第113回 カフェ・カンパニー株式会社 楠本修二郎

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第113回
カフェ・カンパニー株式会社 代表取締役社長
楠本修二郎 Shujiro Kusumoto

1964年、福岡県生まれ。福岡県立修猷館高校から早稲田大学政治経済学部経済学科へ進学。1988年の大学卒業後、リクルートコスモス(コスモスイニシア)に入社。1993年、大前研一(マッキンゼージャパン会長)事務所へ転職。1994年、平成維新の会事務局長に就任。1995年、マーシーズ取締役副社長就任。1999年、スタイルディベロップを設立し、代表取締役に就任。 2001年、コミュニティ・アンド・ストアーズ(現 カフェ・カンパニー)を設立し、代表取締役社長に就任。2001年10月にオープンした「Shibuya Underpass Society(SUS)」を皮切りに、「WIRED CAFE」「Planet3rd 」「食堂居酒屋 どいちゃん」「246CAFE<>BOOK」「A971」「PUBLIC HOUSE」など、現在、国内43店舗、海外1店舗を展開(2010年7月現在)。飲食店・物販店の経営、設計・企画プロデュースなどを手がけている。

ライフスタイル

好きな食べ物

シチュエーションによります。
スポーツの後に、チームの仲間たちと飲むビールやワイン。海辺の町で漁師さんがつくってくれた、"なめろう"。自分で釣った魚の干物。友人と一緒行ったキャンプでつくったカレー。どれもこれも最高においしかったです。何がうまいか?と聞かれても、やはりそれを食すシチュエーションが大切だと思うんです。

趣味

トライアスロンです。
バイクをこいで、泳いで、走って、森羅万象、さまざまな自然と自分との交流が気持ちいいんです。レースでは、もちろん自己タイムの更新を目指しますが、敵味方関係なく、ゴールをすぎたら大きな輪ができる。あとは自分の限界を超える面白さでしょうか。素晴らしいスポーツであり、アートを感じさせてくれる競技だと思っています。

行ってみたい場所

夏のアラスカで野宿とか。
旅こそ、人生と思っています。ある経営者から、移動しなくても世界情勢はわかると、教えられましたが、僕はまだまだその境地にはなれず。スペインのアンダルシアに行くなら1カ月かけると決めています。あと、夏のアラスカで野宿とか、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路、ブエノスアイレス……。今も行きたい場所がたくさんあります。

最近感動したこと

映画「インビクタス」です。
海外に行く飛行機の中で偶然見た、ネルソン・マンデラ氏の自伝的映画「インビクタス~負けざる者たち」には感動しました。報復して当然の人生なのに、彼はいっさいの復讐をしなかった。神に感謝しよう"負けざる"魂を授けてくれたことを。大いに心が揺さぶられたのはその言葉でしょうか。異質の涙があふれました。

"Community Access For Everyone"="CAFE"
感性の場づくりで街を、人を、地域を、日本を元気に!

 カフェのある風景をつくることで、感性豊かなライフスタイルを創造し、生き生きとしたコミュニティ型社会を実現する~ "style makes your community"。これが、カフェ・カンパニーの使命であり、存在意義。1軒のカフェから発信されたさまざまなコンテンツが情報となり、人が人を呼び、そしてその店舗が新たなビジネスやライフスタイルを生み出す。単なるコーヒーショップではなく、次代の付加価値を生み出すインフラとして、カフェを位置づけ、ブームで終わらない"集い場"をつくり続けているのが、同社の代表を務める楠本修二郎氏である。「みんな仕事をフレームワーク化したがりますが、感性ってそこにうまくはまるものじゃなかったりします。特に自分が『これは!』と感じた言葉やビジュアルなどを、ホスピタリティマインドを持って、誰のために、何を提供するといったかたちに変え、マネジメント、プロデュースしていく。それがすごく重要なんです」。今回は、そんな楠本氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<楠本修二郎をつ くったルーツ1>
博多の中心地と海辺の町を満喫した少年時代。米軍基地と博多港からさまざまな影響を受ける

