自社のASP事業の目鼻立ちがついてきたこともあり、2009年の秋に、受託開発の新規仕事はもう受けないことを決めました。背水の陣を引いたと(笑)。プロモーションも比較的うまくいっており、「zaiko robot」の認知度もどんどん高まっています。そして、この「zaiko robot」を当社の主軸のASPとして、さらにECサイトを運営する中小企業の皆さまに貢献していこうと、今年に入ってから新たなサービスを提案しているところです。

<未来へ~ハングリードが目指すもの>
3つの自社サービスをしっかりと進化させ、世界的なASPを育てた会社と呼ばれたい

 この4月にリリースしたのが、多店舗商品管理システム「item Robot」です。複数のショッピングモールに出店していると、それぞれのモールによって商品ページの作成方法が異なります。この更新作業がとても面倒くさくて大変なんですね。ある中小企業では、楽天やyahoo!ショッピングなど、各モールに選任の担当者を置いて、商品ページの更新をしていました。それでも繁忙期には各モールのページ更新作業が、夜中の3時、4時までかかっていたそうです。でも当社の「item Robot」を導入すれば、1回の登録ですべてのモールの商品情報やカテゴリ情報、画像等を複数モールに登録できたり、商品価格やキャッチコピーを一括で更新できます。時間的ロスをかなりの割合で削減でき、先ほどの会社の担当者は「item Robot」の導入後は、最悪でも終電で帰れるようになったそうですよ(笑)。

 多店舗展開を行うECサイトが「zaiko robot」を導入することで、在庫調整が楽になり、「item Robot」の導入により、ページの更新作業が格段に簡単になりました。そしてこの7月にリリースしたのが、次世代型仕入れサイトの決定版といえる、「zaiko robot」「item Robot」に連動させた「Cost Cut Avenue(コストカットアベニュー)」。これは、メーカーが提供する商品をシステム上で選択するだけで、楽天、Yahoo!ショッピング、ビッダーズなどのモールに対して簡単に掲載、販売することができるモール連係型仕入サイトです。メーカー在庫とユーザーのECサイトの在庫がリアルタイムに完全自動連係するため、仕入リスクをまったく心配することなく商品を販売することができるわけです。参加いただいているメーカーは、現在のところ約20社です。すべてファッションに特化した商材を扱う企業ですね。

 設立当初からの経営理念だった、ECショップを多店舗展開する中小企業への貢献はもちろんですが、商品をもっと卸したいメーカー、テナントの売り上げを伸ばしたいショッピングモールにもお喜びいただき、3つの自社サービスの提供により当社の存在意義が高まる。四方よしのビジネスモデルの準備が整ったといえるでしょう。そうはいっても、サービスを使っていただけないと意味がありません。今後もお客さまからの要望にしっかり耳を傾け、商品の質を進化させながら、プロモーションに注力していきます。まだ具体的な時期は見えないのですが、中国市場への進出も計画中です。
昨年、念願の女児が誕生しました。父は一度会社を倒産させましたが、絶対に娘に同じような思いはさせたくありません。世の中から必要とされるサービスを常に提供できていれば、会社は存続していくはずです。起業は継続してなんぼ、ですからね。今の夢は、世界的なASPを育てた日本生まれのベンチャーと呼ばれることです。どこまでもハングリーに、戦っていきます。

<これか ら起業を目指す人たちへのメッセー ジ>
起業を選択しない人生こそ最大のリスク。やりたいことがあるなら挑戦すべき

 メッセージですか……。まだまだ僕自身がアーリー・ステージにいる起業家ですからね。でも、仕事仲間から「起業したいが、どうすればいいか?」という質問を多く受けるんですが、「なかなか一歩が踏み出せない」「実際に食っていけるものなのか?」という相談が多い。ただ、こればっかりはやってみないとわかりませんよね。僕も不安でしかたなかったです。起業前には結婚もしていましたし、もしも失敗したら妻の両親にも申し訳ない。でも、そこは勇気を持つしかないでしょう。僕の場合は、30歳で絶対に起業すると決めていました。だからぎりぎりになった31歳の手前で起業に踏み切れた、という気がしています。そういった意味で、期限を決めておくことは重要。あとは、成せば成る、ですよ。

 では、何を起業の種にするのか。新規性が高いとか、奇抜なアイデアも重要ですが、僕は自分の得意で一人のお客さまが喜んでくれる仕事が何か、突き詰めて考えてみることが大切だと思うのです。そこをしっかり固めたうえで、次にその仕事を複数のお客さまに提供するためにはどうすればいいかを考えてみる。そしてお客さまの数を一所懸命ふくらませていく。そうやって一歩ずつ前に進んでいけば、事業として必然的に育っていくのではないでしょうか。結局、世の中に受け入れられないと、いつか必ず淘汰されるわけですから。常に一人のお客さまが喜ぶことを考える。そして、その仕事に喜んで没頭できる自分になれるか。その確認も重要です。そうでなければ、続けられませんからね。

 今は景気があまりよくないですから、「こんな時期に起業なんてとんでもない」と考える人が多いのかもしれません。でも、リスクという観点で考えてみると、サラリーマンもさまざまなリスクにさらされているのです。公務員だって、今後も絶対安泰かといわれると、疑問符がつきませんか? 誰しもが、自分のスキルで食っていくのが前提だとすると、どんな仕事だってリスクはある。そう考えると、起業しないという選択がリスクに思えてきます。本当にやりたいことがあるのなら、ぜひ、挑戦してほしいと思います。起業というステージの挑戦者が増えることで、必ず日本という国は活性化していきます。世界中の人々から「日本の若者は元気だ」と言わると、僕たちもうれしいじゃないですか。起業を選択しない人生こそ、最大のリスク。そんな時代なのかな、と思っています。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

現役社長 経営ゼミナール

Q.ビジネスではお客様の声が非常に重要とはよく言いますが、具体的に行っている顧客ニーズの拾い方などかあれば教えていただけませんか。 (静岡県 経営者)

A.
顧客ニーズの拾い方として当社が力を入れていることは大きく分けて3つございます。
1.新規顧客からのお問い合わせ時にヒアリングする
2.既存顧客をサポートする時にヒアリングする
3.企画書を作成して、既存顧客、パートナー企業へインタビューする

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