第115回 有限会社 大平技研 大平貴之

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第115回
有限会社 大平技研 代表取締役/プラネタリウム・クリエーター
大平貴之 Takayuki Ohira

1970年、神奈川県生まれ。小学校の頃からプラネタリウムづくりを始め、日本大学生産工学部機械工学科在学中の1991年、個人としては世界初となるレンズ投影式プラネタリウム「アストロライナー」を完成させる。同大学院理工学研究科精密機械工学専攻を経て、ソニーに就職。その後もプラネタリウム製作にかける情熱は冷めることがなく、帰宅後の時間や休日にプラネタリウムづくりを続け、1998年に、当時世界最高の170万個の恒星を投影可能で、重量わずか27㎏の移動式プラネタリウム「アストロライナー2(後のメガスター)」を個人で完成させた。2003年にソニーを退社しフリーランスとなる。2005年2月、有限会社大平技研を設立し、代表取締役に就任。セガトイズと共同で、家庭用プラネタリウム「ホームスター」を開発。その後もプラネタリウム「メガスター」シリーズの開発をメインに、各種プラネタリウムシステムの企画、開発、製作、上映活動を展開している。現在、東京大学特任教員、和歌山大学客員助教授。著書に『プラネタリウムを作りました。―7畳間で生まれた410万の星、そしてその後(改訂版)』(エクスナレッジ)がある。※メガスターシリーズのフラッグシップ機で投影星数2200万個を誇るモンスターマシン「SUPER MEGASTAR-II」が、千葉県立現代産業科学館(TEL:047-379-2005)で上映中(展示期間:2010年8月6日~17日)。

ライフスタイル

好きな食べ物

ラーメンです。
ラーメンは偉大な食べ物だと思います。街を歩けばたくさんのラーメン店があり、インスタントラーメンも膨大な種類が存在します。それらがお客さんから選ばれるために、日々、しのぎを削り、切磋琢磨を続けているわけです。ラーメンは日本で一番進化している食べ物ではないでしょうか。つくり手のこだわりを考えると、本当に奥が深い。

趣味

ひげを抜くこと(笑)。趣味というか癖なんですが……。
仕事以外では、その昔、できもしないのにスキーと言ったら、テレビの企画でスキー場に連れていかれて、大変な目に遇いました。だから、それ以来、封印した趣味にしています(笑)。趣味というか癖なんですが、無意識のうちに自分で髭を抜いているらしいです。カメラなんかも好きですが、業務の一部として使っているし……。趣味が仕事になってしまったので、仕事とまったく関係ない趣味、と言われると、あまり思いつきません。

行ってみたい場所

ニュージーランドです。
ニュージーランドは本当に最高らしいです。オーストラリアは何度か行っていて、南半球の星空は本当にきれいなんですが、まだニュージーランドに行ったことがないので、ぜひ行ってみたいです。

最近感動したこと

夕焼け空。
散歩途中にふと目にした空模様でしょうか。夕暮れ時の空に浮かんだ雲とか、そこに光の線がパーッと差しているシーンとか。きれいな空を見ると、いちいち感動してしまいます。外出すると、いつも空を見ているような気がします。あとは、具体的には思い出せませんが、人の思いやりに触れるたびに感動しています。

7畳間の自宅の部屋で生まれたプラネタリウムが、
投影星数2200万個を誇るモンスターマシンへ進化!

 「アマチュア、しかも個人には絶対に不可能」と言われていた、レンズ式プラネタリウムを、紆余曲折を得ながらも、たったひとりで開発してしまった日本人がいる。それも大学生の時に、だ。俳優・唐沢寿明氏が「世界一のプラネタリウム」と語った、ネスカフェゴールドブレンドのCMを覚えている人も多いのではないだろうか。あの共演者が、大平技研の代表取締役を務める、プラネタリウム・クリエーター・大平貴之氏である。そして、大平貴之氏が開発したプラネタリウム「メガスター」は、世界最高性能のプラネタリウムとしてギネスブックに認定され、今も世界中の天体ファンから熱い支持を受け続けている。「素人ゆえの大胆な挑戦が、可能を証明したケースがたくさんあると思います。不可能を決めつけることができるのは、神様にしかできないこと。それを人間が証明するのは、とても傲慢なことなのではないでしょうか」。今回はそんな大平氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<大平貴之をつ くったルーツ1>
化学実験が趣味というちょっと変わった小学生。
自宅の部屋は、さながら理科の実験室のようだった