 僕が生まれたのは1964年、東京オリンピックが開催された年です。育ったのは福岡県・福岡市で、父は元々炭鉱会社で勤務し、転職後も一貫して労務管理の部署に勤務するサラリーマン。九州男児を地でいくような頑固親父でしたが純情でロマンチストでした。小学2年までは市内中心地の小学校に通っていたんですが、父がいきなり「海辺の町に引っ越す」と宣言。で、海の中道、西戸崎(さいとざき)地区へ。その当時、このあたりは完ぺきに漁師町で、小高い丘にできたばかりの分譲エリアに家をぽつねんと建てたんです。「何がきっかけとなってカフェビジネスを?」とよく聞かれます。いろんな体験や経験が集まって今があるわけですが、この海辺の町で過ごした少年時代の原風景も、今の仕事に多少の影響を与えているとは思っています。

 博多湾に面した側に家があって、北側には玄界灘が。近くに米軍キャンプとその住宅地が広がっていて、いわゆるアメリカな雰囲気がありました。ただ、美しい砂浜が続く玄界灘までたどり着くためには、フェンスを越えなければならず、友人たちと鉄条網をくぐり抜けて外海の側まで冒険する。なぜか、それが僕らの使命のように感じて(笑)。パトロールしているSPに、捕まったこともありましたね。キャンプ内にある家々の壁は、オレンジやブルーのペンキで塗られていて、そのペンキが剥げ落ちていい具合の風情を醸し出している。子ども心に、かっこいいなあと。で、それらの家々が夕日に照らされてピンクに染まる幻想的な風景も大好きでした。あと、空き家となったハウスを見つけてアジトにしたり。そこに残されたポスターやステッカー、落ちていたコインなど、アメリカの匂いのするものにたくさん触れていたんですね。

 小学5年、今度は父が「街に戻るぞ」とまた引っ越しを決定。兄の高校受験の準備が理由でした。「またかよ……」と思えども、仕方ありません。赤坂小という市街中心部の学校に転校したわけですが、すぐに馴染んで、スケートに行ったり、映画を見たり、楽しく過ごしていました。あと、大濠公園で出会った自転車で世界一周を経験したおじさんに感化され、自転車部をつくって、仲間でキャンプがてら旅に出たり。ちなみに、小学校の卒業文集に書いた「10年後の私」では、「大学生になって、ヨットに乗っている」。「20年後の私」には、宇宙戦艦ヤマト的な船とひげ面の艦長みたいな絵と共に「船長になって世界の海を旅している」と記しています。その頃の博多港は日本でも有数の貿易港で、世界中の船が集まっていました。そんな光景を見て育ちましたから、自然と海外への思いがふくらんでいったのでしょう。

<楠本修二郎をつくったルーツ2>
仲間たちとやんちゃをしながらすごした中高時代。
修猷館高校から1浪を経て、早稲田の政経学部へ。

 中学は天神の裏手、繁華街の近くにある、公立中学へ。そうそう、父は会社勤めしながら、実業団の剣道部の監督をしていましてね。僕には兄と姉がいますが、楠本三兄妹といえば地元の剣道界の中ではけっこう有名だったんですよ。でも、僕は理由なき反抗というか、中学ではサッカー部へ入部してました。まあ、最終的にはサッカー部と剣道部を掛け持ちして、剣道部では部長を務めました。このあたりは剣道がとても盛んな地域。創部したての剣道部でしたが、区大会2位の成績を残しました。それなりにやんちゃもしましたが、勉強のほうもこなしていまして、県立高校では県内トップの修猷館(しゅうゆうかん)高校に進学することができました。

 兄も修猷館高校で、僕が入学した年に卒業しています。彼は剣道部の花形選手でしたから、当然僕も剣道部に入るだろうと思われていたようですが、中学と同じくサッカー部へ。オランダのサッカー選手、ヨハン・クライフが憧れの選手でした。ただ、高2で股関節を脱臼し、その影響が膝にきて、サッカーを続けることができなくなった……。部活動に関しては、挫折してしまったんですよね。これは心残りでした。ライフスタイル的には、基本、バンカラをとおしていました。柔道の袴をはいて、上着はTシャツ。下駄履きで学校に通っていましたからね。そうそう、修猷館の運動会って地元でもかなり有名で、すごい盛り上がりを見せるんです。3年の10月までは準備で大忙しで、さらに本番後の打ち上げが毎夜毎夜1カ月も続くという。その間はずっと、僕は仲間と天神のお店で夜を過ごしていましたよ(笑)。

 そうこうしているうちに受験の時期が近づいてきます。修猷館では1浪が普通の世界でしてね。まあ、僕の成績は450人中、444番の体たらく。数学の試験では、200満点中の2点を取った時もありました。そんなですから共通一次は早々にあきらめ、私学狙いに絞った。担任の先生からは、「おまえは何浪しても受かるわけがない」と言われるほどのダメぶりです。見返してやろうと必死で勉強し、早稲田大学の商学部ならいけるかも!というところまで準備を進めていったんです。で、試験の前夜と当日の朝、気合いを入れるために映画「ロッキー3」のテーマ曲、「アイ・オブ・ザ・タイガー」をずっと聴いていました。でも、試験開始直後から、ぐるぐる、ぐるぐると、その曲が頭を離れなくなって……。結局、試験に集中できず、不合格。あまりに悔しくて、浪人中は毎日10時間の勉強を自分に課し、音楽断ちもしました(笑)。その結果、翌年無事に早稲田大学政治経済学部経済学科に合格できたというわけです。

<不動産デベロッパーに就職>
新たな商流を創出する場づくりを志すも、配属されたのは広報室と社長室

 大学では経営マネジメントのゼミも専攻しましたが落ちこぼれ。「491」という企画集団サークルに所属していました。早稲田の学生ではありましたが、大学にはほとんど行かず、早稲田にいるとすれば「ビームス」という名の喫茶店にたむろ。西日が当たる店のお気に入りのテーブルをサークル仲間で占領し、コーヒーを飲みながらバカげたアイデアフラッシュを日がな繰り返すという。あとは、六本木、原宿、渋谷界隈にあるブルースのライブハウス、ショーパブ、レゲエバー、クラブなどの飲食店を手伝う日々を送っていました。そういえば、在学中に「ビームス」は潰れてしまった。考えてみれば、奥の席にあまりお客が入っていませんでした。今、カフェを運営する側の立場になって思えば、僕たちがコーヒー1杯で1日中粘っていたから……。それが理由だったのかもしれません(笑)。

 大物レゲエアーティストが訪れる六本木にあった伝説のレゲエバー、「ホット・コロッケ」でもいろいろ企画のお手伝いをしました。当時はレゲエなんてまだまだマイナーなジャンルでしたが、「ジャパンスプラッシュ」というレゲエライブイベントの企画のお話をいただいたんですよ。1年目はスカスカでしたけど、2年目から大ブレイクして。会場も「よみうりランド・イースト」から、晴海の広い屋外会場に移転。多くの人が集う既存の空間に新たな商流をつくる活動に面白みを感じていました。また、学生時代には、パリ、ミラノ、アジア、アメリカなど、多くの国を旅しています。シンガポールの屋台街とか、ロスの西日が当たる古びたカフェとか、人が集まる場所って国は変われどもやっぱりいいなあと。そんな場づくりの楽しさを、ビジネスとして経験しておくために、不動産デベロッパーに行こうと考えるようになりました。

 で、僕はリクルートコスモス(現・コスモスイニシア)に就職します。財閥系のデベロッパーのOB訪問もしましたが、コスモスは若い人たちが生き生きと自由に働いているイメージがありましたから。入社後は企画系の仕事に就きたかったのですが、配属されたのは社外広報部。テレビCMの制作を担当したり、社長のスピーチ原稿を書きまくったり。でも入社した年の6月に、未上場株の譲渡が問題となったリクルート事件が起こって、僕は社長室に移動となり、社長秘書に。それからの3年間は、社長のカバン持ちをする日々ですね(笑)。ある弁護士さんから、「楠本君は一生トラブルに巻き込まれ続けるタイプ」と言われたことを覚えています(笑)。

<大前研一氏との出会い>
地域活性化のため日本全国47都道府県を行脚。
ビジネスとは違ったコミュニティの原点を垣間見る

 コスモスの社長秘書を経験した後、1年間だけ営業職を担当しました。けっこう売り上げを挙げて、優秀営業にもなりましたが、マンションを売る仕事がやりたくてここに入ったわけじゃなかった。また、同期入社の仲間たちが、どんどん独立していきます。そして自分を振り返ってみた時、まだ独立できるほどのキャリアを積んではいないなあと。そこで修行のやり直しをしなければと考え始めた頃に、ある知人を介して大前研一さんを紹介され、大前研一事務所に入所することになります。