 こう言っては身も蓋もないかもしれませんが、子どもの頃から理系のものづくりにのめり込んで、プラネタリウム・クリエーターという職業にたどり着いたのは、結局は天の思し召しとしか考えられないんですよ。父は石油会社に勤めていましたが、どっちかといえば営業的な仕事をしていましたし、母も僕がやっていることはまったくのちんぷんかんぷん。3歳上の兄はスポーツが得意で、高校時代はロックバンドを組んで女の子にキャーキャー言われて、なんでも器用にこなす人。僕のような理系人間は、家族でひとりだけですね。いろんな要素との出合いがあったと思うのですが、ものづくりが好きになっていく決定的な理由もまったく思い出せないんです。ちなみにスポーツは、野球の仲間に入れてもらってやってみたのですが、ものすごいへたくそで。それ以来、二度と誘われなくなりました(笑)。

 幼稚園の頃は、東京タワーが好きだったらしいです。自分では覚えてないのですが、よく東京タワーの絵を描いていたと母が言うんですよ。それも、かなり細かく正確に描き込んでいたようです。次にはまったのは電車。車酔いがひどかったから、電車が好きになったのだと思います(笑)。確か小学校1年の時に電車の絵本をつくって、母にプレゼントしました。その後は、植物に興味が移りました。学校でアサガオを育てたり、学習教材の付録の栽培セットでヒマワリを種から育てたり。ある朝、種から芽が出てきた時の感動は、今でもはっきり思い出すことができます。近所に田んぼや畑がたくさんあったことも関係したと思います。近くの空き地を使わせてもらって、いろんな作物を育て、プランターで稲の栽培に挑戦したこともありました。

 小学校3年になると、化学実験に熱中していきました。きっかけは、日光写真を撮影してみたり、紙をコピーできる青写真との出合いです。青写真の原料となる薬品をどうしても手に入れたかったのですが、薬局に相談したら「親の許可がないと売れない」と言われて、母に頼みこんでなんとか買ってもらえた時は本当にうれしかったです。その後、フラスコや試験管といった実験器具や、いろんな化学薬品を揃え始めまして。僕の7畳の部屋は、どんどん理科の実験室のようになっていくわけです。ただ、自分の部屋がだんだん手狭になってしまったので、キッチンやリビング、風呂場とかでも実験をしていました。でも、僕がなにをやっているのか、誰も興味がないし、まったく理解できなかったみたいです。まあ、家族にとってはいい迷惑だったと思います(笑)。

<大平貴之をつくったルーツ2>
小学生時代、文房具店で見つけた蛍光塗料。
自宅の部屋に星空を描いたことが物語の序章。

 その後も、実験熱はどんどんエスカレートしていきました。理科実験の本で黒色火薬のつくり方を見つけて、線香花火をつくりました。調べてみたら、ロケットを飛ばすのも黒色火薬。そうしたら、どうしても自分でロケットをつくってみたくなった。でも、火薬の調合がとても難しいんですね。材料の配合や、燃焼ノズルのサイズとか、いろいろ悩んで、あれこれ試行錯誤して。火をプスンと噴射するだけでまったく飛ばなかったり、機体が破裂してしまったり。そんな失敗を何百回繰り返したかわかりません。あれは中学2年の時だったか、初めてロケットの発射に成功した瞬間は、今でも鮮明に覚えています。手のひらに載るくらいのとても小さなロケットでしたけど、着火したら勢いよく地面を離れて飛び立って、夕暮れの空の中に吸い込まれていった。あの時の感激は忘れられないですね。

 天体に興味をもったきっかけも、なんだったんでしょうね(笑)。いろんな要素があると思いますが、近所にある川崎市青少年科学館のプラネタリウムに行ったことかもしれないし、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」を見ていたからかもしれない。あとは、著名な天文学者・カール・セーガンが制作したテレビ番組「コスモス(COSMOS)」にもはまっていました。なんにせよ、足しげく通っていた文房具店で、偶然、夜光塗料を見つけたんです。小学4年の頃ですね。それを使っていろんなことを試していたのですが、ある日、これで星をつくってみようと思い立ってしまった。最初は蛍光塗料を塗った紙を円形に切り取って、部屋の天井や壁に張りながら星座を描くところからスタート。明りを消した瞬間、自分の部屋の中にボゥっと星空が広がった……。とても不思議な感覚に包まれました。ここから、僕のプラネタリウムづくりが始まりました。