 日本を地域から元気にしようと、全国47都道府県を旅して回りながら、事務所の会員である経営者、会社員、学生など、幅広い属性、年齢の方々と目線を合わせたコミュニケーションを続けました。僕は博多から東京に出てきた人間でしょう。その当時は、故郷を捨ててやってきたような気でいたんです。田舎を取るか、東京を取るか、みたいな。でも、実際に全国を回ってみると、僕が知らなかった地方文化、言葉、食べ物、気候などなど、いろんな地域特性があって、それらが混じり合って日本という国が存在していることを改めて実感。全国にどんどん仲間が増え、ビジネスとは違った意味で、コミュニティの原点を垣間見れた活動でした。

 大前さんは誰もが知るカリスマでしたが、常に辞表を懐に忍ばせて仕事する覚悟で臨みました。だからこそ、いい仕事ができたのだと思っています。ただ、1995年に大前さんが都知事選への出馬を決めたその時点で、お暇させてもらうことにしました。「大前さん、飲食店をつくって独立したいのです」と。当然ですが、大前さんは「お前、何言ってんだ?」と驚かれました。でも、いろんな地域にある街の風景の中に飲食店を置くことで、新たな商流やコミュニティを生みだす化学反応とでもいうのでしょうか。そんな仕事にチャレンジする気持ちが抑えきれなくなっていたのです。

●次週、「感性の場づくりで人、街、地域を元気に! 魔法のカフェのつくり方」の後編へ続く→

原理原則はコミュニティの企画デザインと運営。
感性の場づくりは、カフェという名の店舗となる

<カフェ・カンパニー、起業>
地域に適したスタイル提案で、共感が生まれ、感動と賛同が増え、コミュニティへと発展

 最初に手がけたのは、中華料理をモチーフにした飲食店。友人との共同経営でした。お互いに求めるものが違ったまま走り出してしまったこともあり、このビジネスは、3店舗まで増やした時点で第三者に売却して終了しました。その後は、いろんなことにチャレンジするという意味も含めて、いくつかの会社の役員をしたりと、さまざまなことに取り組み、その中で、貴重な出会いもたくさんありました。そんな頃、「渋谷と原宿をつなぐキャットストリートの開発を手伝わないか」という話をいただきました。
自分が本当にやりたいことって、短期刈り取りのビジネスとしての成功というより、もっとゆるいものだったことに気が付いてました。価値創造は、時間をかけてしっかりと創っていくもので、すべてがビジネスの方程式に当てはまるわけではないと思います。だからこそ、まずは「キャットストリート」という街の活性化を、自分なりの価値観で捉えてみようと思いました。それがアパートの一室を改装したカフェにつながった。その成功が縁となって、盟友・入川秀人と「WIRED CAFE」の開業へ。そうしたら、僕たちの開発手法が東急電鉄さんの目にとまり、「東急東横線の高架下の開発案件がある。プランを出してくれないか」と。当初は企画の提案をして、企画料をいただく算段でしたが、なんと僕らのプランに決定。「え? 運営は誰がやるの?」って感じでしたが、「ありがとうございます。やらせていただきます」と即答(笑)。そこから、人集めと資金調達を本格的にスタートし、今の会社を立ち上げたというわけです。

 ブームは、いつか廃れるのが必然。デベロッパーに勤務していた頃、なんでみんな土地価格が右肩上がりで上昇することを疑わないのか? 店舗ビジネスはなぜ何百店舗という多店舗化を目指してしまうのか? 国内の人口は確実に減っていくのに……など、常に何かがおかしいと考えていました。だからこそ、自分でやると決めた時に、非常識と言われようが、世の中の真逆をしっかり見ながら、僕たちだからこそできる飲食店のかたちを追求していくと決めました。あえて言えば、今も使っているキーワードですが「Style makes your Community」、「Community Access For Everyone」=「CAFE」。ブームではなく、その地域に適した新たなスタイルを提案することで、共感が生まれ、感動と賛同が増え、それがコミュニティを形成し、永続性につながっていく。2001年10月にオープンした高架下のプロジェクトの名称は「SUS(シブヤ・アンダーパス・ソサエティ)」。地域・センス・ビジネスという、3つのコミュニティをミックスさせる場づくりを目指しました。

<縁側のような場>
カフェはメディアであり、インフラでもある。そして次代の日本に必要不可欠な集い場

 何でもそうですが、初めて手がけることって、みんなが素人。最初の最初は「へっぽこ」でも仕方ないと思っています。ただ、僕たちの存在意義って、ある意味、真空管のようなもの。特別な武器はないかもしれないけど、しっかりとした編集はできるという。立地や場の見極め、風景、地域のリレーション、店舗、デザイン、飲食、音楽、サービスなどなど、その場と時代に合った最適のスタイルに編集していく。そしてサスティナブルな状態を思考しながら、常にその最適化編集の努力を続けるというわけです。2001年のスタートから、これまで、カフェ・カンパニーでは43店の直営店舗をつくり出してきましたが、その背景には43とおりの新たなライフスタイル、新たなコミュニティを生みだしてきたという結果を残すことができています。ここまできてやっと、僕たちも「時代ってこんな感じだよね」と語れる資格が得られたかなと(笑)。

 僕らが扱う言葉としてのカフェは、単なるコーヒーショップとしてではありません。もしかしたら、その場にふさわしい食堂であったり、打ち合わせの場であったり、居酒屋の代わりだったり、ある時はまさにコーヒーショップだったり。僕はよくカフェを縁側にたとえるんですけど、縁側って日本の原風景としてたびたび取り上げられ、また「内・中・外」という重要な日本建築のコンセプトの象徴といえます。そして、明確な区切りのない曖昧な空間でもあるしょう。効果的に景色を取り込みながら、多様性あふれるコミュニケーションの場を演出している縁側。僕らが考える地域に根差した新しい"生活提案の場"としてのカフェ、この双方、意外につうじるものがあると思っています。

 また、カフェはメディアであるとも思っています。地元の方から、近隣のビジネスマン、学生やクリエイターまで多様な人々が集う場所です。さまざまな人が来店してくれ、気にいってもらい、同じような感性を持ったお客さまが増えていくと、先ほども話した共感が始まります。価値の共有ということですね。そうなると自然にいろんな"企み"が発生していくんですよ。たとえば、うちのカフェから発生した、暮らし提案、インテリア、食育、音楽、ファッション、スポーツに、あとはマンガとか。それは新しい商品であったり、新しい店舗であったり、新しいサービスであったり。新しい命を生み育てるための、酸素発生装置のような(笑)。そういった意味では、カフェは次代の日本に必要不可欠な社会インフラなのかもしれません。「よくわかんないんだけど、あそこに行けば新たな価値が生まれるみたい。でも、行ってみなければわからない」というような(笑)。

<未来へ~カフェ・カンパニーが目指すもの>
元気で、やさくしくて、かっこいい国・ニッポン。そんな国になるためのインフラをつくり続ける

 僕たちのカフェは、単なる業種業態としてのカフェではなく、インフラ産業だから「カフェブームもそろそろ終わりじゃないですか?」というような質問をする人には、「はい。カフェやっても儲からないですよ」と答えることにしています。仮に1店舗でいいのなら、その場の特性や、やりたいことにこだわることで、いい店ができるとは思います。ただ、インフラづくりを前提としたこの仕事は、今後ますます重要な局面を迎えることになるでしょうね。今、代々木公園をコミュニティプレイスにしようとしているんです。「バカなこと言うな。公園はもともとそうだろう」と言われるかもしれませんが、まだまだできることはある。商業施設もそうです。売り場という発想を取っ払って、もっと集い場にするべきなんです。駅ビルがコミュニティプレイスになっていけば、街はもっと元気になります。それが駅の原風景なんですから。

 僕らがやっている仕事の原理原則は、コミュニティの企画デザインと運営です。この両方がないとできない、続いていかない仕事なんですね。少なくともこの両方があると、社長が楽です(笑)。「ほらほら、あの時に見たあれ、良かったじゃん」とスタッフに話すだけで済みますから。だから、わざとそういう言い方をすることも多いです。みんな仕事をフレームワーク化したがりますが、感性ってそこにうまくはまるものじゃなかったりします。特に自分が「これは!」と感じた言葉やビジュアルなどを、ホスピタリティマインドを持って、誰のために、何を提供するといったかたちに変え、マネジメント、プロデュースしていく。それがすごく重要なんです。そんな感性を大切にしながら、今、僕たちも感新しい音楽ビジネス、アパレルビジネスなどに挑戦していこうとしている。日本って、やっぱりものづくりの国なんですから。