 最初は家族や近所の人たちに部屋を見てもらい、自分で星座の解説もしました。みんなが感心してくれて、とてもうれしかった。それで、部屋が星だらけになったら、今度はその星を動かしてみたくなったんですよ。それで紙製のドームを自作して、穴を空け、その中に100ワットの乳白色の電球を入れて投影してみましたが、これは失敗に終わります。その後、ある本でミニプラネタリウムの工作記事を見つけたんです。それでピンホール式のプラネタリウムの原理を知りました。光源は豆電球にするとよいと書いてあって、ボール紙の型紙が付録についていました。半信半疑ながら、その本を買って試してみました。まずはそのとおりにやってみたら、映りはいまいひとつでしたが、成功したんですね。それで、この型紙をそのまま3倍に拡大して、ボール紙で投影機をつくり直してみた。そうしたら結果は予想どおり。星の写り具合が格段によくなりました。

<広がり続ける興味>
中学時代に電子レンジを自作しようとするが、大手電機メーカーの社員に諭され、断念……

 天体だけではなく、科学実験や青写真、ロケット、鉱物、アニメにも興味があって、どんどん趣味の幅が広がってきました。もともと飽きっぽいんでしょうね。飽きがこないように、いろんなものに手を出していくと(笑)。また、自力でなんでも試してみたくなる性分なんですね。高校くらいまでは、世の中にある既製品をどんどん真似してつくっていました。簡単なものですけれど、モーターでしょう、電池でしょう、あとは真空管とか、天体望遠鏡も手づくり。「自分にもできた!」と思える瞬間。それが面白くてたまらないわけですよ。それで、中学の夏休み研究で、エアコンを自作して持っていったら、みんなびっくりするんじゃないか、いや電子レンジだったらどうだろう、とか考えたんです。ちなみに、電子レンジにはマグネトロンという部品が使われています。実際に大手電機メーカーに電話して電子レンジのつくり方を聞いてみたら、「とても危険だからやめなさい」と注意されました(笑)。これはさすがにあきらめました。

 父がバスケットをやっていまして、「おまえもやってみろ」と言われて、中学ではバスケ部に入ってみましたが、からっきしでしたね。僕の身長は188センチで、昔から大柄でしたが、実際にやらせてみたらまったく駄目(笑)。自分としてはプレーすること自体は楽しかったんですけど、練習で走らされるのが嫌で嫌で……。すぐに退部して、その後はアニメ部に所属していました。テレビや映画のアニメを見ていると、こんなのを自分でつくれたらと思うとワクワクしてくる。居ても立ってもいられなくなり、最初はパラパラマンガから始まって、今度は部が持っていた8ミリカメラで、本を見ながらセル画をつくって撮影して、自作のアニメを制作しました。主人公は僕の同級生で、彼が飛行機でソ連(現ロシア)に領空侵犯して、最後は撃墜されてしまうというストーリーです(笑)。文化祭で公開し、かなりの好評を博しましたよ。

 今思えば、そんなことばかりやっていたので、父はなにも言いませんでしたが、母はけっこう悩んでいたと思います。受験戦争が激しかった頃でしたし、やっぱりよい学校に行ってほしいと言っていましたから。僕が実験やものづくりに没頭することは、悪いことではないと思いつつも、勉強との両立が果たしてできるのかと。こんな僕を、両親共に心配していたと思いますが、頭ごなしに「やめなさい」と言われたことは一度もありませんでした。どこかで信じてくれていたんでしょうね。え、学生時代はモテたか? これもからっきしですよ。人から見たらいつも意味不明なことばかりしていますし、身だしなみもいっさい気を使わず、正直、かなりダサかったと思います(笑)。

<ロケットとプラネタリウム>
プラネタリウムの電源開発に苦しむが、あるバイトとの出合いがブレイクスルーとなる

 高校に入る頃には、興味の対象は大きくロケットとプラネタリウムに絞られていきました。ロケットは最終的に、打ち上げ高度2kmを超えるようなものがつくれるようになったのですが、どんどんお金がかかるようになっていくんですね。性能が上がり、飛距離が伸びていくと、発射実験ができる場所も限られてきます。危険ですからね。最後は八ヶ岳まで行って、飛ばしていましたが、資金的に継続できなくなった。そうそう、高校の卒業式の日、校庭でロケットを発射したんですよ。今思ってもかなり危険な挑戦(笑)。万一の事故が起きたら取り返しのつかないことになっていましたから。先生からは「卒業証書は没収だ」と、こってりしぼられました。職員室に行って必死で謝って、事なきを得ましたけれど(笑)。その後、大学2年でロケットの活動はいったんストップしています。