 そんな感性を育てていく土壌をつくるためには、どんな仕事の仕方、生き方が望ましいのか? これが今、日本人が問われている最大の課題だと思うんです。ライフスタイルを豊かにするさまざまなアイテムとカフェとの連動性の中で、都会の人も地方の人も同じような目線で人生がぐっと楽しくなる。元気で、やさくしくて、かっこいい。そんな日本になれば、結果的に世界からリスペクトされるライフスタイル立国になれるでしょう。今後もインフラ、装置として直営店の展開を拡大しつつ、地域を活性化したい志を持つコンテンツホルダーとコラボしながら地方の展開も進めていきます。たとえば、京都の「IYEMON SALON KYOTO」は、サントリーさん、福寿園さんとの共同プロジェクトです。日本人が育んできた素晴らしき文化を、これからの未来へ、そして世界へ伝えるライフスタイルコンンテンツとしてリブランディングしたい。そんな熱い思いを持ったコンテンツホルダーと、新たなコミュニティを創出し、ライフスタイルが広がっていく場づくり。そんな仕事をこれからも継続していきます。

<これか ら起業を目指す人たちへのメッセー ジ>
20代、30代、40代それぞれの役割がある。
いずれにせよ今の日本は起業するなら大チャンス!

 僕は今の20代の日本人に本気で期待しているんです。何かこう、「お、弾けてきたかな」と。今、ほっこりしたカフェではなく、メッセージ性の強いカフェをやり始めてもいいかなと思っているのも、若い子たちを見ていて思ったことなんです。「寄らば大樹って、もうダメだろ」っていうのをリアルに感じて、もう自分たちでやらなきゃというのがわかってきたのかな。いずれにせよ、若いうちって知識や経験が少ないから勇気がある。どれくらいハードルや壁が高いのかもわからないからチャレンジできる。失敗もできる。僕も20代の頃は失敗と挫折の連続でしたから。それがとても大切な財産になる。ただし、若かりし頃に失敗したことを感性に生かせる知能は25歳まで。あとは下がっていくだけ。で、30代からは総合的な能力・判断力が身に付いてくる。僕が社長をできているのも、20代の失敗も含めた強烈なインパクトと、30代で学んださまざまなことが混じり合っているから。そんなものが今を支えてくれているということ。

 だからこそ、20代でチャレンジしておかないと、涙を流しておかないと、汗をしっかりかいておかないと、パッションや喜怒哀楽でガッと感じられる大切な瞬間ってわからないんですよ。そういったことに素直に向かっていけるのって20代しかないと思うんですよね。何でも練習しないと強くならないのと一緒です。若ければまだやり直しが効きますしね。そうしておかないともったいないですよ。今、20代に限らず日本人にとってものすごいチャンスの時代が訪れているんです。僕は、本気でそう思っています。100年に一度の危機とかいわれていますが、裏を返せば100年に一度のチャンスともいえるわけでしょう。ずっと変わらなかったものが揺らいでいる、揺るがすことができるんですからね。

 40代は本気でリーダーシップを取りにいかないといけないと思います。今、目先の利益のために動くのは本当のリーダーではありません。自分ごとよりも、これからの国家100年づくりに参加することが重要。その礎づくりに自分も参加できたと、死に際に思える自分になることが、私も含め40代のリーダー課せられた使命だと思います。具体的には後に続く人を、国家ビジョンを、その成長戦略を健やかに育むことに注力すべきです。そして30代の人たちは、ネットワークの世代だと思います。ただ、なぜか二番手に収まる人が多く、ピンで立つ人が少ない。もっとささくれろと言いたいですね。また、40代に近いわけですから、「もう、今しかないぞ」と(笑)。ネットワーク的な横のつながり力は素晴らしいのだから、もっと縦の突破力を鍛えればいい。サッカー日本代表の弱点みたいですけど(笑)。いずれにせよ、今は起業のチャンス。日本の明るい未来のためにも、たくさんの挑戦者が生まれることを願っています。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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