 高校では物理部の天文班に所属して、ある程度しっかりしたプラネタリウムがつくれるようになりました。ピンホール式の1号機の製作に続き、2号機は直径3mくらいのドームの中に自作の投影機を入れた、フィルム式恒星球による2球式のプラネタリウムに進化。当時のプラネタリウム施設が投影していた星の数は最大3万個程度でしたが、僕のつくったプラネタリウムも1万6000個くらいは投影できたんですよ。文化祭でそのプラネタリウムを公開し、周りを真っ暗にしてBGMを流しながら、自ら星のナレーションをしました。そうしたら、周囲の反応がとてもよかったんですよね。同級生や先生たち、お客さんとなったみんなが素直に感心してくれる。自分でつくったものを自分で演出し、観客に喜んでもらう。自作したものが認められたことが嬉しかったし、エンターテインメントの面白さを実感できた経験となりました。

 ただし、ピンホール式では星像のシャープさに限界があるんです。「レンズ式のプラネタリウムの個人製作は無理」と言われていたことも、僕のやる気に火をつけました。どうしてもレンズ式をつくりたくなった僕は、進学した大学を2年でいったん休学して、プラネタリウム製作に専念します。開発資金をつくる必要もありました。そこで求人情報誌で見つけたのが、秋葉原にある電源装置メーカーのアルバイトです。僕は電源装置も自作にこだわっていたのですが、なかなかうまくいかなかったので、このアルバイトはまさに渡りに船でした。最初は修理の仕事でしたが、社長や技術者が僕を面白がってくれまして。技術のアシスタントとなり、さらに「無給実習生」という扱いにまでしてくれた。仕事が終わった後に材料や部品、設備などを自由に使って電源を開発してもいいことになりました。これは本当にありがたかったですよ。あの経験がなかったら、後に開発することになる「アストロスター」も「メガスター」も生まれなかったかもしれません。

●次週、「個人がつくった世界最高性能のプラネタリウムが、世界の常識を変える」の後編へ続く→

科学教育市場だけはなく、アートの領域へも進出。
「メガスター」が生み出す価値の可能性を最大限に!

<アストロライナー誕生>
大学時代にレンズ式プラネタリウムを完成させる。
大学院修了後は「エンジニアの憧れ」ソニーへ入社

 ピンホール式に比べて原理が複雑で開発規模も大きく、人も金もかかるレンズ式プラネタリウムをつくろうと考える個人なんていないわけです。それはしっかりした専門業者がするものというのが常識。わかりやすくいうと、個人が自動車をゼロからつくるようなものです。ハンドルだけならつくれるかもしれませんが、普通に考えて自動車全部だとハードルがものすごく高い。それを僕の場合は、本気で挑戦してしまったというわけです。個人開発としては世界初となるレンズ投影式プラネタリウム「アストロライナー」が完成したのは、復学した翌年の秋。大学3年の時でした。プラネタリウムというのは1920年頃に発明されて以降、長い間、人間が肉眼で確認できる1等星から6等星まで、約9000個の星があればよしとされていたんですね。その後、投影できる星の数が増えても、多くて3万個くらいが最大規模でしたが、「アストロライナー」は当初から4万5000個の星を、これまた自作のドームに映し出すことに成功しました。

 そうやって大学3年の文化祭で初公開して以降、「アストロライナー」に改良を加えながら11回の移動公演を行い、いずれも好評を博すことができました。ただし、開発作業は楽しいのですが、公開するためにはしんどいことも多いです。特に初上映の際の準備は徹夜続きで、想定外のトラブルも発生しました。また、僕自身が夢見がちというか、いつも理想を高く持っているので、思い描いていたイメージと違うと、もっともっと進化させなければと考えてしまう。そうやって何かの区切りが終わるごとに、常に新しい目標が生まれるんですよ。結局、休学してまでプラネタリウム製作に没頭した代償で、卒業後の就職先も決まっておらず、理系だから大学院へ進もうかと思えども成績も足らず……。結局、1年間浪人をして大学院に進学しました。その後、大学院を修了した僕は、「エンジニアといえばソニー」、これまたそんな単純な理由で就職先を決めることになるのです。

 エンジニアにとっての理想工場といわれるソニーでの仕事は、とても面白かったですよ。当然、プラネタリウムとはまったく関係ない仕事で、光ディスクをつくる生産設備というか、自工具をつくるエンジニアとして働きました。同期の多くはテレビやビデオカメラなどのコンシューマー向け機器の事業部に配属され、矢継ぎ早に発表される新機種の開発に追われていましたが、僕の部署ではじっくり腰を落ち着けて一台、一台、自工具の開発をすることができました。言ってみればプラネタリウムをつくっている時と同じ感覚で仕事ができたんですね。そして僕は帰宅後や休日の時間を使って「アストロライナー」に続く、新たなプラネタリウムの開発を続けていました。高校時代、ハレーすい星の観測に行ったオーストラリアで観た天の川。あの奥行きの深い星空を再現するために、いつか100万個の星を投影できるプラネタリウムを完成させようと。

<ジレンマから独立>
ソニー社員の大平? プラネタリウムの大平?存在意義の矛盾に耐えきれなくなった

 ソニーに入社した1996年の7月、IPS(国際プラネタリウム協会)の大阪大会で「アストロライナー」の口頭発表をする機会を得ました。実物で投影することはできなかったですが、これが予想を超える大反響でした。「本当に学生の君がたった一人でつくったのか?」と絶賛されるほど。この時、アメリカのある会社から「ぜひ君をスカウトしたい」と、ヘッドハンティングされたんです。びっくりしましたよ。ただ、自分がこれまでやってきたことは間違っていなかったと感じました。まだまだ可能性があることだと。もちろん、まだ新入社員の身ですし、このお誘いは丁寧にお断りました。ただ、2年後に開催されるロンドン大会で、もっと世界を驚かせてやりたいと考えるようになっていました。そして本格的に「メガスター」の開発に着手するのです。

 100万個の星を投影できるだけでなく、より小型で可動式のものをと考えました。一般的なプラネタリウムは何tという重さです。ゆえに、80kgの「アストロライナー」でも画期的だといわれていましたが、僕の開発現場は相変わらず実家の2階。重いし大きいと、玄関までの移動すら大変でした(笑)。また、自家用車に積んで移動できるサイズでないと厳しいという事情もありました。そして、天の川を完全に星の集団で再現できる、わずか35kg、可動式のスーパープラネタリウム「メガスター」を手荷物として飛行機に持ち込み、いざロンドン大会へ向かいました。オープニングパーティで会話した参加者に「明日、100万個の星を投影する可動式プラネタリウムを発表する」と伝えると、誰もが「Sorry,pardon?(すみません、もう一度)」と。この日本人は英語が下手で、桁を間違えているんじゃないかと思われたようです(笑)。結果的に、ほぼ完ぺきな性能を発揮した「メガスター」のお披露目は大成功となりました。ロンドン大会での予定が変さらになって、2回も追加上映されるようになったほどです。

 ソニーを退社し、フリーランスになったのは2003年のことです。その前年に、渋谷の旧東急文化会館にあった五島プラネタリウムで「メガスター」の長期公演をさせてもらいました。開発だけなら副業的に続けられますが、上映の最中に不具合が起きてメンテナンスの必要が生じても、社員の身としてはなかなか行きづらい。ソニー社員の大平と、プラネタリウムの大平、この二つのかけもちというか、自分の存在意義の矛盾に耐えきれなくなっていました。これが独立を決めた理由です。そういった意味で、正直、独立した当初は何のビジョンもありませんでした。生計が立てられるのかなんて考えてなかったですし、事業計画なんてものもまったくありませんでした。ただ、自分の立場をひとつに絞ったことで、周囲からは声がかけやすくなったんでしょう。独立直後のことを思い返すと、すぐに忙しくなって、あたふたしていたことを思い出します。

<未来へ~大平技研が目指すもの>
科学とアートの顔を持った「メガスター」で未開拓マーケットの開拓を推進していく

 今、世界でシリーズ累計40万台を超えるヒット商品となった、家庭用プラネタリウム「ホームスター」の開発をセガトイズさんから持ちかけられたのも、ソニーを退職した直後でした。自ら企画書をつくって売り込んで、日の目を見たのならストーリー的に面白いのですが、先方からアプローチを受けて前に進めていっただけ(笑)。それから、松任谷由美さんのイベントの声がかかって、日本科学未来館からは「メガスター」常設のお誘いを受けて。大変名誉なことでしたが、何年間も運用するわけですからプレッシャーは大きかった。その後も、愛知万博やさまざまなイベント、初の著書『プラネタリウムを作りました。―7畳間で生まれた410万の星』のドラマ化など、2008年までは、イベントが中心だったんですね。その間にスタッフを少しずつ増やしながら、「メガスター」の常設に向けた方向に舵を切っていったという感じです。

 期間限定のイベントは集客もしやすく、小回りが利き、やりたいことができるので面白いんです。でも、今後は当社に興味を持っていただいた施設に、「メガスター」を着実に入れていきたいと考えています。国内では、すでに「道の駅・富士川楽座」「山梨県立科学館」「神奈川工科大学厚木市子ども科学館」「川崎市青少年科学館」「日本科学未来館」「横浜モバイルプラネタリウム」、そして東京・白金の「プラネタリウムBAR 」で「メガスター」の星空を観ることができます。また、今、海外での常設も始まっていまして、インドが2カ所、ヨーロッパの某国、アジアの某国と、4件の設置が決まっています。プラネタリウムはやはり科学教育市場に向けた製品で、自治体や国が絡む話なので、数億単位の仕事になることもある。まずはここを押さえつつ、コンシューマー市場との接点もしっかりつくっていきたいと思っています。先にお話しした「プラネタリウムBAR 」もそうですね。

 独立する前の2000年、東京・青山の「スパイラルホール」で「メガスター」を上映した時に、プラネタリウムをアート作品として見せるやり方もあることがわかりました。科学とアートの顔を持った「メガスター」という新しい価値の発見です。このコンセプトを進化させながら、たとえばレストラン、BAR、エステサロンなどの商業施設の空間の中に、星空を作品として持ち込んで常設し、一人でも多くの方々にちょっとした感度を提供できればうれしいですね。そうはいっても、プラネタリウムはさまざまな精密部品で構成された機械です。これまでのように性能や安全性、安定性を高めながら、ランニングコストを抑える方法も研究していかなければなりません。まったく新しい技術を学び投下していく必要があるということです。そういった意味でも、僕の挑戦はこれからもまだまだ続く。終わりの見えない果てしない旅が、未来に向けて広がっています。

<これか ら起業を目指す人たちへのメッセー ジ>
どんなに優れたオンリーワンも永遠に続かない。
常に前に進んでいる状態を、面白がれる自分を

 だいたい独立・起業関係の本には、「世の中は甘くない」「しっかり準備をして」と書かれています。一般論としては正しいですが、僕の場合を考えると、まったくの真逆(笑)。そんな僕からのアドバイスなんておこがましいのですが、会社で認められないから独立……そんなやり方だけはやめておいたほうがいいです。ただし今は、ITの発展により、世の中の秩序が崩れ始めているのは確かです。1000人とか1万人の大企業を、たった一人のアイデアが圧倒してしまう事例がいくつも生まれています。それも、ものすごいスピード感で。Googleが一気に台頭して、今ではもう逆に追撃される立場になっていることを見ても、そのことがわかりますよね。景気は持ち直しつつあるとは聞きますが、まだまだ世の中が不確かな今は、既存の大きな存在をぐらつかせるチャンスなのだと思います。

 起業の世界で、絶対に正しい方法論など存在しません。だから、本当に自信があるなら一歩を踏み出してみるしかない。その場合、やはりほかにはないもので挑戦したほうが勝算は高くなります。僕の場合は、「メガスター」がありました。あれは大平以外には、誰にもつくれなかったものかと問われれば、そんなことはない。単に、あの時には僕しかもっていなかった技術だったというだけです。でも、短期的にオンリーワンといわれているものが、永遠に勝ち続けるのかというとそうではありません。市場を長い目で見て、商品を成長させながら、前進をしていくこと。そのプロセスが大切なのだと思います。どんどん情報を仕入れてアイデアをつくり、フットワーク良く動いてスピーディにかたちにする。常に前に進んでいる状態を、自分自身が面白がれるといいですね。

 その昔、学者の間では「飛行機の開発は絶対に無理」というのが主流の考え方でした。そして、学者ではないライト兄弟が飛行機を発明して、新しい結論と常識をつくり出してしまった。素人ゆえの大胆な挑戦が、可能を証明したケースはほかにいくらでもあると思います。今も、タイムマシンは絶対にできないといわれていますよね。でも、その不可能を確実に証明するためには、ずっと先の未来の技術も調べたうえでないと、本当の結論が出せないと思うのです。不可能を決めつけることができるのは、神様にしかできないこと。それを人間が証明するのは、とても傲慢なことなのではないでしょうか。みなさんにも、ぜひ大胆な挑戦をしてほしいと思います。不可能は誰にも証明できないのですから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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